【 『浮き』 】
◆ka4HrgCszg




8 :No.03 『浮き』 1/4 ◇ka4HrgCszg:08/02/23 17:54:36 ID:D6mzPUyE
 最近、体が宙に浮くようになった。
 とうとう自分がおかしくなってしまった、と一瞬思った僕だったが、どう見ても五センチほど浮いていた。その浮ける高
さは日が経つにつれ高くなっていき、今では一メートル上空(といってもたった一メートル)まで自在に浮ける。
 この状況に最初は戸惑った僕だったが、一ヶ月もすると慣れっこになっていた。とはいえ一欠けらほどの違和感は残って
いたのだが、ある日、窓から外を見ると他に浮いている人を見つけた。同じような人が居る事を知り、僕は安心した。
 さて、それから別の日、僕が二階の窓から飛び出して町の上空を散策していると(二階の窓から出れば高度を維持したま
ま浮く事が出来る)、浮き仲間のジョンスーと出会った。ジョンスーはこの道に関して匠の領域で、こちらがハラハラする
ほどアクロバティックな浮きを披露してくれる。また、浮き仲間の事についても非常に詳しい。
 僕がそのジョンスーを見て「おっ」と思ったのは、その日のジョンスーの隣に、見た事の無い女の子が浮いていたからだ。
「見ない顔だね。新人?」
 僕の言葉に、ジョンスーは人懐こい笑顔で頷く。
「そうさ。青トンボにも紹介しておこうと思って」
 青トンボとは僕のニックネームである。浮き仲間はみんな本名を名乗り合わない。そうする事で、一種の非現実感を味わ
えるからだろう。考えてみれば、浮き仲間はみんな現実を嫌っているような所があった。
「そうなんだ。よろしくね、新人さん。何て呼べば良いのかな?」
「は、はい。私は、栞って呼んで下さい。よ、よろしくお願いします」
 と、彼女は言いながらペコリと、そのまま一回転しそうなほど頭を下げた。
 それから、ちょっと困ったような視線をそこしかこに漂わせる。初浮きで不安なのだろう。そんな彼女の様子が微笑まし
く、可愛らしかった。僕の彼女に対する好感度はうなぎ登りだ。
「栞さん、か……。まさかと思うけど、本名じゃないよね?」
 新米が現われると、名前に関してジョンスーが事前に説明する。だから大丈夫だとは思うのだが、しかし、『栞』という
名前はわりと実際ありそうな名前だ。もし本名ならマズイ。何がマズイかと言われればハッキリ答えられないが、とにかく
マズイ。ここは空の上であって、地上世界では無い。例えば剣と魔法のファンタジー世界で、登場人物が「山田浩介」とか
「佐藤達郎」とか、サラリーマンみたいな名前だったらダメなのだ。
「いや、栞さんは本名じゃないらしい。それより新人とは別に、もう一つニュースがある」
 と、栞さんの代わりにジョンスーが言って、神妙な面持ちをこちらに向けた。
「まだ、何かあるの?」
 ジョンスーの深刻そうな顔を見て、不吉な予感が胸を過ぎる。
「実は……、錦が落下死した」
 一瞬、時間が止まった。

