【 慈悲=無慈悲 】
◆pxtUOeh2oI




41 :No.12 慈悲=無慈悲 1/5 ◇pxtUOeh2oI :08/02/18 00:17:03 ID:BZcQtSMZ
 大学へ伸びる小さな細道は、前を行く人が残した鼻を突く煙草の匂いと、隣接するグラウンドで練習をするアメフト部の
野太い声に包まれていた。右手にはめた腕時計の文字盤を触り時刻を確かめる。十二時四十分頃。
私は右手に持ったハーネスから、私のパートナーである盲導犬の振動を感じつつ少し早足で大学へと向った。
 盲導犬の名前はジス。ラブラドール・レトリーバーの雄、五歳。私が十八歳になり申請が認められ家族の一員となった。
 私は健常者ではなく障害者。光を眩しいと感じ、赤や青などの色を認識できる睛眼者ではなく、全盲の視覚障害者である。
もの心がついた時から、光は温度で感じとるものだったし、いつでも暗いこの世界は音と匂いを中心に構成されていた。
「ライト」
 ジスに右へ曲がる合図を出す。ハーネスがゆっくりと右へ動き、手を引かれた私は向きを変えた。
 大学前の通り、ジスが止まった感触が右手に伝わる。さして交通量が多いわけではない通りだが車が来たのだろう、私も足を止める。
数秒遅れて通過する車の音、そしてそれに続く風切り音、それらを聞き終えるとジスがまた私を引き始めた。
 キャンパスに入ると周りの空気が変わるのが良くわかる。もちろんそれは真剣に勉学に励むなどという、
大学本来の雰囲気にという意味ではなく、充満した煙草の匂いが作る空気へということだが。
 なぜ、こんなに煙草臭いのか? 入学時に貰ったプリントによると、キャンパス内は完全に分煙されているということだった。
どこが? それが入学して初めての抱いた感想である。私は煙草が嫌いだ。
私にとってただでさえ少ない世界の構成情報をこんな匂いで侵して欲しくない。大学へ来る度にイラついた。
煙草の煙はストレスを誰かへ移す為にあるんじゃないかとさえ思える。
「おはよー」
 イラつく私の背後から快活な声が聞こえた。友人の森素子の声だ。
「おはよう」
 挨拶を返すとイラつきが少し治まった。
「今日もひどいねー。点字ブロックの上が自転車でいっぱいだわ」
 素子の声。自転車がたくさん止められているんだろう。場面を想像してみたが、自転車の形がイマイチつかめずイメージがわかない。
点字ブロックの上の自転車、そういった睛眼者の無意識な行為から、自分がこの社会のマイノリティであるということをより実感する。
「私は大丈夫だよ、ジスがいるから」
 ハーネスが小刻みに右へ左へと揺れるのがわかる。ジスが自転車を避けているのだろう。ジスと出会ってから世界が変わった思う。
無機質な白杖にはない安心感が盲導犬にはある。盲導犬のいない生活など考えられないほどに。
「うん、偉いねジス君は、いっつも真面目で私なんか眼中になしだもん。あ、ねえ、今日のゼミの勉強した?」
「まあ、なんとかなるかなというぐらいは。素子は?」
「……やってない」
 声のトーンが一気に落ちた。やってないなら聞かなければ良いのにと思う、おもしろいから良いけど。

