【 如月ミキの場合 】
◆gtyBrNPylc




52 :No.15 如月ミキの場合 1/4 ◇gtyBrNPylc :08/02/18 00:22:36 ID:BZcQtSMZ
 正面の扉が甲高い悲鳴をあげながら扇状に動いたのち、面会室に一人の女性が姿を現した。
 如月ミキ。おそらく、現在日本国内において、もっとも衆目を集めている二十四歳である。
 一度会釈をし、彼女は椅子に腰を下ろした。目の前にそびえる一枚の透明で巨大な板が、私たちの行動から権利にいたるまでを如実に分断しようとしている。
 ふるいにかけられて、落ちた先が向こう側なのか、それとも逆か。私は数秒、極めてどうでもいい思慮に耽った。
「あなたがわたしの先生?」首を傾げて、如月は少女のような笑顔で問うた。「素敵な方」
「……」私は困った。
「ああ、自己紹介はいいです、時間が惜しいから。何から話しましょうか」
「事件についていいですか」
「いいじゃないですか、そんなどうでもいいこと。忘れなさい」えい、と人差し指を振る。
 帰ろうかと思った。
「あ、あ、うそです、ごめんなさい……」如月はうな垂れた。「みてみて」
 見るとテーブルに額をこすりつけている。
「憐れな」思わず本心が意識を通さず口から出てしまった。失言。
 私は堰を一つする。
「あなたは憐れでいらっしゃいます」言い直した。
「……暇なのです、こっち」むくりと起き上がる。おでこが赤かった。「先生、あれでしたら、わたしがやりましたよ」
「自白するんなら警察か検察官に言ってくれませんか」この接見が徒労だったことを早々と悟り、私はため息を吐く。「当番弁護士制度まで行使しておいて……」
「ちなみに当番弁護士制度は、一回目に限り無料で弁護士と接見できる、家計の厳しい庶民にとって非常に心強い制度なんですよね、先生」
「はい、そのとおりです。良い子のみんなも、恐いお巡りさんに逮捕されたら、とても不安だと思うんだ。そんな時は落ち着いてこの制度を利用しようね!」
 二人とも不自然なほど真横を向いて、笑顔ではきはきと言葉を投げかける。
 再度、向かい合う。
「わたし……不安で不安でたまらなくて」如月は急にしおらしくなった。「乙女ですから」
「だんまりだったそうで」
「ぺっ」唾棄。「ヤニくさいジジイは嫌いです」
「えーと」私は全力で聞こえなかったふりをして、ポストイットの貼られた手帳を開く。「八月十日、K大学病院に入院中の患者九名を刃物で殺害」
「悪い奴がいるもんですね」
「え、頭が?」
「やだー先生、冗談が上手!」
 耳だろうか。

53 :No.15 如月ミキの場合 2/4 ◇gtyBrNPylc:08/02/18 00:22:48 ID:BZcQtSMZ
 まあ、どちらにしても。
「こんなことを詮索するのは、邪なんだろうけど」乱される心と裏腹に、口調は平静を装う。「どうしてあの九人だったんだろう?」
 そして、長い静寂が訪れる。
 如月はスッと両目を細める。視覚からの余分な情報を減らし、思考に鋭角の指向性を持たせようとする行為のようにも取れる。口角が上がった。
「救済ですか?」そんな筈がない。しかし、私は沈黙の対峙を嫌った。全身の毛が逆立っているのを感じる。
 ……壁が、薄い気がする。
「そんな高尚な思考ではなく、もっと単純な、感情」一点を見据え、平坦な口調で如月が答える。「ね、先生」
 ねっとりと纏わりつく、それは思慕のように。
 私は、十日前に起きた事件のことを思い出す。
「人を殺めることより、人を生かし続けることのほうが、本来罪ではありませんでしたか?」

 
 九名の犠牲者が出た。
 殺されていたのは、余命いくばくもない患者ばかり。
 九人の中には、笑っていた者もいたという。


 私は、数秒の間、答えに窮した。目前の人物に、既定の倫理は通用しないのは、今ので明らかだ。
「人が、殺されるのは罪でないと?」喉からこぼれた言葉の、なんと脆弱なことか。
「人は死にます。死んでもらわないと、地球が滅びます。優先順位ですよ」
「でも中には、悲しんで涙を流した遺族もいたでしょう」全然会話になっていない。それはそのはず、単に周波数を近づける時間を稼ぎたかったのだ。
「無いですよ。涙に意味なんて」そんな私に、彼女は平然と言い放つ。「他人の不幸を嘆く人を、わたしはお目にかかったことがありません」
「うん」
 きっとそうだろう。
「パブロフの犬が、ベルの音を聞いて涎を垂らしたように……、わたしたちは人が死んだら涙を流すよう、仕組まれているに過ぎません。涎と涙の成分の違いだけが、人間のプライドなんです」

54 :No.15 如月ミキの場合 3/4 ◇gtyBrNPylc:08/02/18 00:23:03 ID:BZcQtSMZ
 私は口にたまった唾を飲み込む。
 狂人。
 マスコミが如月ミキにつけた安直なニックネームだ。
 違った。如月は狂ってなどいなかった。常識人とされる者と、正義の単位が違うだけで。
「あなたの倫理は興味深いけど、一般受けはしないでしょう。世間は中央値だから」今、何時だろう。「チューナー合わせるのが大変だ……」
「理解はされなくて当然です。人の数だけ意思が存在するのですから」
「確かに、まあ、多数決がしたいなら、三人いれば充分なわけだけど……」
 腕に巻きつけられた時計に目をやると、対面してから二十分が経過していた。
「死にたいと叫ぶ人を無理やり生かすのは、殺す、でしょう? 意味が逆転してますね」眉をひそめて、如月が首を再び傾げる。「生かすが殺すで、殺すが生かすで、殺すが堕ろすで……おや?」
「豆腐と納豆みたいですね」こんがらがっている彼女に、適当な助け舟を出す。「あれも逆転してる」
「あ、いいです、それ」しぼみかけていた如月が、むくむくと蘇る。「さすが先生だ」
 つまり、あれ。
 如月ミキは、延命処置を受ける彼らを見殺しにできず、殺したわけだ。感情のままに、決して、受け入れられない方法で。
 変質した愛の形。
 そんな幼稚さが、彼女の慈悲だった。
「お腹がへりました」唐突に如月は言う。「へったので帰ります」
 どうやらこのお嬢さん、話の流れや脈絡といったものを気にしないらしい。
 先ほどまで室内を満たしていた空気は霧散してしまった。

55 :No.15 如月ミキの場合 4/4 ◇gtyBrNPylc:08/02/18 00:23:16 ID:BZcQtSMZ
「どこに?」
「わたしの帰りを待つ、サーロインステーキのもとに……」うっとりとした。
「脱走でもするの?」
「トンネル効果を使おうかと」任せておけ、みたいな表情をされる。「まあ、これは宇宙が創られるのと同程度の確率なんですけどね」
「それ、百パーセントってこと?」
「やっぱり先生は素敵です」如月は親指を立てた。「宿命なのです。行かねば」
 きびすを返し、すたすたと歩いていく。
 本当に暇つぶしだったんだ……。
 帰ろう。
「如月さん」
 呼び止める。
「あなたはあの日に、泣きましたか?」
 その質問に、彼女はこちらを顧みた。
 笑顔を貼り付けて。
「さあ、涎と涙とどっちだったかな……。それも、どっちであれ些末な差ですよ、先生」
 扉が閉まった。

 了



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