【 鬼畜 】
◆5GkjU9JaiQ




40 :No.15 鬼畜 1/4 ◇5GkjU9JaiQ:08/02/24 19:49:26 ID:WHNdezT9
 その鬼は、険しき山岳の中腹に棲んでいた。霞の中に居を構え、悠久とも知れぬ時を、
独りそこで過ごしている。何が故に、と言うわけではない。ただ、鬼は在るべくしてそこに居る。
 時折、麓の村の人間や巡礼者、流浪の人等が彼の地を訪れることはある。しかしそのよ
うな人々も鬼の姿を見るや、例外なく怖れおののいて逃げ出していくのである。人より大
きいその体躯、厳めしい顔付き、額に根を生やした角。地獄の業火を思わせる肌の赤。
 鬼は、空を眺め、麓を見下ろし、たまに思索する。何故、俺は鬼なのだろう、と。

 ある雨の夜、彼の棲む洞穴に旅人が訪れた。盲目の年老いた三味線弾きである。
「一晩ばかり、雨をしのぎたいのですが」
 三味線弾きは穏やかな微笑を浮かべ、そう言った。
「俺は鬼だ。それでもいいなら構わんが」
 鬼は答える。三味線弾きは驚く様子もなく、構わないと言った。
 しとしとと途切れなく降り続ける雨の音が響く。時折、三味線弾きは何もない洞穴の天
井を眺め、膝に乗せた三味線を撫でる。鬼はその様子を黙って見ながら、首を傾けていた。
 鬼だから怖い訳ではないのか。
 鬼は自分の他に鬼と呼ばれる者が居るのかどうか、知らぬ。そもそも彼自身が鬼だと言
うのも、人が彼を見て鬼だと呼ぶからこそ、知ったのである。
「俺が怖くないのか」
 鬼は、ふと聞いた。三味線弾きはその言葉に顔を向ける。
「はい」
 短く答え、再び視線を落とす。
「人は何故、俺を怖がる」
 鬼は聞く。三味線弾きは暫く黙っていたが、やがてゆっくりと三味線を起こし、撥を手に取る。
「鬼だから――人と違うから、ではないでしょうか」
 ぼん、と低い音が洞穴に響く。ぼん、ぼん。
 音の調子を確め、弦を巻き、弛める。その余韻が暗く狭い洞穴に、不気味に、虚しく残る。
「お前は、何故俺を怖れない」
 鬼は三度、聞く。
「私には、何も見えません」
 三味線弾きは、静かに答える。

41 :No.15 鬼畜 2/4 ◇5GkjU9JaiQ:08/02/24 19:50:16 ID:WHNdezT9
「違いが分からなければ、怖れる理由もございません。
 そもそも、人が鬼を怖れる根拠が分かり得ないのです」
 撥を収め、老人は三味線の棹を膝に置いた。洞穴は再び、雨の音だけの世界に戻る。
「何も見えぬ、か」
 鬼は静かに呟く。
「暗闇の世に生き、曲を奏で、何が楽しいのだ」
「見えぬ世界には、音しかありません。盲人が世の人々と繋がるには、音しかないのです。
 そして、人々がそれを必要とする限り、私は生き永らえることが出来るのです。それ以
 上の何かは、私には必要ありません。また、望むべくもありません」
 三味線弾きは、穏やかに語る。それを受け、鬼は頷く。道理である。
「ならば俺のこの、人と違う体も、人々に怖れられる為に――在るのだろうな」
 三味線弾きは、それには答えなかった。そして、棹を起こし、再び彼は撥を取った。
 宵の山中に、三味線の音が響く。抑揚の抑えた囃の中に、控え目に添えるように、三味
線は鳴り続ける。鬼は静かに、その旋律の中に身を埋める。


 鬼が朝に目を覚ました時、そこに三味線弾きの姿はなかった。
――人は、礼儀も知らぬらしい。
 鼻で笑うが、ふと脇に何か転がっているのを見留める。
 撥と、三味線。礼のつもりか。鬼は首を鳴らすと、大きく溜め息をついた。


 次の夜、夢中に居た鬼は、物音に目を覚ます。身体を起こそうとすると、その首筋に冷
ややかで鋭い何かが当たった。
「お前が、鬼か」
 若い男の声。鬼は何も答えず、視線を向ける。
 首に当たるのは、冷ややかな煌めきを放つ刀。何故、それが自分に向けられているのか
理解出来なかった。その向こうに、微かに見える男の影。
「その首、頂こう」
 それだけ言うと、男は素早く刀を引いた。

42 :No.15 鬼畜 3/4 ◇5GkjU9JaiQ:08/02/24 19:51:17 ID:WHNdezT9
 首に、熱い感触が走る。何を考える間もなく、鬼は身体を起こして影に掴みかかった。
短く吠え、掴んだそれを壁に叩き付ける。男はか細く何かうめいたが、鬼は構わずそれが
聴こえた辺りを再び掴み、締め上げる。
「俺が、何をした」
 低い声で聴く。
 男は自分の首を締める手を掻き、何事かを言おうとするが、それは声にならない。
「俺が鬼だから、か」
 力なく呟くと、鬼は手を離す。地に崩れ落ち、激しく咳き込む男。
 鬼は自らの首を触る。血は流れているが、傷は浅い。
 やがて男は、暗闇の中で鬼に視線を向ける。
「私を殺さないのか」
 鬼は鼻を鳴らすと、向かいの壁に背をもたせかけた。
「殺しても良いが、その前に幾つか聞きたいことがある」
 沈黙。
 男は息を潜め、鬼が口を開くのを待つ。
「――何故、俺を殺そうとした」
「鬼の首は、高く売れるからだ」
 男は答える。鬼は舌打ちを挟み、間を置いて再び聞く。

「鬼というのは、お前ら人間にとってどのような存在なのだ」
「強く、恐ろしい者だ。我々を支配しかねない者だ」
 鬼は首を捻る。人を支配しようなど、考えたこともない。
「俺の他の鬼に、そういう奴でもいるのか」
 返答は、ない。黙り込む男に、鬼は重く歩み寄る。
「殺しても――良い」
 鬼はその手を再び男の首に掛ける。
 短く息を吐き、抵抗する男。更に力を入れると、苦しそうにもがく。
「お前らの望む鬼に、なってやっても良い」
 更に力を込める。男の口の端に、泡が浮かぶ。

43 :No.15 鬼畜 4/4 ◇5GkjU9JaiQ:08/02/24 19:51:59 ID:WHNdezT9
「去れ、人よ」

 それだけ言うと、鬼は男を洞穴の入口の方に放り投げた。
「この山には人を喰らう恐ろしい鬼が居ると、吹聴するがいい。
 それが俺とお前達、双方の為だ」
 男は咳き込み、おぼつかぬ足取りで逃げて行った。その背を見送り、鬼は独り息をつく。
 人の世に産まれつくこととは――

 ふと、足元に転がる刀に気付く。刃を指でなぞると、自身の血で濡れている。
 これから、あの男のような人間が訪れることは避けられないのだろう。
 洞
穴の外に出ると、空が薄紫に染まりつつあった。刀を掲げ、その赤に染まる刀身を見
る。そこに写る自らの顔に苦笑し、鬼は昇りつつある陽に背を向けた。
――お前達の望む、鬼になってやろう。
  この身体を、俺自身を肯定する方法がそれしかないならば。

 その山には、鬼が居る。人を殺め、喰らう、鬼畜が。
 その山は、雨の日に哀しく鳴く。何処からか響く弦が、微かに鳴いている。

―了―



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