42 :No.12 慈悲=無慈悲 2/5 ◇pxtUOeh2oI:08/02/18 00:17:18 ID:BZcQtSMZ
「昨日ね! 欲しかったDVDがやっと手に入ったんだよ。で、見てたら、いつのまにか今日になってたわけで……」
 彼女の趣味は映像鑑賞。アニメ、ドラマ、映画、ドキュメンタリー、気になるものはなんでも見るらしい。
それらがどういったものなのか、もちろん私には理解できない。一応のイメージはあるが、実際の物とは違うだろう。
 仲良くなり始めたころの昼食の時間、一度、彼女に聞いたことがあった。なんで私の前で映像の話をするのか、と。
ほとんどの人はそういった話を出さず、私の近くに来ると決まって無口になっていたから、ものおじしない彼女の考えを知りたかった。
口に何かを頬張り咀嚼音をたてながら、彼女はあっけらかんとした口調で言った。趣味は趣味で嘘をついてもしょうがないし、
私に友里の趣味のヴァイオリンが理解できないのといっしょじゃない? うちはビンボーだからヴァイオリンなんてできないしね、と。
 それは何か違うだろうと思いはしたが、気遣いの無い言葉がうれしかった。ヴァイオリンの話をたくさんしてやるとも思った。
「どうかした?」
「ううん、なんでもない。じゃあ、頑張ってゼミ行こうか」
「フォロー頼むよ」
「自分でなんとかしなさい」
 階段の前に着いたのだろう、ジスが立ち止まる感触がハーネスから右手に伝わる。
私は動きを止めたジスに階段を昇る命令を出し、研究室へと向かって足を進めた。
「ジス。アップカーブ」

 私はせまい研究室の定位置、後列奥のパイプ椅子に座りゼミ仲間の発表を聞いていた。ジスは足もとで待機。
ノートを取ることはできないので、机の上には録音用MDを置く。
 ゼミは進み、私は自分の発表を、音声出力ソフトなどで作ったプリントを使い、無事に終えた。
途中、素子が先生に泣きついて期限を延ばしてもらっていたりはしたが、いつものことなのでゼミは順調に進んでいた。
 次は高村元次の発表だった。私は彼がみんなに配る発表用プリントを受け取り、すぐにバッグにしまった。
後で点訳ボランティアの人に訳してもらわなければ、私には、このプリントを読むことはできない。
「――クラインによると子供の心理的成長は十五歳……」
「質問しても良い?」
 彼の発表は、私の将来の夢にも関わるものだったので、私は手を軽くあげ質問の許可を求めた。
それは普段と何も変わらない、いつも通りの光景だった。
「どうぞ」
「クラインの臨床実験は、後に被験者の生育環境に問題があったとされ否定されたのでは?」
「それについては、さっき配ったプリントに載せているので、後で読んでおいてください」
「すみません。今、読みあげてもらえませんか?」

43 :No.12 慈悲=無慈悲 3/5 ◇pxtUOeh2oI:08/02/18 00:17:34 ID:BZcQtSMZ
 一瞬の間、沈黙。普段ならすぐに読んでくれていた。けど、今日は違った。
「……メクラが」
 メクラ、確かにそう聞こえた。小さく呟くようだったけれど、彼はそう言った。
「たかむらー!」
 隣に座る素子の叫び声、彼女が立ち上がるのがわかった。私は素子を抑える。
「いいよ、素子」
 混乱した場を救うようにチャイムが響いた。
「ごめん。……失礼します」
 高村君が部屋を出たらしい。ざわめき始めた研究室を、先生の鋭い声が律っした。
「はい、静かに。じゃあ、また来週ね。森さんは、ちょっと残りなさい」
「えー」

 ふらふらとジスに引かれ歩いていると、後から追い付いてきた素子の声が聞こえた。
「まぁた、怒られちゃった、ははは。……今日のことは気にしないほうが良いよ」
「うん」
「あいつ、今日なんか機嫌が悪かったんだよ。研究室に来たときから、ムスっとしちゃってさ」
 気付かなかった。気付けなかった。普段とまったく変わらないと思っていた。
「じゃあ私、次も授業あるから。バイバイ」
 素子の気配が離れた。肌に当たる風が冷たい、日が沈んだのだろう。どれだけ歩いても暖かい日向に入ることは無かった。
住宅街を漂う夕食の匂いと居酒屋から漏れはじめた賑やかな声が、夜の訪れを私に告げる。
私はハーネスから伝わるジスの息遣いを感じながら、家路についた。いつでも暗い世界は、私の感情と混ざりよりいっそう陰鬱さを増した。

