【 トロンプ・ルイユと空破り 】
◆VXDElOORQI




125 :No.32 トロンプ・ルイユと空破り 1/5 ◇VXDElOORQI:08/02/11 00:30:39 ID:S44wChK6
 ふと気付くと私は美術館にいた。
 広い通路の両端に様々な絵が展示されている。その一角に置いてあった長椅子で、どうやら居眠り
をしてしまったらしい。
 ふぁ――。
 寝起きのためか、思わず欠伸が漏れそうになる口を手で多い押さえる。美術館では静かにしないと
いけないのだ。
 口を押さえ、周りをキョロキョロと伺う。他の観覧者の人たちは私のことなど気にせず、みな立ち
止まり、じっと絵を見つめている。
 よかった。
 私はホッと胸を撫で下ろす。どうやら他の人の迷惑にはなっていないようだ。
 私は椅子から立ち上がり、絵の観覧を再開することにした。
 正直、あまり美術館に来たことがない私には、どれが価値のある絵なのか。どれが有名な作者の絵
なのか。そういうことはまったくわからない。
 でも絵を見ながらゆっくりと歩き、気に入った絵の前で足を止め、それをじっと眺める。
 それだけで、楽しかった。

 何作目かのお気に入りをひとしきり眺めたあと、ふと周りに目を向けると不思議なものを見つけた。
 ほんの少し先の絵の額縁を誰かが外そうとしているのだ。どうやら壁にかけてあるその絵を、取り
外そうとしているようだ。
 学芸員だろうか。私は少し早足でその絵のところへ向かった。まだその絵を見ていないので、チラ
ッとでも見たいと思ったからだ。
 私がその絵のところへ着いてもまだ、学芸員は額縁に手を添えたまま動いていなかった。
 よかった。
 私は学芸員の後ろからそっとその絵を覗き込む。
 あれ、絵が見えない。いや、違う。私は気付いた。これは額縁に手を添えている学芸員ごと『絵』
なのだ。壁には『額縁を外そうとしている学芸員』の絵が書いてあったのだ。
 思わず、私はクスリと笑ってしまった。そうか。これはいわゆる騙し絵というやつだ。
 もう一度、その絵を見る。壁に描かれている学芸員。足首から下だけが床に描かれている。これで
床に立っているように見えるのだろう。
 アハハ。

126 :No.32 トロンプ・ルイユと空破り 2/5 ◇VXDElOORQI:08/02/11 00:30:59 ID:S44wChK6
 なぜかまた笑ってしまった。なんで引っかかったのだろう。少し考えればわかりそうなものなのに。
それがなぜかとてもおかしくて、また口から笑い声が漏らそうになる。私は口を押さえてそれを必死
に堪える。それでもおかしいのは止まらなくて、その場にしゃがみこんで一人で肩を震わせた。

 しばらくして、やっと笑いがおさまった。そしてそれと同時に一気に羞恥心が私を襲ってきた。
 少しとはいえ、声を出して笑い。そのあと絵の前でしゃがみこみ、なおも笑い続けていたのだ。
 きっと他の観覧者の人たちは、私のことを変な人だと思っているに違いない。
 私は慌てて立ち上がり、他の人の様子をうかがう。
 誰一人、私を見ている人はいなかった。皆絵をじっと見ている。私のことを変な人だと思って、見
ないようにしているのだろうか。
 私は早足でその場を立ち去り、すこし先に設置されていた長椅子に腰を下ろす。
 少しここで気分を落ち着かせよう。
 椅子に座った私の正面では、茶色いコートを着た男性が、熱心に絵を見つめていた。
 熱心に見ているこの人には悪いけど、早く行ってくれないかな。そんなことを考えながら、私は男
性の肩越しに、彼が熱心に見ている絵を眺めていた。
 その絵には水色を薄く薄く伸ばしたような淡い色をした空と、濃い緑をたたえる森。空と森を背景
に、風でなびく草原が描かれている。
 男性が絵の正面に立っているので、絵の全貌は見えない。それでもその絵には私を惹きつけるなに
かがあった。
 私はその絵の全貌が見たくなったが、男性はなおもじっと絵を見続け、一向に動くけはいがない。
 五分。十分。いくら待っても動かない。
 ひょっとして。私は椅子から立ち上がり、絵に、男性に近づく。
 やっぱり。
 その絵もさっきの学芸員の絵と同じだった。この男性も含めて一枚の絵なのだ。
 今度はおかしさよりも不可解さが私を支配した。
 今日は騙し絵展をしているわけではないのだ。実際、他の絵は騙し絵ではなかった。
 他の観覧者は不思議に思っていないのだろうか。
 初老の男性、カップル、家族連れ。色々な人がいるが、大人はもちろん子供さえ一言も喋ることな
く絵を見ている。
 思えば、今までここで人の喋り声を聞いた覚えが全くない。誰一人、一言も喋ることなく絵を見続

