【 心象風景 】
◆c3VBi.yFnU




149 :時間外No.02 心象風景 1/5 ◇c3VBi.yFnU:08/02/11 06:25:16 ID:S44wChK6
 冬の雨が窓を濡らす二月のある日曜日、昼間から僕は部屋でパソコンに向かい、明日までに納め
なければならない原稿を書き上げようとキーボードを叩いていた。髪を後ろに束ね眼鏡を掛けたそ
の姿は、どう見ても二十代のそれじゃない。僕もここ最近で随分と老け込んだものだ。近代絵画に
ついてのコラムの執筆を任されたのは先週の日曜日、今日で丁度一週間が経っていた。元々芸術と
いう分野には疎かった僕がこの仕事を引き受けたのは、以前勤めていた編集プロダクションの先輩
に言われたからだ。「ライターって仕事の一番いいとこは、勉強しながら金がもらえることだ」と。
僕はその言葉を信じて、今までフリーライターという仕事をやってきたのだ。
 僕はコーヒーメーカーのスイッチを入れ、カップを温めようとポットのお湯を注ぐ。これで六杯
目。昨日から徹夜で酷使し続けてきた僕の指と眼は、そろそろ限界を迎えようとしていた。肩凝り
が酷い方ではないが、いい加減動かないと身体のあちこちがギシギシと不快な音を立てている。両
肩を二、三度回し、今更効果は無いかもしれないがストレッチを軽く行なう。あまり広くない、と
いうか狭い部類に入る僕の部屋では、マッサージチェアなんてものを導入することは出来ない。い
つか広い部屋に住んでやろうという気概だけでやってきたが、そろそろ現実的では無いなと思い始
めている今日この頃だ。
「豆が無くなるよ、このままじゃ」
 出来上がったコーヒーをカップに注ぎ、僕は再びパソコンに向かう。デスクの上はこの仕事のた
めに集めた資料が山積みされている。美術の本というものは意外と高いもので、必要なものを全て
買い揃えるとなると原稿料より高くなってしまう。いい仕事をするにはそれなりの投資も必要で、
それは将来に向けての先行投資と言えなくも無い。だが、目先の生活の方が大切な現状ではそんな
余裕は無い。全て図書館で借りてきたり、知人から貰い受けたものだ。
 絵画というものは本当に奥が深いらしい。学生の頃、友人に連れられてとある画家の絵画展に行
った事があったが、その時の僕は困惑してしまっていた。何の変哲も無いただの風景画を前にして
何となく綺麗な絵だなと思っている僕と、何やら感銘を受けている友人との温度差を今でも覚えて
いる。落ち穂を拾っているだけの絵にどうしてそこまで感動できるのか、僕には理解できなかった。
綺麗だ、美しいなというのは理解できる。だが、そこに表現されているという作者の意図や心情を
汲み取ることなんて、僕には出来なかった。それは今も、残念なことに変わっていない。
 僕はコーヒー片手に資料をめくる。今回の仕事は、近代絵画の中でも特に「シュルレアリスム」
と呼ばれるものだった。ダリという画家に代表されるその形態は、超現実主義と訳される。それす
らも僕は知らなかった。資料に載せられている絵を何点か見たが、どうも現実的には見えない。寧
ろ非現実的だ。人体の構造がおかしかったり、一見するとよくわからない生き物のようなものが描

150 :時間外No.02 心象風景 2/5 ◇c3VBi.yFnU:08/02/11 06:25:42 ID:S44wChK6
かれていたりと、要は僕の頭では到底理解できそうに無いものだった。理解できないものを説明す
るなんてことは到底不可能だが、それでも書かなくてはいけないところが仕事の辛いところだ。
「ふぅ……」
 溜息を一つ吐く。ここ最近は夢にまであの変な絵が出てくるようになってしまった。この絵を描
いた人物は一体何を表現しようとしたのだろう。人の罪か悲しみか。それとも怒りか、はたまた喜
びか。哲学なんてものは勿論解らない。この絵に哲学があるのかも知らない。まさしく「絵」だ。
僕にとってそれ以上でも以下でもない。時代背景や作者の人物像以前の問題で、僕にはこの絵を理
解するほどの哲学と教養がないのだ。それどころか感性も欠けている気がする。
「だめだな、僕は」
 音楽をかけようと思った。先日音楽に関するコラムを書いたのだが、そのときに買ったCDがある
のを思い出したのだ。それも所謂現代音楽というもので、ポップスやロックなどとはまた異なる分
野だ。近代クラシックとでも言おうか、僕はそうコラムでも述べた。意味において矛盾しているが、
語感が良いと思ったのだ。読者からの反応はいまいちだったが。僕は音楽プレーヤーを起動し、ヘ
ッドフォンを耳に掛ける。
 机の上の携帯電話が震えた。なんともタイミングの悪い、編集者からの電話だ。あまり出たくは
無かったが、かといって無視するわけにもいかない。ヘッドフォンを首に掛け、プレーヤーを一時
停止する。見慣れた携帯番号だ。僕は電話に出た。
「もしもし」
「ああ、俺だよ。すまない、仕事中だったか?」
 耳元のスピーカーから聞き慣れた声がする。今回の仕事先の編集長の声だ。今まで何回か仕事で
世話になった。彼の事だ、大方僕の仕事の進行具合を気にして電話を掛けたのだろう。まだ若いの
に心配性な男だと思う。いや、若いから心配性になるのか。そうだな、出世に響くもの。
「まぁ、仕事中といえばそうなる。僕に勤務時間なんて無いから、君らの感覚ではそうとは言わな
いかも知れないけど」
 この男とは大学の頃からの知り合いだ。かつて一緒に絵画展を見に行ったのも彼。知り合った頃
から美術に興味を抱いていたようで、恐らくは美術関連の仕事に就くであろうと僕は思っていた。
だから、出版社で編集をやると聞いたときはそれなりに驚いた。今回の仕事で使う資料も何点かは
彼に借りた。役には立たなかったが。
「そうだな、羨ましい限りだ。休日出勤なんて想像もつかないだろうな、君には」
 少しの嫌味も感じさせずに彼は言った。電話の向こうで笑っているのだろう、声色は明るかった。

