【 海に溶ける鳥と巻貝の塔 】
◆M0e2269Ahs




136 :No.35 海に溶ける鳥と巻貝の塔 1/5 ◇M0e2269Ahs:08/02/11 00:37:17 ID:S44wChK6
八年ぶりだと言うのに、足はしっかりと道を覚えていて、ポケットから案内状を取り出すまでもなかった。
 三原画材店は、あの頃と何も変わらないまま、そこにあった。三角屋根の、出窓がついただけの簡素な店。
画材店というよりは、喫茶店のような外観。あまりにも変わらないその外観に、嫌でも実感させられる。
 俺は、ここに帰って来たのだ。
 CLOSEDの札が下げられたドアを開けると、懐かしいテレビンのにおいと共に、歓声があがった。面食らったが、
俺に向けられたものではなかった。画材が入った棚を隅に押しのけ、代わりに輪を作るように居座っている若者たちが、
一枚の大きな紙を広げているところだった。それぞれが何やら楽しそうに口ずさみ、宝石箱を覗くかのように顔を綻ばせていて、
俺に気づいた様子の者は誰もいなかった。腕時計に視線を落とした。案内状に書かれていた集合時間より、十分早い。
だと言うのに、俺は遅刻者のようだ。声を掛けられないまま立ち尽くしていると、ふいに顔を上げた男と目が合った。
「あれ? 村崎?」
 その声に、その場の全員が俺を見た。まるで、幽霊でも見るかのように目を見開いている者がほとんどだ。
「よ、よう」
 情けない声が出た。不自然な間が空いた。視線に耐え切れず俯きかけた次の瞬間、怒涛のように男連中が駆け寄ってきた。
「よう、じゃねーよ。お前、今までどこ行ってたんだよ」
「外国に行ったって噂だったんだぜ?」
 川西と藤山だ。髪型も顔立ちも少し変わってはいるが、毎日のようにモデルにしていた人間だ。すぐにわかった。二人に
タックルのような抱擁を受けて、足がよろけた。
「村崎。久しぶりだな」
「相変わらず、だっせえのな」
 古屋と桑田。眼鏡が変わったせいか、古屋の印象はだいぶ変わっていた。茶髪の桑田は、相変わらずオシャレだ。
「連絡もしないでさ。お前、今まで何してたんだよ」
「あ、あたしも興味ある」
 桑田の後ろから、セミロングの女が顔を出した。鼻の形からして泉だろう。ということは、泉の腕を組んでいるのは、藤原
なのだろうか。二人とも、化粧のせいで別人に見える。
「だから外国に行ってたんだろ?」
 藤山が、誇らしげな顔をして言った。
「すごい。外国だって則子。どこどこ? フランス? イタリア?」
「スペインだな」
 古屋の低い声が、俺の心臓を跳ね上げた。川西が、そうか、と呟いた。
「みんな忘れたのか? 村崎透と言えば、シュルレアリスム。サルバドールダリだ。となれば、スペイン以外のどこに行く」

137 :No.35 海に溶ける鳥と巻貝の塔 2/5 ◇M0e2269Ahs:08/02/11 00:37:56 ID:S44wChK6
 サルバドールダリ。天才の名前だ。八年前も今も、その認識に変わりはない。ひとつ息をついて、口を開いた。
「スペインにも行ったよ」
 川西らが、唸り声のような歓声を上げた。泉と藤原は、羨望するような目つきで俺を見た。ただ、古屋だけは首を捻った。
「にも、とは? 他にも行ったのか」
 俺は頷く。
「中米だよ。六年ほど前から、グアテマラに入り浸りさ。スペインは、ヨーロッパ旅行のときに回ったくらいかな」
 今度は古屋だけではなく、残りの皆も首を捻った。心中は察する。中米と聞いて、美術的なイメージを持つのは難しいはずだ。
「回っただけか? それより、どうしてグアテマラなんだ。グアテマラで何をしている」
「自由を追いかけてる」
 古屋の目が点になった。やがて、ため息混じりに首を横に振った。
「思い出したよ。お前は、そういう奴だった。ダリかぶれの、ひねくれ者だ」
「ひねくれじゃなくて、本当らしいよ」
 背中から声がかかった。聞き馴染んだその声に、胸が高鳴った。振り向いてみると、やはりそこには優佳がいた。両手の
ビニール袋を顔まで持ち上げて、お待たせ、と言った。