「ただいま」
 母に帰宅したことを告げ、私は壁伝いに自分の部屋へ向う。部屋に入り手探りで蛍光灯のスイッチを入れたが、
世界は暗く変わらなかった。この部屋の明かりは私の為ではなく、ジスの為のものだから。ジスを部屋の隅に導き、私は命令する。
「ワン、ツウ」
 トイレの命令。盲導犬のトイレは私が掃除しなければならない、と指導員の人から教わった。
初めは素手でジスの糞を掴んでしまうこともあったが、今は慣れ特に問題も無く終わる。私はジスのハーネスを外し、
良く褒めながら、ジスの顔をぐにゃぐなにゃと撫でまわした。これでジスの今日の仕事は終わり、盲導犬から普通の犬に戻る。
「グッド、ジス。グッド」

44 :No.12 慈悲=無慈悲 4/5 ◇pxtUOeh2oI:08/02/18 00:17:49 ID:BZcQtSMZ
 
 食事と風呂を終え、私はベッドの上に突っ伏していた。部屋の隅でジスが何かを噛んでいる音が聞こえる、お気に入りのおもちゃだろう。
普段なら録音したMDを聞き復習している時間だが、今日はそんな気にはなれなかった。メクラ……、視覚障害者として生きてきて、
そう言われたことは何度もある。陰口も直接言われることも慣れていると思っていた。それでも今日はショックだった。
言われた相手が、自分の好意を持った人だったから。ゼミが始まったころの懇親会でやさしくしてくれた、たったそれだけのことだけど
好きだった。でも相手は違う、ただ目の見えない女の子がかわいそうだと思っただけで、好意なんて持っていない、それだけだ。
 そのことだって、良くわかっていたはずだった。いままで付き合った人たちは、私が好きなのではなく、目が見えないかわいそうな
女の子を助けることに酔っている人ばかり、長続きはしなかった。
 私は自分一人では生きられない不完全な人間だ。ジス、家族、友人、そして知らない人、多くの人の慈悲がなければ生きていけない。
電車に乗れば席を譲ってもらえ、道に迷えば知らない人に声をかけられ助けてもらえる。
だからこそ、誰かからの慈悲を受ければ受けるほど、この世界は私にとって無慈悲に作られていると感じていた。
 こんな不完全な私が慈悲ではなく、本当に私を好きになってくれる人を望むのは、おこがましいのだろうか。
 私の目から涙が流れた。光を捉えることのできない不完全な目なのに、なぜ涙が出るのだろう。子供の頃から嫌だった
「ジス、ハウス」
 ジスを部屋から追い出し、電気を消した。カチッと音がむなしく響く、それでも世界は変わらない。
 私はヴァイオリンをケースから取り出し、左の肩に載せ弓を構える。頭の中に楽譜を思い浮かべ弾き始めた。
少しずれるとノイズに変わる滑るような音、添えた左手で弦を抑え、右手の弓で弦を弾く。紡ぎ出した高音が部屋を包み込む。
 曲は素子から勧められた物だった。何かのロボットアニメ、月と地球に分かれ争う中で、主人公が自分の出身を告白する場面に流れたらしい。
アニメに興味はなかったが、聞かされた曲はすぐに気にいった。楽譜を探し、ボランティアの人に点訳をしてもらった。
どこの国の言葉でもない歌詞が付けられたこの曲、私はヴァイオリンの音に合わせて頭の中で歌っていた。
 その場面、そのアニメ主人公は言ったらしい、なんで同じ人間なのに争うのか、なんで助けあうことがいけないのかと。
同じ人間、目の見えない私は同じ人間なのだろうか。助け合う、誰かに助けられなければ生きられない私は、誰かを助けることができるのか。
揺れるヴァイオリンの響きとともに私は考えていた。
 プツン。渇いた音を立てて弦が切れた、E線のようだ。響いていた音色はどこかに消え、世界は静寂と暗闇に引き戻された。
ヴァイオリンをケースに戻し、ベッドに倒れこんだ。自分で直せないこともないが、音が落ちる。何より、やる気が失せていた。
 このまま、眠ってしまおうか。目ざましもかけず、気の向くまで。大学なんて一日ぐらいさぼったって構わないはずだ。
でも、それは無理だった。朝が来れば母が起こしにくるし、駅では駅員さんが私を助ける為に待っている。
誰かに助けられ続ける生活に自由は無い。自由を望むことは許されない。
 あるとき友人に、授業をサボってふらふらとどこかに行きたいと言ったら驚かれたことがある。
 目が見えないのに毎日学校に通う真面目な女の子、目が見えないから純真な女の子、

