【 幸福な、羊の王より幸福な 】
◆rmqyubQICI




130 :No.33 幸福な、羊の王より幸福な 1/5 ◇rmqyubQICI:08/02/11 00:33:12 ID:S44wChK6
 それはある雨の日のこと。
 少女はひとり、山道を駆けていた。雨水で頬に貼りつく髪は美しい金色。ぼろぼろになっ
た皮の上着を羽織り、青く澄んだ瞳が映すのはまっすぐ前方。そしてその腕の中にあるの
は、撥水性の皮袋に包まれた、少女がどうにか両手で抱えられる大きさの板。
 彼女は駆けた。その板を大事そうに抱きしめて、獣の鳴き声すらしない山の中を、ひた
すらに。走るうちに細道は途切れ、土にも増して足場の悪い草の道を行く。一歩踏み出す
たび滑りそうになるのを堪えて、前へ前へと進む。
 目指す場所は遠く、この山を越えたさらに先の街。家族の待つところ。行くべき道を示
すものはなく、雨に濡れた体は芯まで冷え切り、足は悲鳴をあげている。それでも、少女
は走った。腕の中にあるそれをより強く抱きしめる。瞳の中の青い炎は、この雨の中でも、
いまだとうとうと燃え続けていた。
 しかし、彼女は冷静だった。この悪天候にこの疲労、このままでは行き倒れるだけだと、
彼女自身がよく理解していた。小屋か、あるいは雨風をしのげる洞窟でもあれば。そう思っ
て辺りを見回すが、視界が悪いこともあり、それらしいものは見つからない。
 休憩する場所を探しながら走るうち、突然、少女の足が止まった。目の前に川が現われ
たのだ。この雨で水かさは増し、その勢いは大木をも流すほど。少女の目的が何であれ、
ここで引き返すべきところだった。
 しばらく立ち止まって、少女は考えた。川幅は飛び越せるほど狭くないとはいえ、それ
ほど広いわけでもない。荷物や上着を先に向こう岸へ渡しておけば、多少流されるにして
も、どうにか渡ることができるのではないか。
 少女は板を傍らにふせ、その場にひざまずいた。十字を切り、かたくまぶたを閉じて、
胸の前で両手を組む。聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、と賛辞を唱えたあと、彼女
は祈りの姿勢のまま、神に願った。
「我らが主、偉大なる父、天上におられる神よ。私の行いがあなたの御心に適い、その栄
光をますます高めるものならば、どうかこの身をお救い下さい。
 私の祈りが風に乗り、雲を抜け、主の御もとへ届いたならば、どうかこの願いをお聞き
届けください」
 言い終えた少女は立ち上がり、まずぼろぼろの上着を脱いだ。そして板を拾い上げ、上
着とともに向こう岸へ投げようとした、そのとき。
「待ちなさい」

131 :No.33 幸福な、羊の王より幸福な 2/5 ◇rmqyubQICI:08/02/11 00:33:38 ID:S44wChK6
 少女の聞き知らない、若々しい男の声。雨音にも関わらずりんと響いたその声に、彼女
は思わず振り返った。
「神父様……?」
 思わず、少女は呟いた。そこにいたのは、カトリックの法衣に身を包んだ、いかにも聖
職者然とした男だったからだ。
「そのようなことをしてはいけませんよ。主を試してはならないと教わったでしょう?」
「ごめんなさい、けれど私には……」
「まぁ落ち着きなさい」
 少女の弁解を手で制し、神父らしき男は温厚そうな笑みを浮かべた。
「詳しいことは小屋で聞きましょう」
 悪意の欠片も感じられない、澄んだ声音。少女は知らず安心して、こくりと頷いた。


 男の小屋。
 少女は椅子に腰掛けて、ぼんやりと、暖炉で燃える火を見つめていた。例の板はいまだ
皮袋の中で、少女の座る椅子に立てかけられている。
「どうぞ」
 後ろから神父の声。少女は振り返って、彼の差し出すカップを受け取った。
「野菜のスープです。温まりますよ」
「ありがとうございます」
「いえいえ。主に仕える者同士、助け合うのは当然のことです」
 そう言って微笑む神父に、少女も微笑んで返す。
 短い沈黙のあと、さて、と男が切り出した。
「説明していただけますか。あなたがなぜ、あのような無謀なことをしていたのか」
 神父の言に、少女はうつむいてすこし考えたあと、足下の袋の口を開け、その中身を取
り出した。
「ほう」
 神父は思わず嘆息した。出てきたものは、見事な絵画だったからだ。
「大天使ウリエル……いや、今となっては『墮天使』ウリエル、ですね」
 神父の言に、少女は力なく頷いた。彼女のもつ絵画に描かれているのは、一対の白翼、

