【 この心とは心にあらず 】
◆VrZsdeGa.U




67 :No.19 この心とは、心にあらず 1/3 ◇VrZsdeGa.U :08/02/18 00:29:32 ID:BZcQtSMZ
 ある夏の日差しが強く照りつけていた日。陽は真南に近づき、昼になろうとしていた。
池に浮かぶ蓮の葉からは、幾つか花が咲いていた。その池をしゃがんでじっと見つめている、一人の男がいた。
心ここにあらず、といった表情を浮かべている。その男の背後から、誰かが近付いてきた。
「いかがなさいました?」
 男に話しかけたのは、男の侍従であった。
「……慈悲の心とは、皆容易に持てる物……また、容易に失ってしまう物なのか……」
 男は侍従が掛けた声に気づいていないかのように、何かをつぶやいている。
男のそうした所作に侍従は戸惑い、は? という声が無意識に出てしまった。
その覚えず出た侍従の声に気付いたのか、男は振り向き、
「……あぁいや、なんでもない。ただ、あの蜘蛛を見ていただけだよ」
 と自分の行動をごまかすように言う。その男の言動は、侍従にとって多少腑に落ちない点はあったが、
「あぁ、そうでしたか。昼餉の準備が整いましたので、ご報告に参りました」
 と、あえて素知らぬ振りをして言った。そうか、と男は返事をすると、再び蓮池の方を目を向けた。
男の傍に寄り、侍従も蓮池へ目を向ける。
「底の様子はいかがです?」
「……いや、平生と変らぬままだ」
 ふと、侍従は蓮の葉の上に乗っている蜘蛛を見つけた。これから巣を作るのであろうか、
口から半端な長さの糸が出ていた。すると、男が不意にその蜘蛛を指差したかと思うと、
「御主、私が今からあの蜘蛛に水をかけ殺めようとしたら、御主はどうする」
 と侍従に声を掛ける。その言葉に侍従は我が耳を疑った。今男は何と口走ったのか。蜘蛛を殺めようとする?
侍従が男の方へ首を傾けると、男は変わらず蓮池をじっと見つめている。その表情は、至って真剣そのものだった。
しばらく、二人の間に沈黙が続く。
「……その際は、あなたを殺めてでも、その行為を止めます」
 沈黙を打ち消そうと、侍従が言葉を発する。男は侍従から視線を外し、
侍従の言葉を反芻するように頷きながら、蓮の葉に浮かぶ蜘蛛に目を向けていた。

68 :No.19 この心とは、心にあらず 2/3 ◇VrZsdeGa.U:08/02/18 00:29:47 ID:BZcQtSMZ
 すると、
「この心とは、心に非ず……」
 こう呟いたかと思うと、突如、男は池の水を諸手を合わせてすくい、それを蓮の葉に乗る蜘蛛に目掛けてかけ始めた。
「な、何をなさいます!」
 侍従は無論驚いた。まるで狂ったかのように、男は繰り返し池の水を蜘蛛に向かってかけている。それを止めようと、
侍従は両の腕を以って男の両脇を抱えあげようとした。が、男は強い力を以ってその腕を振り払い、侍従は尻もちをついてしまった。
男の行動はさらに勢いを増していく。
「おやめください!」
 侍従は男を抑え込むように、体を投げ出した。二人は同時に倒れ込み、侍従が男にのしかかる体勢になった。
侍従はすぐに立ち上がり、見下すように男を見た。男は仰向けになり、息を切らしながら侍従を見ていた。そして、
「……殺さぬのか」
 といった。侍従が息を整えながら
「……なぜ、そんなことを、せねばなりませぬ」
 と言うと、男は立ち上がり、侍従の着物の襟首をむんずと掴んだ。そして、鬼気迫る表情を以って
「御主は先程私を殺してでも止めるといった! ならば殺せ! そうせねば、申し訳が立たぬ!」
 と侍従に向かって怒鳴った。その態度に侍従は圧倒され、返事が出来なくなった。二人の間にまた沈黙が流れた。
そんな雰囲気に晒され我を取り戻したのか、男は掴んでいた手を襟首から放し、ふぅ、と一息つきながら自らの着物に付いた砂利を掃った。
「……すまぬ、思わず取り乱した。昼餉の準備が整っているそうだな。参ろうか」
 そう言いながら男は踵を返し、とぼとぼと歩いて行った。
取り残された侍従は、蓮池を覗いた。男の狂気に満ちた行動によって、蓮の葉は池に散乱しているかのように浮かんでいる。
例の蜘蛛はどこにいったのか、視線を動かしつつ探しても見つからなかった。池の底は、暗くて中の様子はわからない。
侍従は空を見上げた。いつの間にか、先程までは無かった雲が幾つか立ち込めていた。

69 :No.19 この心とは、心にあらず 3/3 ◇VrZsdeGa.U:08/02/18 00:30:02 ID:BZcQtSMZ
 以下に私が記すことは、言い訳めいた解説ではない。ただ、私にはこの話の詳細について、多少のスペースを使って説明する必要がある。
 薄々感づいている方がいることと思うが、この話は芥川龍之介の著作、「蜘蛛の糸」の後日譚である。
慈悲、という題を与えられた後、プロットを組み立てる中で私は「蜘蛛の糸」を思い浮かべた。
私には「蜘蛛の糸」について、以前から抱いていた疑問がいくつかあった。
その中で真っ先に挙げられることは、あの御釈迦様はなぜカンダタに蜘蛛の糸を差し出したのか、ということだ。
カンダタは生前、殺人や放火を犯した大泥棒だという記述がある。そのような悪党がなぜ蜘蛛一匹助けただけ
(こう書くと、寝ている所を幾万匹もの蜘蛛に襲われそうだが)で、御釈迦様の御慈悲を受けることができたのか。
この疑念を晴らすため、当初は私なりの解釈と突飛な設定を以って話を作ろうと思ったのだが、
筆を進めていくうち、これはこれでいいのではないだろうか、という思いに至った。
しかし、一度頭に思い浮かんだ物を取り除くことは難しく、この際、この疑念を活かし一つの物語をつくっていこうと思った。
 断わっておきたいことは、私には何も草葉の陰にいる芥川先生に喧嘩を売ろうなどと言う気もないし、
御釈迦様のモデルになったであろう、釈迦様を侮辱しようなどという気もない。
ただ、どうしても腑に落ちない点があった。その点をどうにかできないか、と思った故の結論がこの話である。
カンダタが罪人達を振り落とそうとしたあの行為が無慈悲というのであれば、
それはあまりにも、御釈迦様はカンダタを買いかぶり過ぎていたのではないか。
何故多くの無慈悲といえる行為をした男の罪が、たった一度の慈悲で許されたのか。
他にも多くの疑問はある。しかし、未だその諸々の疑問は氷解しておらず、これからも氷解することはないかもしれない。
仏にしか持てない慈悲の心を、無縁というらしい。その心は常人には理解できないものである、ということなのだろうか。



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