45 :No.12 慈悲=無慈悲 5/5 ◇pxtUOeh2oI:08/02/18 00:18:02 ID:BZcQtSMZ
そんな女の子の口からサボるなどという単語が出るとは思っていなかったと言っていた。
 目が見えないから真面目、目が見えないから純真、そんなこと誰が決めたのだろうか。
私だって怒るし、イラつくこともある。オナニーだってするし、サボりたいときだってある。
 涙が渇き、かゆくなった目をこする。私は子供の頃、朝が来る度に泣いていたことを思い出した。
寝て起きたら、目が見えるようになっているかも知れない、なんどもそう思っては裏切られ泣いた。
 私は、このまま光を見ることなく生きて行くのだろう。色を知ることなく生きて行くのだろう。
誰かに助けられ、慈悲をかけられて生きて行くのだろう。この慈悲深く無慈悲な世界で……
 パソコンの電源を入れた。Windowsの聞きなれた起動音、メールソフトを立ち上げ音声ナビゲータに通す。
メールが一通届いていた、PCの拙く無機質な合成音声がそれを読み上げる。
「お姉ちゃん、ありがとう、お姉ちゃんの、お陰で、友達と、仲直り、できました」
 視覚障害者コミュニティで知り合った男の子からだった。友達とケンカしたと悩んでいたので、
自分の体験を交えてアドバイスをした。それだけのことだったけど、お礼を言われるとうれしいと感じる。
スクールカウンセラーを目指している私にとって、些細なことだけれども自信にもなった。
 少し嫌な気分が晴れ、気が楽になった。何か音楽でも聞こうかとCDラックに手を伸ばす、点訳テープをなぞるとラヴェルのボレロだった。
CDをコンポに入れスイッチを入れる。はじめは小さな音から同じリズムが幾度となく繰り返される。ときに静かにときに盛大に、
ささやかに残る余韻と厳かな昂りを繰り返しながら、音叉に伝わる共振のように徐々に増える楽器達が厚みある旋律を奏でていた。
 スピーカーから伝わる重厚な振動を体で感じていると、そんな旋律を邪魔するようにパソコンが音声を発した。メールが来たらしい。
パソコンの告げる送信者の名は高村君だった。とぎれとぎれでリズム感の無い合成音声が本文を読み上げる。
「今日は、ごめん、本当に、ごめん、おわびに、今度、メシを、奢るから、どこかに、行かないか」
 ……慈悲? デートの誘い? さっきまでの悩みが吹っ飛び、私のどこかに火がついた。
慈悲だって良い。今、憐みと同情の心しか無いとしても、いつか私を好きになってもらえば良い。いや、好きだと思わせてみせる。
 ずっと暗い世界に響くシンバルの音が、曲と今日の終わりを告げる。寝て起きても目が見えるようになることはないだろう。
それでも私の明日は明るい。明るくしてみせる。静かになった部屋で、私は眠りについた。
 世界は無慈悲だ。だからこそ慈悲深く感じるのだろう……
                                              <了>



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