【 ジゼルとルネ 】
◆pxtUOeh2oI




4 :No.02 ジゼルとルネ 1/4 ◇pxtUOeh2oI:08/02/23 17:51:42 ID:D6mzPUyE
 世界の基準となる場所に、その女は立っていた。
 夏でも少し肌寒いロンドン郊外テムズ川河畔、緑の丘に位置するグリニッジ天文台から眼下に広がるグリニッジパークに
設営された選手待機場所で、その女は緊張した面持ちでモニターを眺めていた
 女の名前はジゼル・クプル、イギリス人。歳は二十代半ば、鮮やかな金髪を短くそろえ、
きっちりとした黒の燕尾服を華奢な体で着こなす。彼女の隣には引き締まった体躯を持つ褐色の馬がたたずんでいた。
 ジゼルはモニターを見つめる。モニターには軽快にバーを飛び越える人と馬が映っていた。
「ルネ、後少しだから……がんばろうね」
 ジゼルは画面から目を離さずに、隣に立つ馬を撫でる。ルネと呼ばれた栗毛の馬は小さく啼き返事を返した。
 今日は二〇一二年八月十日、ジゼル達はロンドンオリンピック馬術・障害飛越の決勝ラウンド出場者である。
 ジゼルは既に行われた決勝ラウンドAを振り返る。今日は本当に調子が良い。ラウンドAはノーミス、タイムもトップ。
次のラウンドBで同じように演技ができれば金メダルに手が届く。
 ジゼルの本来の実力ならば手の届くはずのないメダル、それでも今日の彼女は絶好調であり自信もあった。
他の選手権では一度も勝てたことのない相手さえ、今日は怖くない。
 最終演技者であるジゼルは、自分の番までモニターで他選手の演技を眺めていた。人によっては、自身の演技に集中するために、
他の演技を見ない者もいる、むしろそういった選手の方が多いかも知れない。けれどもジゼルは、時間があればモニターを眺める。
どうせ会場に出れば、電光掲示板や、観客の声でわかってしまう。それなら余裕があるときに知っておいた方が良い。それが彼女の持論だった。
 白に近い灰色の馬を引いた背の低くい男が、背後からジゼルに声をかけた。
「さきいくね」
 軽い調子のその男は、リック・オッド。同じ英国代表の先輩であり、国内王者、そして今回、最大のライバルである。
引かれる葦毛の馬は雄々しくゆっくりと歩いていった。彼らはジゼルと同じくラウンドAでノーミス、タイム差でジゼル達が
少しばかりリードしてはいたが、世界大会でも優勝した経験のある彼らは、普段ならば到底敵う相手ではなかった。
「はい、がんばってください」
 ジゼルが答える。声が少し震えていた。
「今回はチャンスだな。金と銀を俺達が取れそうだ」
 ジゼルは黙って頷く。その通りだった。テロ対策の影響か、他国の馬達はストレスを溜めていた。
それに引き替え、大した輸送も無く地元での参加であるジゼル達の馬は平常通り、始まる前からかなり有利な状況だった。
「俺が金メダルを取るから、そっちは慎重に銀を狙ってくれ。じゃあな」
 飄々とした様子のリックを見送る。あの人は緊張とかは感じないのだろうか? いや、無理をしているのかもしれない。
ジゼルは、リックの気持ちを想像した。それは自分の心を落ち着かせる為でもあった。