 優佳からビニール袋を受け取り、中の弁当を皆に配り終えたとき、優佳に耳打ちされた。
 急いで幕ノ内を平らげて、店内の奥の倉庫へと向かった。扉を開けた先で、優佳は額縁を手にして待っていた。
「とりあえず、お帰りなさい。来てくれるなんて思ってなかった」
「行くって、手紙返しただろ? だったら行くさ。そして何より、面白そうだと思ったからね」
 優佳は、小さく頷いて、裏返してあった額縁をこちらに向けた。一面の青が目に付いた。思わず、目を背けた。
「どうして、それが」
「学校に置いておけないからって。今日集まってもらったのは、そのためでもあるの」
 俺の絵だった。八年前の卒業制作。見たくなかった。
「いらないから、捨ててくれ」
「どうして? こんなに素敵な絵なのに」
 優佳が呟いたその言葉が、一瞬にして頭を熱くさせた。
「やめてくれ」
 声が震えたところで、一旦言葉を切った。大きく息を吐き出し、優佳に、俺の絵に、背を向けた。
「見たくないんだ。見たくないんだよ」
 零れ落ちそうになる涙を堪えた。それでも震えは止められなかった。優佳は、何故か何も言ってこなかった。

138 :No.35 海に溶ける鳥と巻貝の塔 3/5 ◇M0e2269Ahs:08/02/11 00:38:22 ID:S44wChK6
 ダリに入れ込むようになったのは、中学の美術の教科書に載っていた『記憶の固執』を見た、そのときだった。
何とも中学生らしい、単純な動機だ。憧れだった。ピカソは馬鹿にしたのに、ダリは馬鹿にしなかった。絵はつまらないもの、
そう思っていた自分を引き込むだけの魅力があったからだ。
 シュルレアリスムは、本来、無意識の領域を描くもので、オートマティスムとも呼ばれるように、心にあるがままを描かなければ
ならないものだ。そこに、理性や意識を働かせてはいけない。だから、シュルレアリスムの作品には、ひどく抽象的で、理解し難い
作品が多い。ならば、ダリの作品はどうか。ダリの代名詞とも言えるダブルイメージを見れば、そこに明確な意図があることがわかる。
だがそれでも、ダリはシュルレアリスムに属する。ダリ自身が提言した、偏執狂的批判的方法が、その所以だ。
 偏執狂的批判的方法とは、連想に連想を重ねた、まさに偏執的な妄想を批判的、つまりは客観的に描くことによって無意識の領域を
表現する、制作方法のことである。記憶の固執に例を取れば、液体のように柔らかく表現された時計が、それである。揺らぐはずが
ない時間という概念を壊すかのような表現は、まさに自身の内面から滲み出した無意識の領域を描ききったものだ。それだけではない。
記憶の固執には、全部で四つの時計が描かれているが、その内の左隅に描かれた時計だけは、柔らかく表現されていない。そしてさらに、
その時計だけが裏側に伏せられ、文字盤を見ることができない。もっと言えば、その時計には無数の蟻が群がっている。
 これらが意味するところは何か。そう考えたとき、この絵を見る人間は、否が応でも自分の内面を見つめることになるのだ。それこそ
が、無意識な領域を実現させる超現実、ダリのシュルレアリスムなのだ。
「自分が、嫌いなの?」
 探るような口ぶりで、優佳が言った。嫌いだ、と呟きかけて、思いとどまった。
「この絵は、透くんでしょ? この絵を蔑むということは、自分自身を蔑むのと同じじゃない」
 言いたいことはよくわかる。自分を蔑むことが決して悪いことだとは言えない。身の程を知れば、愚痴りたくもなる。
「嫌いじゃないさ。どんな出来ばえだって、俺の世界には変わりない。そこを否定してしまったら、俺の世界は終わったも同じだから」
 意を決し、優佳に向き直った。優佳は、まるで赤ん坊を守るかのように額縁を抱きしめ、こちらを見つめていた。
「ただ、怖いだけさ。自分の絵を誰よりも知っているのは、他でもない俺だ。俺は、誰よりも先に俺の内面と向き合わなければならない。
怖いと思ってしまったら、もう筆は動かない。動かせないんだよ」
 だから、俺は逃げた。札幌から。シュルレアリスムから。ダリから。そして、自分から。優佳を捨てて。
 優佳は、一度思慮するように俯くと、明るく笑って見せた。
「うん、わかったよ。八年もかかったけど、話してくれてありがとう」
 間違いなく、感謝の言葉を口にするべきなのは、俺の方だった。何の連絡もなしに突然いなくなった男を、気丈にも八年間の間、
待ち続けていてくれたのだから。額縁を棚の間に戻している優佳の横顔を見つめながら、口を開いた。
「どうして、待っていてくれたんだ」
 感謝の言葉よりも先に、疑問がついて出た。額縁を閉まった優佳は、こちらに向き直ると、細腕を伸ばし俺の両肩を押した。
「待ち切れなかったから、呼んだんじゃない。さ、そろそろ皆、食べ終わってる頃でしょ。戻った、戻った」

