【 青空が抱く幻想を見つめて 】
◆CH1dcDbVHA




146 :時間外No.01 青空が抱く幻想を見つめて 1/3 ◇CH1dcDbVHA:08/02/11 01:30:45 ID:S44wChK6
 彼女は現在、限りなく集中していた。
 全神経を筆先に集め、絵は巧みに塗り分けられてゆく。その様は、さながら雲が霞み、抜けるような大空が姿を現したかのようだっ
た。
 一旦作業をやめたのか、彼女――名は翼と言う――は真剣な面持ちを心なしか綻ばせた。そして翼は、こちらへ目を向けると、にっ
こりと微笑してみせた。
 その翼の癖とも言うべき仕草に、私はいつとて慣れることがなかった。これまでに何度この場面を繰り返しただろうか――そして、
これからも私は彼女に、つかみどころの無いむず痒い思いをさせられるのだろう。
 いつの間にか、私が感慨に耽っていた間に、彼女は近づいてきていたようだ。
 翼の手によって、私は為されるがままに窓際に移動させられた。私を導く彼女の指はか細く、それでいてなかなかどうして柔らかい
。日々絵描きに専念している為か指は白く、言うならば新雪――細く柔らかくも白い――この言葉がぴったり当てはまるなあ、と窓際
の椅子に腰掛けながら私は実感する。
 翼も私と並ぶようにして椅子に腰掛けた。座るに至るまでの一連の動作が優雅でいながらも自然で、私は息をのんだ。彼女は日常の
ワンシーンにすら過ぎないような場面においても、私を果てしなく惹きつける。常に自然体であることが、彼女が類まれなる芸術的才
覚を持つ所以なのかもしれない。
 ――これほどまでの魅力を備えているにもかかわらず、何故、翼の絵は売れないのだろうか……この疑問は尽きる事はない。
 時に翼は町まで出かけることがある。わざわざ町まで絵を売り込みに行っているに違いない。帰ってくるときは、決まって数枚の絵
を脇に抱えながら、顔に疲れを色濃く浮かべている。画家を志す少女はその疲れを癒すことはなく、尚膨らみ続ける疲労を抱いたまま
眠りに落ちてゆく。
 帰宅した翼は見るに耐えなかった。
 そんな翼を前にし、何もすることが出来ない自分を、ただ見守ることしかできない自分を、手を差し伸べられない自分を呪った。夜
闇にも似た黒い憎悪で、私自身が塗りつぶされてしまいそうだった。
 
 ◇

147 :時間外No.01 青空が抱く幻想を見つめて 2/3 ◇CH1dcDbVHA:08/02/11 01:31:20 ID:S44wChK6
 
 ある日の事だった。
 いつもの通り、窓際の椅子に腰掛け、何と言うことも無く空を見つめていた私の視界を、突如として煙が侵食し始めた。空が穢れて
ゆく。翼と私と共にあり続けた美しき空が。
 ただ事ではない、と私は直感した。訝しい気持ちが次第に頭をもたげ、翼が部屋に居ないことに気がついた。いや、翼だけではない
、今まで書き溜め続けた絵が一枚も無い――
 その事実に気づいた刹那、部屋と外とを繋ぐ扉が開いた。
 部屋に入ってくる翼の顔は本来の可憐さを失い、今や泣き崩れる孤独な少女でしかなかった。私の隣の椅子に掛け、机に突っ伏して
ひたすら泣きじゃくった。
 私は翼がどのくらいの間、絵画の世界に身をおいているのか知らないが、私が彼女の涙を見たのは今回が初めてだった。
 一時の衝動に駆られ、幾ら追い続けども叶わない夢を消し去るかのように、全ての絵を燃やしてしまった翼の涙は、ほとんどの諦め
と、一片の後悔が結晶したものに違いない。
 ようやく、堰を切ったようにあふれ出す涙を止めた翼は、こちらをひたと見つめてくる。愛惜を込めているかのように、彼女の目は
どこか切なさを感じて取ることができた。しかし、切なさの色も消え失せたかと思うと、私をむんずと掴んだ。
 私は覚悟した。いつかこうなるだろうことは容易に予想がついていた。それが今訪れたまでのこと――不思議と恐怖の感情は沸かな
かった。
「何が駄目なのよ……!」
 苦しさを伴いながら言葉を搾り出した彼女の手は、震えていた。か細くも白い手が小刻みに揺れ、迷いを体現していた。
 すると、翼は私に背中を向けさせた。そうしたが最後、私から手を離し再び机に突っ伏し、泥のように眠ってしまった。
 翼には、私の知り得ぬ何かがあるのかもしれない。翼は私に対して、特別な思い入れがあるのだろうかと思案したことはしばしばあ
る。
 一体私がどうしたというのだろうか。
 私と翼が、出会う前に何かが。

148 :時間外No.01 青空が抱く幻想を見つめて 3/3 ◇CH1dcDbVHA:08/02/11 01:31:48 ID:S44wChK6
 
 ◇

 朝になると、翼は自然に目を覚ました。
 目覚めた直後、彼女は憑かれたように画材を集め、カンバスに向かった。
 朝食、ついには昼食も摂らず、一心不乱に描き続けた。色彩豊かに筆が滑り絵画が完成してゆく様は、従来の彼女の技術の枠を超え
たものだった。
 何が翼をそうさせたのかは分からなかった。翼は大きく跳躍し、積雲を超えて、燦々と陽光降り注ぐ青空を仰いだのだった。
 天性の才能は、今ここに昇華した。

 絵を売りに出かけ帰ってきた翼は、最高の笑顔を私にくれた。
 その笑みが絶えることはなく、私をいとおしげに見つめながら彼女は目を瞑り、深い眠りに落ちた。
 こうして、今も私は翼の横で見守るばかりでしかない。どうして彼女が私を見捨てなかったのか、未だにわからない。手を差し伸べ
、些かの負担を軽減してあげることすらできやしないのだ。
 なぜなら、私は――彼女が描いた絵なのだから。
 見守ることが彼女の支えとなるなら、それに精一杯答えたいと思う。
 翼が私に向けるまなざしが、いつも笑っていられることを願いながら。
 
 ◇

 窓辺にぽつねんと置かれた一枚の少女の絵は、幾層にも塗り重ねられ、他の絵と比べて一際精彩を放っている。
 突然、窓から風が吹き込み、その絵はひらりと舞い、床に裏返りながら落ちた。
 紙の裏は一見白紙のようでありながら、隅の辺りにうっすらと字が記してあった。
 長い年月を経ているのだろうか、その字はかすれているようだ――
 
 『 title:私を見守る少女

   My first picture! I want to become a painter! 』



BACK−放課後イクスキューズ◆p/4uMzQz/M  |  INDEXへ  |  NEXT−心象風景◆c3VBi.yFnU