【 かけがえなきもの 】
◆HkDez0eBAE




76 :No.26 かけがえなきもの 1/4 ◇HkDez0eBAE :08/02/24 23:26:56 ID:jZBIcH1D
 あいつ、また猫と遊んでるな――公園を見ながら、道彦はぼんやりそう思った。
 道彦の住むアパートは、住宅街に建っている。三階の窓からは近所の様子がよく見えた。小さな公園が目の前
にあるためか、たいして住民もいないこの一画には意外に多くの人がやってくる。
 道彦は、地元から少し離れた大学に通っている。授業のない日、道彦は部屋から見えるの様子をこうしてよく
眺めているのだ。
 犬を連れた二人の女性が、狭い道ですれ違おうとしていた。歩みを緩め、互いに軽く挨拶をする。子犬の方が、
大型犬に吠えかかる。慌ててロープを抑え、犬を叱る飼主。ゴミ袋を啄ばんでいたカラスがぱっと飛び立ち、ま
た戻ってビニールを突っつき始める。小柄な主婦が、大型犬に引っ張られながら公園に入っていく。
 少年は相変わらず、砂場で三毛猫と遊んでいる。ピンク色のゴムボールを、前脚でころころと転がす猫。少年
はしゃがみこみ、飽きもせずにそれを見ていた。少年の家で飼っているのか、よほど人に慣れているようだった。
道彦は羨ましかった。実家では猫を飼っていたが、道彦にはなつかぬままふらりと何処かへ行き、二度と戻って
こなかった。
 不意に、一陣の風が吹いた。公園の楓の梢が揺れる。中途半端な紅色に染まった木の葉を、西日が照らし出し
ていた。
 道彦は、二ヶ月ほど前のことを思い出した。

     *     *     *

 尚美の入院を知ったのは、中学の同窓会でのことだ。
 先天性の病気を持っていることは知っていたが、同じクラスにいた頃は特に気にしたことも無かった。時々体
育の授業を見学することはあったが、欠席日数も人並みで、病弱という印象はない。
 なにより、明るい性格だった。休み時間になると、親友の瑞希とどうでもいい話をしてけらけらと笑う。
 教室のベランダから見える、銀杏の並木道。アスファルトと木の葉にまぶしい陽光が照り返す。慈しむような
柔らかい反射光の中で、尚美はいつも笑っていた。
「もう、自分じゃ歩けないんだ」
シャンディガフの残ったグラスを片手に、瑞希は言った。声は沈んでいた。
 病状が急激に進行したのは高校生の時。病名は、よく分からない。原因は遺伝的なものらしいが、両親は共に
健康だった。現代の医学では原因、治療法ともにはっきりしないという。
「信じられないな。あんなに元気だったのに」

77 :No.26 かけがえなきもの 2/4 ◇HkDez0eBAE:08/02/24 23:27:12 ID:jZBIcH1D
「私だってそう。話を聞いた時は、耳を疑ったもの」
 二次会会場のバー。テーブルではかつての同級生たちが盛り上がっていた。交互に飛び交う、近況と昔話。笑
いが起こるたび、空白だった時間が埋められていく。その笑い声も、道彦の耳にはなんとなく乾いて聞こえた。
 道彦と瑞希は、カウンター席に並んで座っている。七年ぶりの再会の席に、尚美はいなかった。一次会ではそ
の理由を聞き出せず、人数の減った二次会で瑞希に近づいたのだった。
「これからどうなるんだ。寝たきりってことなのか?」
「ううん。車椅子なら大丈夫みたい。けど、それもいつまでもつか分からないみたいなの」
瑞希の声が、つれて曖昧になっていく。もうたいして中身のないグラスを、ちびちびと何度も口元に運んだ。
「会いに行くか」
不意に、道彦が言った。自分でも意外な言葉だった。瑞希も驚いた。
「本当? 辛くなるかもよ?」
「誰が」
道彦は一笑に付して、ウィスキーのグラスをあおった。氷はとっくに溶けてしまい、水の味しかしなかった。