151 :時間外No.02 心象風景 3/5 ◇c3VBi.yFnU:08/02/11 06:26:05 ID:S44wChK6
彼は皮肉がわかる男だ。その点で彼はとても話しやすい男だった。僕は少々捻くれた性格をしてい
るので、まともに話せる知人は彼以外に殆んど居ない。
「逆に言えば年中無休だ。いつでも仕事は受け付けているよ。収入が不安定なものでね、貰えるう
ちにもらっておきたい」
 フリーライターという仕事は安定した収入が無い。はっきりいってフリーターと何ら変わるとこ
ろは無いのだ。肩書きが付いてくるだけ、社会的立場は殆んど変わらない。聞こえはいいのかもし
れないが。
「だろうな。まぁ仕事なら幾らでもある、この仕事が終わったらまた紹介するよ」
 彼の紹介する仕事は結構な金額が貰える。その分仕事自体がシビアなのだが、それは致し方ない。
贅沢を言っては食いはぐれる立場なのだ。出来ることはやる。それが今の僕に一番必要なこと。だ
が、それでも言いたいことはある。
「そろそろ芸術関連の仕事はよしてくれないかな。仕事は勉強だと君に言ったのは確かに僕だ。で
も息継ぎも必要だよ。次はなるべく頭を使わなくて済む仕事がいい」
 僕がそう言うと、電話越しに彼がクスリと笑ったのが聞こえた。
「君の弱音も、久しぶりに聞いた気がするな」
 彼はそう言った。弱音か、彼は今僕が言ったことをそう受け取ったらしい。
「今回の仕事も期待できそうだ。出来た原稿はメールで送ってくれ。じゃあな。身体に気をつけろ
よ?」
 電話が切れた。僕は何か特別なことを言っただろうか。期待してくれるのはいいが、根拠の無い
ものはやめて欲しい。「君は頑張れば出来る子だ」と言われるのと何ら変わりは無いだろうに。僕
も大人だ、いい加減そんな戯言に惑わされたりはしないが。彼は僕と違って皮肉は言わない。冗談
はよく言うが、今の口調はそれではなかった。
「やれやれ……」
 再びヘッドフォンを掛ける。奮発して良い物を買った甲斐があった、中々いい音を奏でてくれる。
惜しいのはプレーヤーか。いつかヘッドフォンでなく、最高のオーディオコンポで聞きたいものだ。
静かな、どこか不思議な雰囲気の音楽がヘッドフォンの中で響く。心地良い。これなら作業も捗り
そうだ。僕は改めて資料に目を通す。相変わらず描かれているのは意味不明な絵で、結局音楽だけ
では作業にあまり影響は及ぼさないらしい。考えてみれば、音楽一つで僕の頭にすばらしい感性が
芽生えるわけも無く。とにかく芸術理論くらいは頭に叩き込もうと、音楽を聴きながらひたすら資
料を読み漁ることにした。

