【 曖昧な境界線 】
◆Kq/hroLWiA




24 :No.09 曖昧な境界線 1/3 ◇Kq/hroLWiA:08/02/24 08:39:27 ID:b8uUwf3T
 カモメ達が、蒼い世界を飛んでいた。
 消波ブロックに打ち付けられた波は、飛沫となって撒き上がり風の中に溶け込んでいく。辺りは潮の香りで満
ちていた。
 静かな海だった。聞こえるのは、規則的に打ち寄せる波の音と、時たま近くを通る船の汽笛だけで、耳を澄ま
せば遠く沖の空を舞うカモメたちの鳴き声が聞こえてきそうだ。
 水平線は視えない。邪魔者の居ない空で、太陽は自己主張でもするかのように燦々と輝いていた。
 そんな海辺の、沖に向かって伸びる一本の防波堤の端。穏やかに揺れる沖の海面を眺めながら、二人の子供が
釣竿を持ってコンクリートの上に腰を下ろしている。
 一人は男の子。もう一人は、髪の短い女の子だ。
 日はすでに見上げる程に高く昇っているせいもあってか、先程から二人の持つ釣竿は沈黙を続けていた。
 水面に漂う二つの浮きは、単調な波に乗ってゆらりゆらりと上下左右に揺れている。そんな退屈な様子を見つ
めながら、女の子が小さく溜息を洩らした。
「釣れないじゃん」
「そうだね」
 女の子は、背後に置かれたバケツの中を見た。黄色いポリバケツの中身は、数時間前からずっと潮水が占領し
ている。
「帰ろうぜ」
「んー、僕はもうちょっといるよ」
 男の子の素っ気ない返事に、女の子は無言で釣竿を握りなおした。
 二人は沈黙し、絶え間ない波音だけが辺りを包み込む。
 時間と共に強くなる日差しを肌で感じながら、女の子はもう一度溜息を吐いた。
 急に、波音が静かになった。女の子が目線だけを下に向けると、さっきまでせわしく波打っていた水面が、今
はとても緩やかに揺らいでいた。
 唯一の騒音が静まり、二人を包む環境はより一層その静けさを増す。
 その静寂が、気まずく感じたわけではない。だが、目の前に広がる蒼色は、子供二人には少し広大すぎた。
 女の子は、何か適当な世間話はないかと、頭の中を探ることにした。
 思い付いたのは、先日、母親と交わした話についてだった。
「ヒロはさ、オレの身体、どう思う?」
 男の子――ヒロは、視線を海に向けたまま訊き返した。
「どう思うって、どういう意味?」

25 :No.09 曖昧な境界線 1/3 ◇Kq/hroLWiA:08/02/24 08:39:45 ID:b8uUwf3T
 女の子も、視線は海面に注がれている。太陽の光を反射した海面は、キラキラと瞬いていた。
「この間さ、母さんに、「アンタ胸が大きくなってきたわね。そろそろブラジャー買おうか」って言われたんだ。
けどさ、オレ、ブラジャーとかあんまり着けたくないんだよな」
「……僕は男だからよく分からないけど、美波は女の子なんだから、ブラジャーとか着けた方がいいと思うよ」
 ヒロの言葉に、女の子――美波は少し困ったような表情をした。唇をとがらせるようにしてへの字にすると、
視線を少し上に向ける。
「身体は女なんだけどさ、心は男なんだよな。誰かと遊ぶ時とか、女子と遊ぶよりは、ヒロとか男子と一緒に遊
んだほうが楽しいし。正直、ブラジャーとか嫌なんだよな。胸も、大きくなって欲しくないんだ」
 ヒロが、左手を竿から離し、人差し指で頬をぽりぽりと掻いた。
 どう言葉を返せばいいのか考えあぐねているのか、それとも単に話自体に興味がないのか。横目で見ていた美波
は、少しだけ不安な気持ちになった。
「それで、美波の身体をどう思うかって?」
 ふいに、重く間延びした音が、遠く波止場の方から聞こえてきた。その音が鳴り止まぬ内に、美波はぼやくよ
うにして言った。
「オレみたいに、心と身体の性別が合ってない人のことを、セイドウイツセイショウガイって呼ぶらしいぜ」
「ふーん。初めて聞いた。よく分かんないな」
「実は、オレもよく分かってないんだけどな。この前テレビで見ただけだし」
 いつの間にか静けさを取り戻していた防波堤。カモメの姿も気づけば見当たらず、空には少しずつだが白い雲
が見え出していた。
 ヒロは静かに首だけを美波の方に向けた。美波はそれに気づき、ヒロの方に少しだけ首をずらして、視線だけ
を交わす。
「僕は、美波のことが好きだから。美波には女の子であって欲しいから。僕は、美波の身体は良いと思うよ」
「ん、なぁっ!」
 想定外のヒロの言葉に、美波は頬が紅潮するのを抑えられなかった。
「オ、オ、オレのことが好きだってっ?」
「うん」
「何でだよ! 言っただろ。オレは、心は男みたいなもんなんだって」
 慌てふためく美波とは対照的に、ヒロの方は恥かしさなどおくびにも出さずに答える。
「うーんと、まず優しいし、気が利くし、運動できて頭もいいし。そして何より可愛いし」
 しっかりと耳まで紅く染めた美波は、慌ててヒロから顔を背けると、急いで釣具の片付けを始めた。

26 :No.09 曖昧な境界線 3/3 ◇Kq/hroLWiA:08/02/24 08:40:02 ID:b8uUwf3T
 ヒロはそんな美波を、ただのんびりと見つめていた。
 一通り道具を片付け終えた美波は、ヒロには目もくれずに立ち去ろうとした。しかし、そこにヒロが一言、声
を掛けた。
「僕は、水玉が好きだよ」
 ヒロの言葉が意味不明だったようで、美波は怪訝な顔をして、首だけを振り向いた。
「何のことだよ?」
「あれ? ブラジャーを買いに行くんじゃないの?」
 冷め始めていた美波の頭が、再び一気に沸騰する。秋の山よりもさらに紅く顔を染め、美波は大きな声で叫んだ。
「行くかバカ!」
 逃げるようにして走り去る美波を背にして、ヒロは再びのんびりと海を眺める。
 すると突然、背後で女の子の悲鳴が上がった。
 多分、フナ虫でも見つけて驚いたのだろう。
 そう勝手に納得したヒロは、ぼんやりと呟いた。
「……あと、たまに女の子っぽいところを見せるし」
 ヒロの口からこぼれた言葉は波音に拾われて、背後の女の子に届くことなく、潮風の中に溶け込んで行った。

おわり



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