【 月のマリア 】
◆gNIivMScKg




17 :No.05 月のマリア 1/5 ◇gNIivMScKg:08/02/17 22:55:44 ID:5krz/sVH
「愛ってさ……」
 こんな出だしで始まる会話が不毛でなかった例はない。いかに己の人生観を語ろうと、いかに偉人の言葉を借りようと、と
どのつまり理想論と価値観の相違という結論に達するに決まっているから。
「そんなことより、さっさと仕事片付けちゃおうぜ」
 一見、神妙そうに見えるミリアムの肩をポン、と叩き、最後の区画へ向かうため出口に足を向ける。
「何よ。もう少し真面目に相手してくれたっていいじゃない」
 怒っているような笑っているような声が後方から響く。肩をすくめる振りをしながら、俺は人気のない礼拝堂を軽やかとは
言えない足取りで歩く。『LCS』と書かれたバケツにモップに、その他諸々の清掃用具。それらを両手両肩に携えて。

 二十二世紀初頭に始まった、月の北極に位置するムーンベース内居住区を中心とした月面への移住計画。半世紀ほど前には
夢物語でしかなかったこの計画は、間もなく訪れる地球の人口飽和状態を打開すべく行われる他の惑星への植民計画のさきが
けとして進められた。
 というのは表向きの理由。実際の理由はもっとインダストリアルな面にある。詳しいことは俺にはわからないが、惑星探査
における対エネルギーコストや、低重力下実験とそれに付随する新技術の開発が主な目的だという話だ。それを裏付けるよう
に、ここに移住してくる人間のほとんどが技術者や研究者で、俺たちのような技術も知識も持たない人間はほんの一握りでし
かない。
 そういった俺たち平凡な移民たちが日々何をしているのかというと、実のところ何もしていなかったりする。正確には毎日
課せられた運動をしたり、検査を受けたりをしているわけだが、普通の生活を送る人間の健康なデータを取らせることが与え
られた使命であるため、基本的には仕事らしい仕事は何もない。

18 :No.05 月のマリア 2/5 ◇gNIivMScKg:08/02/17 22:56:29 ID:5krz/sVH
「よし、ここでラストだ。気合入れていくぞ!」
 なのに何故俺たちがこんな『仕事』をしているのかというと、簡単に言ってしまえば健康のためなのだ。日がな一日、読書
をしたり、談笑したり、ゴロゴロしたり。中には宗教上の理由からお祈りを日課にするものもいるが、幸せと言うにはあまり
にも単調な毎日はやはり、精神上不衛生であることは誰の目にも明らかだ。もちろん移住に際して配慮がなかったわけではな
いが、対価のない娯楽は虚しさを助長するものであったらしい。
 そこで発足されたのが月面居住者人権保護団体『ASLHR』。目的は俺たちのような凡庸な居住者にも生きる目的を作り
出すこと。掲げている言葉は大層だが、要は暇だから何か仕事をさせてくれ、と地球のお偉いさんにかけあうための組織だ。
そして、要求があっさりと通った今では一般人の仕事斡旋所として機能している。その業務内容は様々で、散らかしてしまっ
た娯楽場の片付け、バスケットボールの審判、絵画のモデル、ラブレターの代筆などなど数え上げたらきりがない。地球で生
活していた頃では考えられないほどの瑣末なことばかりだが、それでもあの頃は希薄になりがちだった労働の尊さというもの
をここでは実感できる。報酬が労働後の上手いビールだけだとしても。
 そんな中、最も人気の高い職業が清掃業。すなわち、たった今、俺がやっている仕事だ。大気のない月面では空気の循環は
全て建物内で完結する。酸素を発生させる部屋があり、二酸化炭素を吸収する部屋があり、還元された炭素を再利用する部屋
がある。同じ空気を循環させているから当然埃も溜まる。さらに、月に一回は月面調査のため探査チームがベースから外へ出
て行くのだが、その時に月面の塵がベースの中へ入り込んでくる。ほとんどはフィルタのよって取り除かれるのだが、どうし
ても完全には捕らえ切れないらしく、ベース内や居住区の埃を増やす原因になっている。その溜まった汚れをなんとかしてや
ろう、というのがこの清掃業『ルナサイド・クリーンアップ・サービス』なのだ。遊びのような仕事の中では珍しく本当の意
味でみんなの役に立つ仕事だ。だからこその人気ともいえる。