132 :No.33 幸福な、羊の王より幸福な 3/5 ◇rmqyubQICI:08/02/11 00:34:01 ID:S44wChK6
神々しい金に輝く髪、右手には燃え盛る炎の剣、そして左手に書物を抱えた、神の使い。
紛れもない、光輝の大天使ウリエルの姿。本来なら畏れ敬われるべき聖物なのだが、しか
し、今は事情が違っていた。
「なるほど、だいたい分かりました。今、世間では大規模な『天使狩り』が行われている
と聞いています」
「ええ。教皇ザカリアスの命で。私の住んでいた街にも、今朝、ついに教皇庁の人間がやっ
てきました」
「それでその絵画も破壊されるはずだったところを、あなたが持ち出してきた、と。
 しかし何故? あなたがここまでする理由を聞かせてほしい」
「だって、おかしいではないですか。天使とは主の御使い、神の恩寵を受けた偉大な存在
です。それを、いくら教皇とはいえ、自分の権力を保つために弾圧するなんて――」
「ちょっと待ってください。どうしてあなたはそのようなことを知っているのです?」
「それは……あぁ、もう神父様にはすべてお話しします。
 私の名前はティアナ。ティツィアーノ枢機卿の養女として育てられました。だから教皇
庁内部のこともある程度は知っています。素晴らしい方もおられますが、たいていの方は
隣人の身より自己を案じ、どのようにして農村から搾取するかを考えるばかり。
 教皇ザカリアスその人も、聖職者であるにも関わらず実子をもうけ、有力家系と連なっ
て現在の地位まで上り詰めたような方です。彼らの言うことほど信用できないものもそう
ありません」
「ティツィアーノ枢機卿の……。なるほど、綺麗なラテン語を話す女性だとは思いました
が、まさかあの方の娘とは。
 しかし、そのような立場にあるなら、馬車のひとつも借りられたのでは?」
 神父の問いかけに、少女はふるふると首を振って返す。
「駄目でした。仕方のないことですが、みな、教皇庁が恐いのです」
「ふむ」
 神父は口許に手をやり、目を軽くふせた。しばらくそうしたあと、再び口を開く。
「では、私の馬を貸しましょう。乗馬の経験は?」
「えっ? はい、一応ありますが、よろしいのですか。ここで私を助けてしまったら、神
父様は……」
「ばれなければよいのです。まぁ、ばれてしまったら異端審問ものですが、この際気にし

133 :No.33 幸福な、羊の王より幸福な 4/5 ◇rmqyubQICI:08/02/11 00:34:25 ID:S44wChK6
ないこととしましょう。さぁ、早く準備を――」
 ――そのとき。小屋の木戸が、どん、と強く叩かれた。教皇庁の追手に違いない。そう
思い、少女は身を強張らせる。
「神父様、逃げましょう。このままではあなたまで捕らえられてしまいます」
 椅子から立ち上がり、必死で訴える少女。続いてもう一度、どん、と木戸を叩く音。
 しかし、神父は立ち上がらなかった。それどころか、焦っている気配すらない。彼の意
図を量りかねている少女に、神父は、さきほどと変わらない落ち着いた声で問いかけた。
「ティアナ、あなたはどうして教皇庁に逆らうのです?」
 少女は一瞬面食らったが、木戸を叩く音で我に返り、語気を強めて返答した。
「それが正しい行いだと思うからです。さぁ、神父様、早く!」
「それが正しいと、なぜそのように思うのです?」
「神父様、今はそのようなことを話している場合では……」
「いいから、答えるのです」
 突然重みを増した神父の声に、少女の体がびくりと震える。彼女の前方からは、いまだ
どん、どん、と木戸を叩く音が響いている。ティアナは大きく息を吸い込むと、胸に片手
を添え、神父の問いにはっきりと答えた。
「私の体は主に与えられたもの。血も、骨も、感性もまたしかり。私の正しさは主に給わっ
たものなのだから、疑う理由などありません。私は主を信じています」
 彼女が言い終えた途端、小屋に一段と大きな音が響いた。少女は反射的に木戸を見遣る。
まず視界に入ったのは、斧をもった大柄な男。そしてその後ろにも、槍や盾で武装した男
たちの姿が。
 ここに至って、神父はようやく立ち上がった。そして後方に振り向き、落ち着いた様子
で呼びかける。その声は、さきほどに較べて、幾分か鋭さを増していた。
「これはこれは。どのような御用か」
「その娘と、そこの絵をよこせ」
 先頭にいた斧の男が答える。有無を言わさぬ脅迫の響き。しかし、神父の返す声はさら
に重みを増していた。
「それはならない。この少女は敬虔なる主の信徒だ。この絵画は、熱心なキリスト者が主
に捧げたものだ。お前たちのような輩が触れてよいものではない」
「おい、俺らが誰か分かってないのか?」

134 :No.33 幸福な、羊の王より幸福な 5/5 ◇rmqyubQICI:08/02/11 00:34:48 ID:S44wChK6
「どこぞの枢機卿が手柄欲しさに遣わしたのだろう。主を敬わず教皇にすり寄るとは、な
んとも愚かなこと」
 そのとき少女は、神父の背中に一対の光がわだかまっているのを見た。肩甲骨の辺りに
ぼんやりと浮かぶそれは、神父が言を終えるのと同時に一際強く輝き、そして次の瞬間、
一対の白い翼が現れた。見紛うはずもない、絵画に見た天使の両翼だ。
「大天使、ウリエル……」
 ぽつりと少女が呟く。武器をもった男たちは、低くうめきながら後退した。
「退け。如何に信仰の薄いお前たちといえど、私が武器をとれば敵うはずもないことくら
い分かるだろう」
 そう言いつつ、ウリエルは右手を前に突き出した。握られた拳から炎が噴き出す。そし
て少女の視界は、目映い白に包まれた。


 夕暮れ時。雨はすっかり上がって、辺りの木々は燃えるような橙色に染まっていた。
「本当に馬をお借りしていいのですか?」
 毛並みのよい馬の頭をなでながら、ティアナが尋ねる。
「構わないよ。どうせ用を終えれば自分で私のところに帰ってくるのだから」
 ウリエルはそう答え、夕焼けの空を仰いだ。同じように、ティアナも遥か上空を見遣る。
そろそろ暗くなり始める頃だ。
「では、大天使ウリエル。私はもう行きます。
 どうか私たちが、この世の終わるそのときまで、主の従順なる信徒であれますように」
「ああ、幸福なティアナ。気をつけて。
 どうか主の敬虔なる信徒に、神の恩寵があらんことを」


  了



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