 病院を訪れた日は、蝉の声が特にやかましかった。地元に帰ると、いつも面食らうのはミンミンゼミの大合唱
だった。大学のある街とは百キロ程しか離れていないのに、こちらにくると空気までがべとついているように思
える。
 六人部屋の病室は、ひんやりとしていた。鼻をつく独特の匂い――薬品なのか何なのか。小汚いブラインドが、
大きな窓の光を切り刻んでいる。その細切れの影の中に、ベッドから半身を起こしている尚美の姿があった。
「お久しぶり」
尚美は、微笑を浮かべていた。背後に教室のベランダが見えるような気がした。ただ血液が変色したかと思える
顔色が、あの頃の尚美とは異なっていた。
「意外ね、みっちが来てくれるなんて」
「二度と会えなくなるんじゃないかと思ってな」
「ひどいんじゃない? ホントは、二度と会いたくないと思ってたりして」
憎まれ口も、あの頃のように軽くかわしてくれる。それがかえって、道彦の胸を締めつけた。
「尚美……」
「瑞希、いつもありがとね。みっちをここに誘ったの、あなたでしょ?」
尚美の視線にかすかに非難の色が見えて、瑞希は口をつぐんだ。
「いや、俺が言い出したんだ。同窓会で会えなかったからさ」

78 :No.26 かけがえなきもの 3/4 ◇HkDez0eBAE:08/02/24 23:28:20 ID:jZBIcH1D
道彦が口を挟む。尚美はただ笑顔を向けた。
 隣のベッドは空いていた。窓には風鈴が、黙ってぶら下がっている。瑞希は誰もいないベッドにどかりと腰を
下ろした。道彦はパイプ椅子を引き寄せ、静かに座った。
「座るって感覚、忘れちゃったな」
尚美が呟いた。いつのまにか外を見ている。
「普段立っているから、座ると楽なのよね――最後に『座った』のって、いつだったかな」
道彦は思わず立ち上がりかけた。何も言えなかった。いったい何をしにここへ来たのかと思った。
「誰が悪いってわけじゃ、ないのよね。ただ、私がそうだったってだけ」
蝉の声が、力尽きたように止んだ。
「生まれ変わったら、ガゼルになるんだ」
尚美の声は、居たたまれないほど透き通っていた。風鈴が鳴る。病室の中で重なり合う余韻は、教会で聞くコラ
ールのように頭に響いた。
「馬とかじゃ駄目なのか」
道彦が言う。用を成さなくなった尚美の脚を、真っ白な毛布越しについ見やった。
「馬は柵の中から出られないじゃない? ガゼルだったら、サバンナの中を何処までだって走っていけるわ」
尚美の視線が窓に向く。汚れたブラインドの隙間から、その目は遠い遠い大草原を見ているのかもしれない。道
彦はそう思った。
「ライオンに食われるかもしれないぞ」
「その時は諦める、自然のルールだもん。でもこうやって思い通りに動けないまま朽ちていくよりは、ずっとマ
シでしょ」
 瑞希にも道彦にも、返す言葉がなかった。

     *     *     *

 地元から戻ってくると、秋だった。道彦はそんなふうに感じた。

 ある日の夕暮れ。道彦はいつものように自分の部屋から外を見ていた。
 砂場の近くに、いつもの少年がしゃがみこんでいる。今日はランドセルを背負っていた。猫はいなかった。道
彦は部屋を出た。
 公園に他に人はいなかった。砂場の近く、土の見えている草むらに少年はいた。シャベルを右手に持ち、足元

79 :No.26 かけがえなきもの 4/4 ◇HkDez0eBAE:08/02/24 23:29:08 ID:jZBIcH1D
の穴に一心に土をかぶせている。
 道彦はそっと近づき、穴の中を覗き込んだ。半ばまで土に埋もれた、三毛猫の体が見えた。その側には、ブリ
キで出来たレトロなロボットの玩具が添い寝していた。
 道彦は声をかけてみた。猫はどうしたのかと聞いた。
「車に轢かれちゃった。だから、お墓つくってるんだ」
少年は「作業」を続けながら答えた。
「ロボットも一緒に葬ってあげるのかい?」
「ううん。ロボットは死なないもん。だから、今度はロボットになって欲しいんだ」
 道彦は、その場を後にした。
 夕陽が少年の背中を照らす。長く伸びた影法師を見て、道彦は思わず自分の右手に目を移した。中指の付け根
に一つ、小さな黒子があった。


<了>



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