「ふう。あらかた終わったかな。そっちはどうだ?」
 エントランスの壁面ガラスの乾拭きを終えて、入り口付近の床面ワックスをかけているはずのミリアムの方を窺う。

19 :No.05 月のマリア 3/5 ◇gNIivMScKg:08/02/17 22:57:23 ID:5krz/sVH
「…………」
 返事がない。それどころか、どこか放心した様子で何もないはずの中空を見つめ彼女は固まっていた。
「おい?」
 訝しげにかけた俺の声にようやく我に返ったのか、振り向き取り繕うように笑った。
「あ、ワックス掛けは終わってるよ。今日の仕事はこれで完了ね」
 いそいそと用具の片づけを始める様子を見て、俺も自分の用具をまとめ始める。……なんだろう。何か、変だ。
 彼女とは家族でも恋人でもない。単なる仕事仲間ではあるが、付き合いはそれなりに長い。何かを思いつけば考えるよりも
先に口に出してしまう性格であることも、悩みを心のうちに溜め込んでしまうようなタイプでないことも知っている。その彼
女があんな笑顔を見せたことに強い違和感を感じずにいられなかった。
 手を止めて彼女の方を見てみる。先ほど浮かべていたあの顔はなく、真剣とも笑顔ともつかない、いつもの表情で雑巾を畳
んでいた。俺の考えすぎだろうか。とにかく今は片づけを終わらせよう。後で直接本人に聞いてみればいいさ。時間は嫌と言
うほど余っているんだ。

「任務終了だ。早く居住区に戻って報告してしまおう」
 雑巾の最後の一枚をバケツの縁にかけながら俺はできるだけ晴れやかに言う。そして、その後談話室でビールなんかを飲み
ながらでも話を聞いてみよう。そんなことを考えていた。
「ちょっと待って。その前に、少し礼拝堂に行かない?」
 予想外に答えられた言葉に俺は口まで出かかった疑問を飲み込んだ。彼女の目が憂いを帯びていたように見えたから。少し
躊躇いはしたが、わかった、と短く答える。肩に背負いかけた仕事道具をピカピカの床に置くと、ついさっきまで作業してい
た礼拝堂の扉に手をかけて促すように振り向く。
「理由は聞かないのね?」
「まあ、な」
 両開きの扉の向こうに見える景色は、さっき足を踏み入れたときとは違って見えた。奥を向いた三人掛けの質素なテーブル
が左右対称に十数脚。それらが向く先には人二人分くらいの大きさの女性の姿。その顔は優しげで、悲しげで、見るもの全て
の心を静める、そんな存在感を纏っていた。
 その景色の中をミリアムはゆっくりと歩いていく。わき目も振らず、ただ真っ直ぐと。俺はその後ろをついて歩きながら、
なんとも言えない不安を感じていた。
 やがて、像の前で立ち止まった彼女はくるりと振り返る。そして、その透き通った瞳をかすかに揺らして、俺にこう告げた。
「私ね、もうすぐ地球に帰るの」