5 :No.02 ジゼルとルネ 2/4 ◇pxtUOeh2oI:08/02/23 17:51:57 ID:D6mzPUyE
「リック・オッド選手、三十六歳、イギリス。馬はエアスドール号、セルフラン種、葦毛、十歳」
 リックの番が来た。ジゼルはじっと画面を見つめる。彼らの結果によってジゼル達の走り方が大きく変わる。
失敗を願うわけではない、それでもジゼルは複雑な気持ちでモニターを見つめていた。
 会場は静寂に包まれる。馬術競技では、演技中の歓声は無い。観客たちは、じっと演技は始まるのを待っていた。
 リックが馬の上から審判に敬礼、それが準備ができたことを告げる合図である。審判がスタートの指示を出し、リックとエアスが駆けだした。
大きな馬体が軽々と、ひとつ目の障害を飛び越える。徐々にスピードを増し彼らは次の障害へと向かった。
 軽く前足が振り上がる。すぐさま後ろ足が地面を蹴って、バーを超えた。騎手が落ちるのではないかというほどの前傾姿勢をとり、
前足から着地する。グレイの尻尾が上下に揺れた。既定のカーブを周り、障害を跳び超える。五百キロ近い体重をまったく感じさせない
跳躍、灰色の馬体を大きなゴムまりのように跳ね上げ、続く障害をクリアしていく。
 美しい。ジゼルは画面越しの演技に感動していた。人馬一体、馬術の理想とも言えるその言葉を体現するかのような彼らの演技に、
ジゼルは自分が競技者であることを忘れる程に心酔していた。
 リック達が六つ目の障害である壁を超えた。残る障害は九つ、彼らはここまでノーミスで来ていた。
 箱庭のようなせまい会場の中を必要最低限の減速で曲がり、連続する七つ目と八つ目の障害へと走る。
前の障害を超え、軽やかな着地。馬に乗るリックが次に迫る障害に目を向け、エアスが跳ぶ。宙に浮いた馬体、前足が地に着く直前、
残された後ろ足が障害に当たる。バーが落ちた。引っ掛けた! ジゼルはまるで自分が落としたような気分になりショックを受ける。
 エアスはかすかにバランスを崩したが、騎手であるリックが静かにそれを整え止まることなく次の障害へ走る。
 残る障害を失敗など無かったかのように優雅に跳び越え、リックとエアスは最後のバーを超えた。
ストンと音が聞こえるような綺麗な着地。右手を上げたリックに答えるように、会場から盛大な歓声が湧き上がった。
 リック達はバーを落としたことによる減点が四。タイムは九十三秒一三。残された演技者はジゼルのみ、
現在までの演技者は皆、二本以上のバーを落とし減点は八以上、リックの銀メダル以上獲得が決まった。
 待機場所まで届く歓声を聞き、ジゼルは観客から演技者へと思考を切り替える。金メダルを取る為にはノーミスもしくは、
減点四でリック達より上のタイムを出せば良い。リック達の出したタイムは、そこまで早いものではない。
リックの乗るエアスはセルフラン種、従順で馬術に向いているが体が少し重く、タイムは出にくい。
サラブレット種のルネならもっと速く行けるはず、気を付けるのはミスだけだ。
 ジゼルはルネを撫でながら、今までの思い出を振り返っていた。
 友人に誘われて乗馬クラブに行ったとき、競馬を引退したルネに出会ったこと。どんどん馬術にのめり込み、それからずっと一緒だった思い出。
大会で入賞するようになって、サラブレット種ではなく馬術に向いた血統の馬を進められたこともあった。
それでも私はルネと一緒にここまで来た。ジゼルは黒いメットを被り、のど元でしっかりとテープを止めた。スイッチが入る。
「行こう、ルネ」
 ジゼルはルネの手綱を引き、会場へと向かい歩き始めた。

6 :No.02 ジゼルとルネ 3/4 ◇pxtUOeh2oI:08/02/23 17:52:31 ID:D6mzPUyE
「ジゼル・クプル選手、二十四歳、イギリス。馬はルネクロスアニー号、サラブレット種、栗毛、十ニ歳」
 会場のアナウンスがジゼルとルネの名を告げる。ジゼルはルネに跨り審判に敬礼、審判からスタートの合図を貰う。
ジゼルは足に力を込めルネの馬腹を軽く圧迫する。それが前進の命令となり、ルネは駆け出した。
 一つ目のバーを跳ぶ、着地の衝撃が鞍を伝わりジゼルの体に響く。ジゼルは右に手綱を開き、ルネの右旋回を促した。
問題はない、緊張も……。今日は本当に調子が良い。ミスすることなんて考えられない、イケる!
 二つ目の障害を跳ぶ。ジゼルの目に一瞬、空が映る。鞍、手綱、そしてルネの息遣い、ルネから伝わる感触がはっきりとわかる。
静かだった。いつもなら観客の囁きが耳に入るのに、今日は聞こえない。耳に届くのものは、ルネの吐息、足音、鼓動、脈動、
骨の軋む音もわかる。次に跳ぶべき障害を見るジゼル。ルネの視界がわかるように感じられた。
 ジゼルの感覚から必要の無い情報が削ぎ落とされる。世界はくっきりとそれでいてモノクロに、ルネの微細なタテガミが一本一本
はっきりと見えるぐらいに、ジゼルの目は研ぎ澄まされていった。
 三つ目、四つ目、障害を超える。どのタイミングで手綱を引けば良いか、どのタイミングで膝の力を抜くか、どうすればルネの
跳躍を邪魔しないか、ジゼルはルネが体中から発する極小の情報を五感全体で集め、自身を媒介にルネを操る。
 五つ目。振り上げた前足、地面を蹴る後ろ足、障害の上を飛ぶ感覚、ジゼルはルネの感覚と一体化していた。
わかる。はっきりとわかる。前足の筋肉、クビのスジ、後ろ足の蹄が地面に食い込む感触、全部わかるよ、ルネ!
 ルネが六つ目の壁を越え、ジゼル達はリックがミスをした連続障害へ向う。それでも何一つ不安は感じていなかった。
 ここ。ジゼルの思いに答え、ルネが跳ぶ。着地すると同時に次の障害。前足が軽く地面を蹴り、上がる。引いた手綱をすぐにゆるめ、
後から蹴り上がる後ろ足を待つ。前後の足が地面から離れ、宙に浮く。ジゼルはルネの負担にならないよう背のスジに沿って体を合わせた。
 ノーミス。リック達の失敗した障害を越え、ジゼルは勝ちを確信する。それでも集中は途切れない。
 九つ目、何の問題も無く跳び、何の問題も無く超える、そうなるはずだった。障害を超えたルネがカーブを曲がる。
そのときジゼルは感じた、ルネの右後ろ足、付け根の辺りにある違和感を。ルネ? ジゼルの違和感を振りはらうようにルネは走り続ける。
競技は続く、次の障害が目の前に迫っていた。跳べた。けれど、感じた。ジゼルはルネの足から一瞬の痛みを感じていた。ほんの些細な痛み。
 ルネ? イケるの? 大丈夫? ジゼルの疑問、それに対するルネの答えが今日のジゼルにはわかった。イケるのね?
 残る障害は五つ。三十秒に満たない我慢をすれば、金メダルに手が届く。馬のルネにとってそれは何の意味も持たない物だろう。
それでもルネは走る、今日のジゼルにルネのことがわかるように、ルネにとってもジゼルが望んでいた物がわかるのかもしれない。
 ルネ、跳ぶよ。バーを超える。ジゼルはルネの前足に負担がかからないように少し前に体重をかけた。それでもルネの痛みを感じる。
あと、四つ。それだけ跳べば終わる。金メダル。ルネと一緒に。ジゼルとルネは目の前の障害を跳び超えた……。
          

