22 :No.06 選択1/2 ◇CFP/2ll04c:08/02/17 23:01:24 ID:5krz/sVH
振り返ると妻が立っていた。右手にはバイオリン、左手には銃。
「好きなほうで私に慈悲をお与え下さい」
頬を流れる涙が乾いた跡に、乱れた髪の毛が張り付いたままだった。妻は夫の目を
真っすぐに見つめながら、両手に持っている物を彼に差し出してきた――
夫婦は生活を共にし始めてから三十数年が過ぎていた。子供はいない。
最初の頃、妻は二人の愛の証しを熱望していた。
夫はその反対。産まれてくるモノ――それによって生じるであろう、さまざまな煩わ
しい事態。彼は、これらを想像すると恐ろしさに身震いがした。精緻な機械のように
合理的な彼の頭脳が、その必要は無しと断じるまでに、さほどの時間を要することは無かった。
妻は、わりと早い時期に夫の気持ちに気付いていた。しかし、彼の頑迷さを考えると、自分
の希望を、底なし沼にも似た彼女の鬱屈の中に、深く深く沈めることしかできなかった。
以前の夫はバイオリンをよく弾いていた。妻は編み物をしながら、彼の奏でる名も知らぬ
曲を聴くのが好きだった。しかし、絶えて久しくこの家にバイオリンの音はない。
夫は数学者だった。彼は、数学界で誰も解いたことのない問題に、昼夜を分かたず没頭して
いた。その問題に取りつかれてから、彼は健常な社会生活の埒外に行ってしまった。
大学の教授職をなげうち、知人との交流も絶っていた。その結果、二人の暮らしは困窮を
きわめた。妻が外で働き、そのわずかな収入で糊口をしのいでいた。
一日中机に向かっている彼は、彼の思索の邪魔になる何者も存在を許さなかった。夫婦の
会話は無くなり、いつしか妻は、家の中でわずかな物音を立てることさえ慎むようになっていた。
ある日彼は、その問題にいままでとは、まったく違う角度でアプローチすることを思いついた。
それは、わずかな隙間から垂らされた、いつ切れてもおかしくない細い糸を、手繰り寄せていく
ような、とてもデリケートな作業だった。あとわずかで、数十年縛りつけられていた悪魔の楔から
解放されるのかと思うと、彼は自然と興奮していた。
23 :No.06 選択2/2 ◇CFP/2ll04c:08/02/17 23:02:43 ID:5krz/sVH
――ガチャン――
狭い家中にその音が鳴り響いた瞬間、彼がやっと見つけたか細い糸はぷつんと切れてしまった。
不幸なことにそれをノートに記していなかった。頭の中でその素晴らしい着想をまとめている最中
だった。彼は、空しく目の前の虚空を見つめた。そのあたりにまだ逃げていったものが、漂っている
のではないかと、頭の片隅でぼんやり考えていた。
彼はおもむろに立ち上がり、音のした台所へと向かった。そこでは粉々に砕けた皿が床に散らばり
蒼ざめた顔で突っ立っている彼の妻がいた。
「ご、ごめんなさい。私ぼんやりして……」
彼は最後まで聞くことなく、彼女の頬をおもいきり打った。彼女は床にくず折れた。床に突っ伏した
ままの妻をそこに残して、彼は自分の部屋へ戻っていった。
「あなたを愛しています。あなたがどちらを選んでも私は幸せです」
彼は妻が両手に持っている物を黙って見ていた。そして、長年献身的に尽くしてくれた妻の顔を見上
げた。慈愛に満ちた彼女の表情を見つめるうちに、数十年に渡って、自分の犯してきた過ちにようやく
思いが到った。それを初めて自覚した彼は、その重みに押し潰されそうだった。
「すまなかった……」
やっとの思いで声を絞りだすと、彼は手を伸ばした。ゆっくりとした動作で、それを彼女から受け取った。
その手に握られたのはバイオリンだった――
妻は机に銃を置き、椅子に腰を掛けた。そして、夫の奏でるバイオリンに、出会った頃の幸せに満ち
た日々を重ねていた。
演奏が終わると彼女は夫を抱きしめ、静かに部屋を出て行った。
「本当にすまなかった……」
夫は、妻には届かない償いの言葉をもう一度口にすると、机の上の銃を取り、こめかみに銃口を当てた。
完