152 :時間外No.02 心象風景 4/5 ◇c3VBi.yFnU:08/02/11 06:26:22 ID:S44wChK6
 無音であることに気付いて意識を取り戻したのは、すっかり陽が傾いた午後四時過ぎだった。音
を垂れ流していたはずのヘッドフォンは只の耳栓と化していて、そのせいだろうか、一時間ほど前
に電話が来ていたことに気付かなかった。先程の電話番号とは違うが、今回の仕事先からだった。
会社の番号で掛けてきている。僕は電話を取り、履歴から発信ボタンを押した。
「もしもし」
 僕がそう言うと、聞き慣れない声がした。まだ若い、十代かと思えるような男の声だった。
「ああ、済みません。お忙しいと思って、こちらから掛け直すつもりだったんですが」
 開口一番に謝られる。忙しいのは確かだが、それでも寝ていた僕が悪いのだ、謝られる必要は無
い。だが一々訂正するのも面倒なので、一言誤り、用件を聞くことにした。相手は些か戸惑ってい
るようだった。僕が謝るのがそんなにおかしいのか。
「その、ですね。原稿のほうなんですが」
「明日までにはお届けしますよ。期限は明日一杯だったはずでしょう」
 原稿の催促自体は珍しいことでは無い。ただ、期限の前に言われるのは今まで無かった。それに
どうも相手の様子がおかしい。いくらなんでも動揺しすぎではないだろうか。
「掲載予定の雑誌が発売延期になりまして。期限は明々後日までに延期になりました」
 ああ、それだけか。確かに向うにしてみれば一大事だろうが、僕にとっては有難い。了解したと
の旨を伝えると、相手はまた謝った後、電話を切った。新人だったのだろうか、どうもぎこちなか
った。再びパソコンに向かう。今度はメールが来ていた。差出人は昼間の彼。今度は何だとメール
を開くと、妙なことが書いていた。
 次の日、僕は都心の美術館に来ていた。昨日のメールにあったのだ。今日ここで開かれる展覧会
に行けと。彼は仕事で来れないらしいので、僕一人だ。何が悲しくて独り、こんな所に来るのか。
仕事の為だ、確かにそれに間違いは無い。入場料は原稿料に上乗せしておくといわれた。というこ
とはこれも仕事なのだ。意味は無いかもしれないが仕事なのだ。例え今日の展覧会が近代絵画展だ
としても。
 例え今日の出展者が、僕と同じ障害をもっていたとしても。
 その画家は僕とは逆の存在だった。身体は男で脳は女。Male to Famale、一般にMtFと呼ばれる人
だ。僕はFtM、身体は女でも脳が男というものだ。この事を知っているのは編集者のあの男と親以外、
殆んどいない。
 彼がこの展覧会に僕を行かせたのはこういった理由があったからなのだろう。彼の場合は純粋な
好意なのだろうが、いい加減に学ぶべきだ。僕はこういうことをされるのがあまり好きでは無いと。

153 :時間外No.02 心象風景 5/5 ◇c3VBi.yFnU:08/02/11 06:26:45 ID:S44wChK6
 別に秘密にしていたわけでもないが、わざわざカミングアウトすることもないだろうと思っただ
けだ。他の人がどう思うかは知らないが、僕個人としてはあまりそのことで騒がれたくは無かった
というのもある。まだまだこの国はそういった事柄に対して免疫が無いだろうし。以前何らかの拍
子でこの事が周りに知れたら大騒ぎになったことがあった。まるで病人扱い。差別意識をもたれな
かっただけマシなのだろうが、気分の良いものではなかった。
 恐らくこの画家も同じ事を考えていたのだろう。相変わらず絵の持つ芸術性なんてものは理解で
きなかった。ただこの絵に込められた画家の想いというのは、何となく想像できた。恐らく僕が理
解できる唯一の画家と絵だろう。男とも女とも取れない、両方の特徴を兼ね揃えた人間のような物
体が歪んで描かれている。口のような器官は苦しみに悶え、それ以外の器官は見受けられない顔の
ようなものを、手とも足とも取れない細長く肌色の棒が覆っている。まるで誰にも見られたくない
かのように。何もかもが歪んだ暗黒の世界で、それは苦しんでいた。苦しんでいるのだ。この画家
は苦しみ悶え、この絵を完成させたのだ。精神的な苦痛、他人には理解されない苦悩を抱えながら、
それでも己を表現する為、この絵を描いたのだろう。
 二日後、僕は直接編集室に出向き、書き上げた原稿を渡した。あの展覧会以降、僕は資料を一切
開かなかった。感情のまま、己の心の赴くままに文章を書き殴った。最低限の推敲の後、僕は満足
して二日ぶりの睡眠をとった。夢の中に奇妙な絵は出てこなかった。当然だ、終わった仕事の事は
考えない。今後僕があの絵に関して考察することがあっても、それはまったく別の話。
 電話で話した時と同じようにおどおどしている新入社員に軽く挨拶をし、僕は外に出る。今から
は仕事からも解放され、完全に自由な僕の時間だ。僕は新宿駅に向かう。東京の郊外、中央線で都
心から一時間ほどの場所にある一軒のアトリエ。そこで奇妙な絵を描く画家に会う為、僕は電車に
乗り込んだ。
 大学以来、久しぶりに心の底を打ち明けられる友人に出会える気がしてならなかった。



BACK−青空が抱く幻想を見つめて◆CH1dcDbVHA  |  INDEXへ  |