7 :No.02 ジゼルとルネ 4/4 ◇pxtUOeh2oI:08/02/23 17:53:24 ID:D6mzPUyE
           
 観客達がざわめいていた。何をしているんだ? あと三個だぞ? さっきまでの奇跡的な走りはどこへ?
何で……いったいどうして止まってしまったんだ?
 ジゼルとルネは障害の前で止まっていた。審判から減点が言い渡される。けれど、それはジゼルにとってどうでも良いことだった。
ジゼルは下を向き俯いたまま、障害に目もくれず審判の方へとルネを動かす。ルネは何が起こったのかわからないそれでもジゼルに従った。
 ジゼルが審判に告げる、馬の脚部に違和感を感じ棄権するということを。そのままジゼルはルネから降り、手綱を引いて待機場所へと戻った。
 何のことだか理解できない観客達の不満の声が、ジゼルの耳に届く。それでもジゼルは気にしなかった。
 ルネを所定の位置に連れていき、獣医を呼んだジゼル、彼女はルネのクビに顔を押しあて泣いていた。
「ごめんね、ルネ……ごめんね……」
 ルネの脚部、その違和感は極々初期、ニ週間も休めば特に問題も無く治るようなものだった。
乗り方が悪かった訳でもなく、厳しく使い過ぎた訳でもない。たまたま今日この場で芽生えた、運の悪い小さな小さな怪我だった。
 ジゼルが普段の調子だったら気付かない違和感。皮肉なことにジゼルの集中力が極限まで高まってるからこそ気付くような
本当に些細な物だった。
 そのまま競技を続けていても問題は無かったであろう怪我、それでも今日のジゼルには耐えられなかった。
これが自分の体なら耐えられる。多くのアスリートが望むように、メダルを手にすることができるのなら体などどうなっても良い、
ジゼルはそう考えていた。けれどルネは別だ。自分に馬術の楽しさを教えてくれたルネ、そのルネの体の痛みに耐えられなかった。
 人馬一体、その理想の言葉が軽く感じるぐらいに、今日のジゼルはルネの体のことを感じていた、自分の体以上に……。
 ジゼルは泣いていた。それでも後悔はしていない。またチャンスが来るかもしれない、そのときに頑張れば良い、そうだよね、ルネ?
 会場の方から拍手と歓声が響いた。表彰式でも始まったのだろうか。それにはまだ早い。勝者のリックはまだ待機場所にいる。
会場の方から走ってきた係員が、ルネのクビ抱きつくジゼルに伝えた。あの歓声はあなたのものだと。
 ざわついていた会場に、審判から説明のアナウンスが流れると、罵声は歓声に変わり、大きな拍手の渦が巻き起こったという、
メダルではなく、パートナーを大事にするその心に、ジゼルとルネ号に対しての歓声が上がっていると顔を紅潮させた係員が説明した。
 ルネのクビに抱きついたジゼルは泣いていた。どんなメダルにも変えることのできない、心からの暖かい歓声を聞きながら……



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