127 :No.32 トロンプ・ルイユと空破り 3/5 ◇VXDElOORQI:08/02/11 00:31:47 ID:S44wChK6
けている。
 さすがにそれはおかしい。ということ今更になって気付く。
 私は別の絵を見ている一人の女性に近づいてみる。そして、その女性もやはり壁に描かれていた。
 他の人にも、私は慌てて駆け寄る。
 手を繋いでいるカップル。通路を歩いている男性。退屈そうな子供。その全て壁に描かれている絵
だった。
 ひょっとして、この美術館にいる人間は私だけなのだろうか。最初からずっと私だけだったのだろ
うか。
 私は恐怖に駆られ、走り出す。一刻も早くここから、この美術館から出たかった。
 来た通路を戻っているのか、それとも順路通りに進んでいるのかもわからない。ただ出口を探して
私は走る。
 美術館内を走る私を誰も注意することはない。誰も気にも止めずに、絵を見ている。いや、『誰』
すらここには存在していない。皆、絵なのだ。
 どのくらい走っただろうか。私は出口を見つけた。ガラス張りの扉の向こうには外の景色が見える。もう少しでこの悪夢のような場所から出ることが出来る。
 そう思った私はさらに足を速め、一直線に出口に向かう。
 私は走りながら手を伸ばす。このまま扉を開ければ外はすぐそこだ。だが手に伝わった感触は、扉
を押し開く感触ではなく、鈍い痛みだった。
 思わず立ち止まり手を押さえる。私が押した扉は、開かないようにロックされていた扉だったのだ
ろうか。そう思ったが、すぐにそれが間違いだと気付いた。人間だけではなかった。この出口もまた
壁に描かれている絵だったのだ。
 いくら扉を触っても、感触は壁のそれだった。押しても開かない。引くことも出来ない。壁は引け
ない。
 私はドンと壁を叩き、もう一度走り出す。
 どこか他の、他の出口がどこかにあるはずだ。
 人の姿はあるのに、人がいない美術館を私は再び走り始める。

 しばらく走ると階段を見つけた。今度は階段の入口で立ち止まり、そっと手を伸ばす。
 私の手は空を掻く。どうやらこの階段は絵ではないようだ。
 私は走って階段を駆け上がる。階段の先はなにも見えずただ暗闇が広がっている。それでも私は階
段を駆け上がる。

128 :No.32 トロンプ・ルイユと空破り 4/5 ◇VXDElOORQI:08/02/11 00:32:13 ID:S44wChK6
 
 どのくらい上り続けただろうか。私はもう走るのやめていた。
 もう足が悲鳴をあげている。それでも私はゆっくりと階段を上がっていた。数十段ごとに曲がり角
がある階段を上り続ける。
 上がっても上がっても終わりが見えない。この階段は終わりがないのだろうか。もうずっと顔を俯
かせ、足元だけを見つめて上り続けている。
 どのくらい上ったのだろうか。私は顔をあげ振り向いた。するとさきほど曲がった角が見えた。階
段に沿って顔を横に動かすと、顔が真横を向いたところでまた曲がり角が見えた。そしてまた階段に
沿って顔を動かす。今度は顔が正面を向く。正面には曲がり角が見える。
 正方形の形で繋がった無限に続く階段を上り続けていたことに、私はやっと気付いた。
 体の力が抜け、思わず私は壁に寄りかかる。だが、寄りかかる壁がなかった。私の体はゆっくりと
落ちていく。
 そうか、壁があったら階段の先は見えない。だから壁がないのは当たり前なのだ。壁がないなら、
私はもう落ちるしかない。
 そんなことを落ちながら考える。だが、ただ落ちるわけにはいかない。永遠に落ち続けるわけじゃ
ない。落ち終わり、なにか叩きつけられたら死んでしまう。それは少し困る。
 私は手を伸ばす。なにかを掴まないと死んでしまう。
 なにも見えない暗闇の中、私は闇雲に手を伸ばす。そして、なにかを掴んだ。
 掴んだものは空だった。
 空を掴み、私は空の只中で落ちるのをやめた。
 安堵したのも束の間、すぐに空が破れ始めた。
 大きな音を立てて空が破れ、私は空を掴んだまま落ちた。

 私が落ちた場所は草原だった。風でなびいた草が私の頬をくすぐる。
 空は水色を薄く薄く伸ばしたような淡い色で、遠くには濃い緑をたたえる森が見える。
「あーあー。空破いちゃって」
 久しぶりに聞いた人の声だった。
 少女だった。麦わら帽子をかぶり、手にはパレットを持っていた。パレットには青と白の絵具しか
ない。
「すいません」

129 :No.32 トロンプ・ルイユと空破り 5/5 ◇VXDElOORQI:08/02/11 00:32:35 ID:S44wChK6
 私は頭を下げ、謝る。私が困らせたなら謝らないといけない。
「まあ、もうすぐ今日の仕事は終わりだからいいけどさ」
「仕事?」
 少女は空を指差して言った。
「そう。空を書くのが私の仕事。今日はもう終わりだけどね」
「まだこんなに明るいのに、もう終わりなんですか?」
「暗くなるのはこれからだからね。ほら、来たよ」
 今度は草原の先を指差す。
 真っ黒の作業着を着た少女が腰まで伸びた黒髪をなびかせ、自分の背丈と同じくらい大きな筆を担
いでやってきた。
「交代」
「あいよー」
 昼の少女と夜の少女はハイタッチを交わし、すれ違う。
 そしてすぐに昼の少女は草原に横になり、麦わら帽子を顔にかぶせる。
「なにしてるんですか?」
 私は昼の少女に聞く。
「なに言ってるの。夜は寝るものでしょ」
 確かに、夜は寝るものだ。でもまだ空は明るいのに。そう思って空を見上げると、私たちの上には
もう夜の帳が下りていた。
 夜の少女は、ずいぶん離れたところで、空を黒く塗っている。
 仕事早いな。でも、そうか。もう夜なのか。なら私も寝ないといけない。なぜなら夜は寝るものだ
から。それに今日はたくさん走って疲れている。早く寝よう。
「おやすみ」
 そして私は眠りに落ちた。

 目を覚まし、私は大きく伸びをしてあたりを見回す。
 ここはどこだろう。絵がたくさん飾ってある。ということは美術館だろうか。





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