【 狐 】
◆ibD9/neH06




21 :No.07 狐 1/2 ◇ibD9/neH06:08/02/23 22:22:57 ID:gnUp+QAB
 これは天の悪戯で不幸にも狐の体で生まれてしまった、本来人間として生きるはずだっ
た者の物語である。


 北海道のとある港町。
 その狐は水声に誘われるまま、時代がついた大谷石の壁に挟まれた窮屈な新道を抜
けると、早川に面した通りへと出た。
 このか細い支流は確り海まで繋がっているのだろうかと、そう考えたかは分からないが、
彼は小首を傾げた。
 好奇心に胸が轟き、気づけばガードレールを潜り抜けて、土手を下っていく。
 川縁では人間の子供にでも踏まれたのか、夏白菊がぐったりと平伏していた。
 彼はその夏白菊と地面との間に筋の通った鼻梁を滑り込ませて、根元からくいっと持ち
上げた。
 その内の一本を恭しく口で拝借して、足を滑らさないよう、おずおず忙しない川面に落と
すと、流れだす花を小走りで追っていく。
 倒けつ転びつ、時に旺盛な小中学生に足蹴にされながらも、くんくん鼻を鳴らして駆け抜
ける。
 しかし何処からか、老鶯の鳴き声が届いたと思った一瞬、注意を逸らされ、追跡対象をあ
えなく見失ってしまった。そして同時に主目的も失わせた。
 狐の発達しきらぬ小さな頭では、人間の本能、好奇心までは処理しきれない。
 突如放り出されたように、自分がここにいる理由が分からなくなり、差し俯くばかりである。
 ただ眼下の水流では、なぜか一片の白皙の花弁が、荒く削れた石に引っかかっている。
 きゅる、とノドを鳴らし、前足で顔を拭い、素早く走り出した。すると今まで立ち止まってい
た処で、急にパチンっと小石が弾ける。
 先ほどの人間の少年たちが、遠巻きに石を投げつけてきたのだった。
 娯楽もないまま川沿いを逸れて、壊れた枝折戸から空き屋をくぐり、舗装されていない砂
利道を横断すると、丘の上の公園に出た。

22 :No.07 狐 2/2 ◇ibD9/neH06:08/02/23 22:23:24 ID:gnUp+QAB
 欄近くまで寄ると、そこから埠頭が望めた。
 側面に赤木水産と黒字でプリントされた加工場のトラックが、ホタテかなにかを積んで、
港を後にしようとしている。
 トラックから漏れる海産物の溶け汁が、道道に撒き散らされる。
 照りつける湿気を帯びた陽気に、しぜん被さったブルーシートの紐も緩みがちになっていた。
 少し活発に歩きすぎたせいか、心臓があたかもポンプのように波うち、側頭部には締め付
けられるような痛みが奔る。
 狐の彼は自然と顎を出し、気道を広げた。
 草木をそよめかす一陣の風を深く吸い込み、腰から首筋に蟠っていた痺れが抜けていくよ
うな、快い痛痒に身をよじる。
 一過性の好奇心で痛みつけられ腫上がった前足を、泥が沈む温く浅い水溜りでじゃばじ
ゃば冷やした。
 ひとつクシャミを零し、てくてくとアスファルトの隙間から姿を見せる雑草の周囲を回っ
て、そのまま脇に身体を伸ばして寝そべった。
 揺れ動く緑と、前足の体毛が鼻先をくすぐる。そして彼はもうひとつ、ぷしゅんとクシャ
ミを零す。
 遠くから人間の少年たちの楽しげな喚声が聴こえてくる。ただの狐であれば、雑音にしか
ならない声。
 ところが彼の視界はぼんやり霞み、目頭に半ば苦痛のような熱をもたせた。
 誰にも知られることのない葛藤がある。
 もし彼が正常に人の体を有していれば、良心を擦り減らして、狐を迫害する側に回ってい
たかもしれない。
 ただ狐の彼は、そんな可能性も考えることもなく、とろとろしながら、やがて眠りに落ち
ていった。
 老鶯が鳴き、夏白菊はそよぎ、子供たちが笑う。
 その交錯が、えもいわれぬ大合唱となり、次第に狐を取り巻いた。
 天から突き落とされた人狐の境遇が、真に不幸だったかどうかなど、やはり誰も知らない。

〈了〉



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