139 :No.35 海に溶ける鳥と巻貝の塔 4/5 ◇M0e2269Ahs:08/02/11 00:38:46 ID:S44wChK6
 倉庫から戻ってみると、既に弁当を食べ終えていたようで、談笑の渦が巻いていた。手を叩きながら、優佳が輪の中に入っていく。
「じゃあ、始めるよ。皆、よろしくね!」
 歓声が上がった。それと同時に全員が立ち上がり、それぞれの持ち場につき始めた。どうやら、既に段取りが決められているらしい。
「村崎。俺たちは、外だぞ」
 声の方を見やると、ちょうど古屋が外に出て行ったところだった。ドアの前で、川西が手招きをして待っている。早足で向かった。
店を出て、川西らの後に続き、店の右側面部に向かった。三畳ほどのわずかスペースにバケツが置いてあり、桑田は緑色の袋を手に
している。なるほど。マルタ作りは俺たち男性陣の仕事と言うわけだ。
 今日、俺たちが集まったのは、三原画材店の右側面部の外壁に、フレスコ画を描くためだった。通りに面しているこの外壁に、
看板代わりにフレスコ画を描こうと優佳が思い立ち、かつての仲間に声をかけたのだ。
 俺にフレスコ画を描いた経験はないが、是非ともやってみたいと思っていた技法だった。有名なフレスコ画と言えば、ミケランジェロ
の『最後の審判』がそれだ。最後の審判は、高さ十三メートル、幅が十四メートルほどの世界最大の壁画だが、三原画材店の外壁は、
ざっと見て、高さ二メートル、幅は四メートルくらいのものだろうか。初めて挑むには、ちょうどいいサイズだと言える。
 フレスコ画とは、砂と石灰を混ぜて作ったマルタに、水と顔料を混ぜ合わせて描く方法だ。水に濡れた石灰は、空気中の二酸化炭素に
反応して結晶になる。その中に、顔料を定着させることで絵を描くのだ。よって、フレスコ画に、油絵で言うテレビンのような溶解剤は
使わない。純粋な顔料のみで描かれるため、フレスコ画には独特な魅力が出る。
 数あるフレスコの技法の中で安価かつ耐久性に優れるのが、ズグラッフィートと呼ばれる技法だ。それぞれ色が違う二層以上のマルタ
を重ね合わせ、上層のマルタを削ることで、その下の層の色を出す。外壁に、よく使われる技法である。
 砂と石灰を一対一の割合で混ぜ合わせ、そこに二割ほどの顔料を入れ、さらに混ぜ合わせる。そうして、緑、青、赤の三色のマルタが
できあがった。後は、女性陣の下絵の完成を待つ。
「そういえば、どんな絵を描くんだ?」
 手を青く染めている藤山に問いかけた。下絵そのものは、優佳がデッサンを済ませているとは聞いていたが、俺はまだ実物を目にして
いなかった。
「ああ、鳥の絵だったな」
「鳥?」
 まさか、と思った。たった今作り上げた三色のマルタを見て、俺の頭の中にグアテマラのジャングルが浮かんだ。そして、その中の
木にとまる自由の象徴。信じられなかった。
「おまたせー」
 そこに、下絵を持った女性陣が姿を現した。すぐさま駆け寄り、下絵を眺めた。
 卵の殻を頭に被った鳥。卵の中に納まりきらず、外に飛び出している長い尾が二本。その間に、三原画材店と書かれてある。
 間違いなかった。不思議そうに俺を見つめる泉の後ろで、優佳が目を細めていた。