9 :No.03 『浮き』 2/4 ◇ka4HrgCszg:08/02/23 17:54:56 ID:D6mzPUyE
「……落下死?」
 僕は愕然として、自分の耳を疑った。なんでまた、落下死なんて……? 浮く事は呼吸するぐらい簡単だ。たとえ落下し
たとしても、その途中でまた浮けば良いようなものの……。
「どうして……?」
 無意識に、僕はジョンスーに聞いていた。しかし、ジョンスーは首を横に振る。落下死した理由はよく分かっていないら
しい。そりゃそうだ。落下なんて、呼吸の仕方を忘れて窒息死するぐらい有り得ない。
「……自分の家の庭に落ちたんだそうだ。窓から浮きに出ようとしてそのまま落ちたらしい。……大方、寝ぼけてたんじゃ
ないか?」
 僕は一応、なるほどと頷いた。とはいえ、釈然としない気分だ。寝ぼけたまま、窓から飛び出した? でも、浮くなんて
正直な話、寝てても出来そうなぐらいなのに……。一体なぜ……。
「ま、考えてても仕方無い。これから寝る時は、窓に鍵を閉めるようにしよう」
 と、ジョンスーは暗い空気を振り払うように明るく言った。僕もムリヤリ笑って頷く。
 しかし、視界の端では、栞さんが脅えるような表情をしていた。顔を真っ青にして、ガタガタ震えている。いや、それど
ころか、目尻に薄っすら涙を浮かべている。
 僕とジョンスーは思わず言葉に詰まった。捨てられた子猫のように震えている彼女に、一体何を言えば良いんだろう? 
確かに、錦は死んだ。でも、それはそのまま『浮きは危険』という事に直結するわけじゃない。そんな暴論は、車は危険だ
から乗ってはいけない、というのと同じだ。こんな事は例外中の例外なのだ。でも、彼女は初浮きだ。浮きについてまだ何
も分からない。僕らがなんと言おうと、初浮きの時に浮き仲間が死んだと聞かされれば、怖くなるに決まってる。
「……まぁ、アイツは結構ドジな所があったからさ。でも今までは、死人なんて一人も出なかったんだよ」
 と、ジョンスーが弁解するように言う。
 そう、錦はドジだった。自分の家の窓に飛び込もうとして、謝って屋根にぶつかった事もある。そういえば、あの時も気
を失いかけて地面に落ちそうになっていた。落下死なんて、考えられない事だけど、……あの錦ならそういう事もあるのか
もしれない。
「……そうそう。気にしない方が良いよ、栞さん。浮き生活は、慣れれば天国みたいなもんだから」
 僕も声を掛ける。だが、栞さんは顔をうつ伏せたまま、ガタガタと震えていた。

 それから一ヶ月。錦を皮切りに、落下者は後を絶たなかった。
 ……五人……十人と増えていき、次第に空から浮き仲間は姿を消していった。落下死した者も居れば、忽然と姿を見せな
くなった者も居た。そういう者は、落下するのが怖くて地上に戻ったのだろう。ニックネームしか知らなかった僕は、彼ら
のその後を知らない。でも、大体は予想がついていた。

10 :No.03 『浮き』 3/4 ◇ka4HrgCszg:08/02/23 17:55:11 ID:D6mzPUyE
 彼らは普通の人間として、社会に溶け込んでいるのだろう。ただ淡々と、地面を歩きながら。
 その内に、空の世界を漂う人間は三人だけになっていた。
 僕とジョンスー、そして栞さん。
 錦の死を聞いた時の栞さんを見て、もう浮きに来ないだろうな、と少し寂しく思っていた僕の予想は、見事に外れた。彼
女は次の日からも、沈鬱な表情を浮かべてフワフワと浮きに来た。そして彼女は、人生の悲哀を凝縮して閉じ込めたような
顔をして、見ているこっちが辛くなるような雰囲気で空を漂うのだった。その哀しげな妖精のような彼女を見かけると、僕
はいつも声を掛けた。すると彼女は、哀しい顔をして笑うのだった。
 栞さんは、特にジョンスーと仲が良かった。ジョンスーはジョンスーで面倒見が良かったから、いつも暗い顔をしている
彼女が心配だったのかもしれない。そもそも、空で暗い顔をする者などあまり居ないのだ。少なくとも、浮いている間は。
 だから、ジョンスーはいつも栞さんを気に掛けて、栞さんもそれに嬉しそうに答えていた。僕は傍目にそれを見ながら、
栞さんはジョンスーの事が好きなのかもしれない、と思っていた。でも、実際は良く分からない。栞さんは、何も言わなか
った。
 僕は今日も浮ける事を確認すると、窓から飛び出した。外に出ても体が落下しない事が分かると、ひとまず僕はホッとす
る。最近は、ビクビクしながら浮いている。もしかしたら、突然落ちるのでは無いかと思いながら。
 でも、僕は空へと浮き続けた。何度か止めようと思ったけど、どうしても止められなかった。眼下には、重さに耐えかね
たように家や道路がジッとしている。それを小馬鹿にしながら見下ろすのが好きだった。あの狭い部屋に閉じこもっている
のが苦痛だった。二階の高さに広がるこの空は、どこまでも広くて。自分がチッポケに思えてしまうこの感覚が、――どう
しようもなく好きだったのだ。
 フワフワと浮きながら、僕は待ち合わせ場所へ向かう。目指すのは、黄色と青の屋根の上。僕達三人は、いつもそこで待
ち合わせをして、各々が気ままに浮きを楽しむ。二人に交じって話すのも良いし、ただボゥッと漂うのも良い。空はどこま
でも自由だった。
 でも、しばらく浮いてそこに辿り着いた時、いつも居るはずのジョンスーが居なかった。
「……ねぇ、ジョンスーは?」
 僕は呆然として、先に来ていた栞さんに尋ねる。栞さんは今日も哀しい顔をしていた。哀しい顔で、笑っていた。
「ジョンスーは、落ちました」
 ポツリと、こぼすように。
 それでいてやけにハッキリと、そう言った。
「落ち……たの?」
「はい」
 ホロリと一粒、栞さんの目尻から涙が落ちる。彼女は淡く泣いていた。

