【 Mare Fecunditatis 】
◆jnvLTxNrNA




65 :No.23 Mare Fecunditatis 1/4 ◇jnvLTxNrNA :08/02/24 23:06:21 ID:jZBIcH1D
「もう、会えないよ」
 ちぃちゃんのあの時の声が、何度も私の中でこだまする。あえないよ。あえないよ。あ
えないよ。
 なんで、って答えようとした私の喉は、あの時どうしても震えてくれなかった。
 小さくて、優しくて、マシュマロみたいだったちぃちゃん。
 ベッドの中でぎゅっと私を抱きしめてくれた、女の子らしいか細い腕、やわらかい手の
ひら。
 彼女のことを思い出すと、また泣き出したくなってしまって、あたりかまわず泣きさけ
びそうになってしまって、人通りの多い往来から細い路地に走りこんで、私はしゃがみこ
む。
 ちぃちゃん、ダメだよ。私ちぃちゃんがいなくっちゃ、ダメだよ。ダメだよ…。
 ぽたぽたアスファルトに落ちる涙を五十滴数えてから、白いハンカチで目頭をぐっと押
さえる。急にこうなることがわかっているから、アイメイクは簡単なもの。ピンクのラメ
が少し、ハンカチを汚した。汚れを内側にしてたたみ、バッグにしまって、勢いつけて立
ち上がる。ちぃちゃんの真似。彼女の動作は、いつも機敏だった。思い出して、また鼻の
奥がツンとなる。もう一度五十数えてしまいそうになる前に、グッと顔を上げて、私は路
地を抜け出した。

66 :No.23 Mare Fecunditatis 2/4 ◇jnvLTxNrNA:08/02/24 23:06:41 ID:jZBIcH1D
 昼間の電車は、遠足みたいな、非日常的な期待と不安をはらんでる、といつも思う。平
日のこの時間に下りの電車に乗り込む人たち、みんなどこか、世界の引力から取り残され
たような、あえて抜け出したような、そんな顔をしている。私もちぃちゃんも、同じよう
な顔をしていたんだろう。
 初めて出会った時の図書館、白く小さな手が、おそろしく古めかしい、焦げ茶色の表紙
をめくっていたことを思い出す。その儚さに、思わず息を飲んでしまったことも。ちぃち
ゃんはそこにいるだけで、周りの人に、心臓がぎゅっと真綿で締められるような、ぼんや
りとした切なさを感じさせた。私も、その胸の痛みを感じた、一人で。
 彼女と抱き合っていると、いつも悲しかった。世界は私たち一人一人を、きっぱりと分
断しているんだと。溶け合うことはできないんだと。そうまざまざと実感させられて、た
だただ苦しく、悲しかった。皮膚一枚が、私とちぃちゃんを隔てた。
 私はちぃちゃんになりたかったのだろうか? 自分に問うてみることがある。答えは、
完全なる、ノーだ。ちぃちゃんが、私と違ったから、私はちぃちゃんを求めた。硬い身体、
女らしさのかけらもない、あばらの浮いたわき腹、むね。ちぃちゃんがぬくもりをもった
ぬいぐるみなら、私は生命を感じさせないアンティークドールだった。だから、彼女の体
温を欲した。
 ちぃちゃんのもつ切なさは、母性と幼さの、あやういバランスだったのかもしれない。

67 :No.23 Mare Fecunditatis 3/4 ◇jnvLTxNrNA:08/02/24 23:07:00 ID:jZBIcH1D
 その無人駅に降りたのは、私だけだった。ドアが開いた瞬間、潮の匂いが一気に私の周
りを包みこんだのに驚く。切符を回収箱にそっと入れ、駅舎から出ると、私は案内板の表
示に従って、海を目指した。
「秋の海水浴場は、いたわりの色をしてるよ」
 ちぃちゃんが言っていた、その風景を見てみたかった。浜育ちの彼女は、海の夏以外の
顔も知っていた。そのことを教えてくれた時の憂いを帯びた瞳が、脳裏に鮮やかに浮かび
あがってきて、また泣きたくなる。
 歩き続けると、だんだんと波の音が聞こえてくるようになった。子どもの頃以来の海の
気配、その時とは別の海なのに、なぜか懐かしさがこみあげてきて、私は駆け出していた。
コンクリートの階段を、もどかしくあがる。
 海だ。
 一面の海。
 真夏の青一色のそれとは全く違った、枯れ草と、砂と、濁った波の景色。
 誰一人いない、初めて見る海の姿。
 私は、眼下に広がる光景に、立ちつくした。
 不思議と、寂しさは感じない。同じリズムで訪れる波の音、その一回一回が刻まれるご
とに、胸の痛みがひいていく気がした。
ああ、この海は今の私と一緒だ。私と同じ、荒れて、汚れて、すさんで、みんな離れて
いって、それでも何かを待って、そこにいる。そこにいて、時が流れるのを、じっと待っ
ている。あなたが来るのを、ただずっと、待っている。
「アイ……」
 呼ばれて、ゆっくりと、振り向いた。いとしい人の憂いを帯びたその瞳を、私は見つめていた。

68 :No.23 Mare Fecunditatis 4/4 ◇jnvLTxNrNA:08/02/24 23:07:13 ID:jZBIcH1D
「来ちゃったんだね」
 波打ち際まで、ゆっくりと歩を進めながら、ちぃちゃんは寂しげに笑った。メール見て
くれたんだ、と乾いた声で聞くと、小さくこくんと頷いて、そして
「もう会わないって、決めたのにね」
と、また悲しい笑顔を見せた。私は、もう、わきあがる感情をおさえることができなかっ
た。思い切り、力をこめて、ちぃちゃんを抱きしめた。
「…アイ……」
「ちぃちゃんごめんね、私がまんできないよ。いっしょにいたい。幸せにできなくても、
どうしても、ちぃちゃんといっしょにいたい」
 腕の中のちぃちゃんは、泣き出しそうな顔をして、私を見上げている。
 わかってる。私たちの関係が、世間に認められないものだっていうことは。そして、ち
ぃちゃんが何よりも家族を大切にしてるっていうことも。大切な家族のために、ちぃちゃ
んが全部を諦めてここにいるってことも。
 だけど、私は、もうちぃちゃんなしでは生きられないようになってしまっている。ちぃ
ちゃんがいるから、息ができる。心臓が動く。目が見えて、いとしい人の顔を見つめるこ
とができ、腕が動いて、彼女を抱きしめることができる。耳が聞こえて、すすり泣くか細
い声を感じ、唇がやわらかく動き、その涙を受け止めることができる。
「アイ、私も…」
 ちぃちゃんの言葉を、唇でふさいだ。私たちの足元まで、波が打ち寄せている。このま
まずっとこうしていたら、海が私たちを包んでくれるだろうか。どうしても一つになれな
い私たちを、海がひとつにしてくれるだろうか。
 私を見つめるちぃちゃんの瞳が、この海のように深くって、私はやりきれない思いでも
う一度彼女を抱く腕に力をこめた。



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