【 不可の黙々 】
◆LBPyCcG946




37 :No.10 不可の黙々1/2 ◇LBPyCcG946:08/02/18 00:10:56 ID:BZcQtSMZ
 コトコトコトコト。浮かんで弾ける泡は、現世に遷ろう箍だ。男はスロウに棒を握ってまわす。
たまに覗く鍋の中、底に映る顔。具材は特に何の事もなし、玉ねぎ、ニンジン、後はちょっとし
た隠し味のみ。
 火は木のように、コンロから生い茂って、鍋の下から包んでいる。いや、上下なんて最早無く
ていい。とにかく、焦げつかせないように注意するべきだ。火を弱める男、鍋もそれに応じる。
世界はこのスープのようにグルグルと回っている。そしてその地下には、火が眠っている。
 それは男が味見をしようと、鍋の底から一杯掬った時だった。コン、という弱々しい音が響い
て、勝手にドアが開いた。
 囚人がそこにいた。そこに囚人はいたとも言える。そこ以外にこの囚人はおらず、いるのは囚
人だけだった。手には錠、ボロ着れのような服。枯れ木で作った顔に、窪みが2つある。どうや
らその窪みには、1つづつ目玉が収まっているようだ。つくづく穴ぼこだらけの囚人。人はそれ
を顔だと言う。そして人は顔を見る。なぜなら、顔に付いた目玉で物を見てるからだが、体も当
然見ている。顔と体しか見所が無いとは、人とはなんてつまらない物だろう。
 気持ちよく囚人を迎え入れよう男よ。でなければ、この囚人のために作ったスープがあっとい
う間に冷めてしまう。このまどろみも、いずれ目が覚めれば跡形もなく消えて、暖炉の消し炭以
下の物になるだろうか。いや、ならない。
 囚人は怯えているようだった。男も囚人に劣らず負けず怯えている。何よりも怯えている者が、
この2人以外にいる。囚人が片方の足を上げ、少しだけ進めて下ろした。こうして、人は前へ進
むのだ。囚人は男をじっと見つめている。男は囚人の方を向いて、その眼差しを向けていたが、
囚人の事を見てなどいなかった。ちょっとした矛盾であるが、元々世界は矛盾に満ちているのだ
から、今更1つくらい増えた所で。
 男はまた作りかけのスープに没頭する。グルグル、回すグルグル。囚人はじっと男のその姿を
見つめていた。ようやく男も囚人を見た。そこにいるのはなんと、囚人ではないか。男は驚いた。
驚いたという事は、冷静さを欠いたという事だ。でも、ほんの少しだけ欠いたという事だ。何か
を欠く事は、少しだけでも驚くべき事なのだ。
「スープを1杯、飲ませていただけませんか」
 囚人、そう言う。いや、まだ言ってない。まだだ。まだ……、やっと言った。
 この場所には男と囚人しかいない。しかし、囚人の言ったその言葉を聞いていたのは、結局囚
人本人だけだった。いつだって、本当に聞いて欲しい言葉を聞いているのは、他の誰でもなく自
分自身なのだという示しだ。

38 :No.10 不可の黙々2/2 ◇LBPyCcG946:08/02/18 00:11:11 ID:BZcQtSMZ
 囚人は男を殺すと思う。なぜなら、この囚人は、その斧でもう何人も人を殺している。そして
それと同じ数だけ、自分も殺されているのだ。だから囚人なのだ。腸から胃へと、胃から喉を通
り、口へと逆流する様だ。
 男の目の前には湯気がある。湯気はどこへと消えるのだろう。世界中の、ズボンのポケットか、
この世ではなくあの世でもないどこかへか。
 そして斧は、囚人によって振り下ろされた。どこかで拾ったのか、最初から持ってたのか。斧
の刃が男の頭に滑り込み、男の骨は当然割れた。頭の形を構成する頭蓋骨が真っ二つになると、
中には何も入っていなかった。囚人はスープに近寄ったが、当然スープは囚人から遠ざかった。
頭から胸の辺りまで綺麗に割けた男の体を、苦々しく囚人は見つめる。
 叫び声が聞こえた。ずっと遠くから。もっと遠くだ。いや、そのもっともっと遠くからだ。そ
してその叫び声は、1つか2つ瞬きをした瞬間、囚人の耳元へと届けられていた。一体誰が届け
たのか。それはわからないし、どんな叫び声だったのかも、今はわからない。
 スープを作っていたのは誰だったか。確か囚人ではなかったはずだ。となると、スープを作っ
ていたのは男だ。では斧によって頭を真っ二つに割られたのは誰か。これも囚人ではない。とい
う事は、男だ。では、今まさにコンロの前に立って、煮立つスープをかき混ぜているのは誰か?
 男だ。
 囚人は驚いた。先ほども言ったが、冷静さを欠いたという事だ。今殺したはずの人間がいれば、
驚くのも無理はない。囚人は死体を見た。確かにそこにある。囚人は男を見た。確かにそこにい
る。
 耳鳴りのような悲鳴が、スロウに遠くへと飛んでいった。男は囚人を見ず、スープを椀に掬う
と、それを飲んでみようとしたかもしれない。ふいに男が後ろを見ると、なんとそこには囚人が
いるではないか。男は、驚いた。今や男は、驚いた男だった。
 囚人の持っていた斧は、2つに増えていた。右手に持っていたはずの斧だが、左手にも持って
いた。片方には血が、もう片方には赤くて暖かくて臭い液体がこびりついていた。男はスープの
入った椀を囚人に差し出した。囚人は冷静さを欠く。なぜなら、男が笑顔だったからだ。
 囚人はスープを飲まなかった。飲めなかった。飲もうとしなかった。囚人は、牢に入っていな
くても、囚人である事に変わりないのだ。
 スプーンで男によって掬われた一杯のスープは、男の顔の下部にある大きな穴へと運ばれた。
あの隠し味が、囚人の体に浸透していく。



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