140 :No.35 海に溶ける鳥と巻貝の塔 5/5 ◇M0e2269Ahs:08/02/11 00:39:07 ID:S44wChK6
「どうして、わかった?」
 脚立に上って、マルタを塗り合わせている桑田たちを見ながら、優佳に語りかけた。
「わかるよ。『自由を追いかけている』なんて、意味深な手紙。わたしじゃなくたって、疑うよ」
「そうかな」
「そうだよ」
 手を伸ばした桑田がバランスを崩して、古屋が慌てて脚立に飛びついた。珍しい光景に思わず、笑った。
「ケツァールって言うんだってね。透くんが追いかけている自由の名前」
「うん。自由を捕まえられたら、きっとまた絵が描けるような気がしてね」
 優佳は、首を捻った。俺は笑う。
「というのは、後付けの理由さ。たまたま知った自由の象徴を追いかけていたら、いつのまにか八年も経った」
 横目で睨まれた。たまたまで、八年も待たされたのか、そういう視線だ。
「あの絵に描いてあった鳥も、自由を象徴していた?」
「かもね。『海に溶ける鳥と巻貝の塔』。きっと、そうだったんだろうな。自由なんてものが手に入るわけないのに」
 優佳が、下絵が貼り付けられた外壁に向けて、ゆっくりと手を差し出した。
「ここに、あるよ」
 そう言った傍から、優佳は顔を伏せた。耳が赤い。つい、周囲を見渡した。まさか、こんなところで、そんな台詞を。
「自由の象徴は、ここにある。だから、帰ってきてくれないかな」
 まるで、プロポーズじゃないか。上目遣いで優佳が不安そうに見つめている。たまらず、目をそらした。
「その、言いにくいんだが、自由を追いかけているっていうのは、カメラマン的な意味であってだな」
 優佳が顔を上げた。気おされて、後ずさりした。
「か、カメラマン?」
「そうカメラマン。書かなかったっけ? 向こうでカメラマンの仕事をしているって。だから、なんというか、すでに自由はフィルムに
収めてあるわけで」
 優佳の表情が見る見るうちに曇っていく。だから、皆に気づかれない程度に、少し声を荒げた。
「だけど、カメラってのも中々奥が深くてね。思ったような構図に収めることなんかそうそうできない。その上、チャンスは一瞬だしな。
そう、優佳が好きな印象派のように、一瞬のきらめきをカメラに収めなければならないんだ」
「もういい!」
 優佳が店に向かって歩き出した。突然の叫び声に、皆の視線が優佳に集まり、そして俺に向いた。もう、どうでもいいと思った。
「まだ話は終わってない! だ、だからつまり、自由を与えてくれると言うならば、優佳の自由を俺にくれ!」
 振り向いた優佳が、涙を浮かべ駆け寄って来た。そして抱きつかれた。耳障りな歓声の中、俺は、筆を持つ決心をした。



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