20 :No.05 月のマリア 4/5 ◇gNIivMScKg:08/02/17 22:58:07 ID:5krz/sVH
「なん、だって……?」
 この感情をなんと呼べばいいのか。怒りのような、悲しみのような、裏切られたような、信じられないような。様々な負の
感情がない交ぜのスープになって胃を逆流する感覚。感情と理性が飽和して放心する俺を見ているのかいないのか、彼女は続
ける。
「病気なんだって、私。自覚症状はないんだけど、このままじゃここで暮らせるような体じゃなくなるんだって、ドクターは
言ってた。地球に帰れば治るものらしいんだけど」
 淡々と語る顔には笑顔が浮かんでいた。どうしてだかはわからない。俺はいつの間にか彼女の後ろに佇立する聖母を見つめ
ていた。この世全てを慈しむような、この世全てを包み込むような、その顔を。
「私ね、病気だってこと知らされてから、ここによく来るようになったの。おかしいでしょ? クリスチャンでもないのにさ。
でもね、ここにくると不思議と落ち着いていられたの」
 視線を戻す。彼女の瞳は相変わらず俺を映し続けていた。
「あのね、いきなりって思うかもしれないけど、さっきの話の続き、していい?」
 よくわからないながらも、俺は黙って頷く。
「ありがとう。えっとね……愛、ってさ、色々形があると思わない? 恋愛感情の愛もあれば、家族や友達への愛、物や場所
への愛だってある。もっと本能的なところでは異性の体を求める気持ちだって愛って呼べるよね」
 語りだしたミリアムの顔は明るい。自分がしているであろう表情を思い浮かべて少し情けない気持ちになったが、そんなこ
とより今は彼女の話を聞こう。
「そしてその愛は全部、相手があって初めて意味のある愛なんだよね。つまりさ、自分の見てる人、自分が思い描くビジョン、
自分に応えてくれるものがあるからこそで、究極的には自分への愛の投射の産物だと思うんだ」
 一度開かれた口は止め処なく言葉を紡ぎだす。ああ、いつもの彼女だ。そんなことを思いながら、いつもとは違う調子にゆ
がむその顔を見つめていた。
「自分が病気だってわかってからの仕事は正直つらかった。だって、もうすぐいなくなっちゃうのに、そこでしてあげられる
ことは、やっぱり自分のためのものでしかなかったから。大好きな人たちや大好きな場所に、何の見返りもなく、何かをして
あげたい。なのに、その思いでさえも結局は自分のため……寂しいっていう気持ちも、離れたくないっていう気持ちも」

 零れ落ちた一滴のしずく。それが綺麗に磨かれた床の上で小さな真珠のように光を反射する。
 目の前の女性に何を言ってやれる?
 気がつけば、膨れ上がっていた泡がはじけたように俺の心は静けさを取り戻していた。
「それで、いいんじゃないのか?」
 やっとのことで、俺が口に出せた言葉。陳腐な響きは百も承知。だが、この場に最も相応しい響きだった。

21 :No.05 月のマリア 5/5 ◇gNIivMScKg:08/02/17 22:58:43 ID:5krz/sVH
「きっと誰もが生きている限り自分のため、何かを愛する。それは恥ずかしいことでも、悲しいことでもない。ただ、もしそ
の愛が永久に、受け取るはずの自分が存在しなくなるその日まで続いたなら、きっと行き場を失った愛は本来与えられるはず
の所へ飛んでいくんじゃないかな。そしてそれが君が求める愛の形なんだと、思う」
 潤んだ瞳が俺を捉える。静寂が支配する永遠にも似た数秒間。ただ見つめ、見つめられていた。
 やがて沈黙の帳と共に開かれた口元。そこには、僅かな笑みが浮かんでいた。
「詭弁ね」
「そうかな」
「言い訳と言ってもいいわ」
 悪戯っぽく非難する彼女に、俺はいつか聞いた言葉を口にする。
「言い訳は神様が哀れな俺たちに贈った慈悲、さ」
 その夜、俺たちはミリアムのささやかな送別会を開いた。彼女はずっと笑っていた。
 映るもの全てに愛を注ぐように。ずっと、笑っていた。
 そして一週間後。彼女は地球へと去った。

「よし、こんなもんだろ」
 相も変わらず俺は清掃業に精を出している。暇つぶしと達成感。そして、ほんのちょっとの感謝。そんなものを得るために
こうして毎日飽きもせず床を磨いたり、テーブルを拭いたりしているしているわけだ。これだけ長い間同じ仕事ばかりやって
いると、多少なりともコツが掴めてきたりするもんらしい。
「なーんかコレ、やけにきれいじゃないっすか?」
 今日の相方である痩せた黒人の少年が不思議そうに礼拝堂の像を見上げる。
「そりゃあ俺が毎日お世話してるからな」
 手際よく片付けながらそんな風に答えた俺はふと、ある女性の顔を思い浮かべる。
「へえ、リョウさんってクリスチャンだったんですか。意外だなあ」
「バカ言うな。俺は無神論者だよ。生まれた国の伝統でね」
 ますます不思議そうな顔をする少年を横目に俺は生まれた惑星に思いを馳せる。

 ――元気でいるだろうか。

 早く行こう、と急かす相棒。これだからガキは、と茶化す俺。
 そんな楽しくてくだらないやりとりを月面のマリア像はいつまでも、見守っていた。 <了>



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