11 :No.03 『浮き』 4/4 ◇ka4HrgCszg:08/02/23 17:55:29 ID:D6mzPUyE
 表情は変わらないのにハラハラと落ちる涙は、まるで人形が泣いているようだった。
「ごめんなさい」
 突然、栞さんが謝った。訳が分からなかった。栞さんのつむじが見える。何で栞さんは頭を下げているんだろう。
「……浮き仲間の方々が、落下死したのは全部――私のせいなんです。いえ、そもそも皆さんの浮遊現象自体からして、全
部が私の責任なんです」
「……え?」
 栞さんの突然の告白に、僕は上手く反応できない。全部栞さんのせい? 浮く事が? 錦やジョンスーが、落下して死ん
だ事が? 何で? 何で栞さんのせいになるんだ? 分からない。全然、分からない。栞さんは一体何を言ってるんだろう。
ジョンスーが死んで、おかしくなったんだろうか。
「私は、この町で極秘に建設された研究所でナノ・テクノロジーの研究をしている者です。実は私のミスで、開発していた『HL
O』というナノ・マシンのサンプルが、この町の空気中に紛れ込んでしまいました。『HLO』は国家機密プロジェ
クトの一環で開発されていた、人体寄生型ナノ・マシンなんです。このナノ・マシンは体内に入り込むと、エネルギーを生
み出すミトコンドリアに寄生し、爆発的に増殖します。そして一定数まで達すると、全身の表皮を覆って、極小の揚力発生
機構を無数に形成するんです。それが、今回の浮遊事件の犯人です」
「なん、だって……?」
 僕は呆気に取られる。話の一つも理解出来なかった。もしかしたら、何かの冗談なのだろうか。
 ……それともやっぱり、栞さんはおかしくなってしまったのか。
「現在、この『HLO』を人体から剥離させる方法はありません。ほぼ、全身の細胞に同化してしまうんです。そこから『
HLO』だけ剥ぎ取る事なんて不可能なんです。でも、『HLO』は重要な機密事項で……、その存在を公にしてはいけな
いから……。だから……、だから。――――ごめんなさい」
 突然、僕に何かが向けられた。
 それは大きく炸裂音を響かせて白い炎を噴いた。僕の全身に一瞬衝撃が走る。左胸にツンとした違和感があった。全身の
感覚が消失した。栞さんは顔を歪めて泣いている。赤ちゃんみたいに、顔をクシャクシャにして泣いていた。
 フゥッと僕の体は落ち始める。頭から真っ逆さまに地面へと落ちる。空へと吸い込まれていくような感覚。耳の側を通り
過ぎて行く風の音。走馬灯は見えなかった。こんな時は何を考えれば良いんだろう。何も思いつかない。ただ、ひたすら空
が遠くなって――。僕の重い体はスゥッ……と地面に吸い込まれて行く――――。
 地面にぶつかる直前。
 遠くでもう一度、――――炸裂音が聞こえた。





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