【 モノクローム 】
◆9n93902Z1A




115 :No.29 モノクローム 1/4 ◇9n93902Z1A:08/02/11 00:24:38 ID:S44wChK6
 重いまぶたを開けて、まず視界に入ったのは灰色の天井と蛍光灯だった。体を起こして辺りを見回し、ここが病院であること
と、自分の体の異常に気づくのに数十分の時間を要した。
 そうして私は交通事故に遭ったことを思い出す。ほんとうに生きているのか、あれからどれくらいの時間が経ったのだろうか
などとぼんやり考えていると、個室のドアが開いて、入ってきたのは中年の男女ふたりだった。ベッドで体を起こしている私
を見て驚愕の表情を浮かべた直後、がばりと抱きついてきた。自分の両親だと気づいたのはそのときだった。
 どうやら半年間も寝ていたらしい。ほか云々。涙を流しながら語る親に対して、私の現在混濁した思考ではそれらの言葉を耳
に入れていくことでせいいっぱいだった。
 私にとって今、目の前で泣き喚く両親は、不明瞭な世界への確認行為を妨げる存在でしかなかった。
 邪魔者が増えるように看護士と医師がやってくる。諦めて、白衣の老人に質問されることをただ淡々と答えた。
 数時間の質疑応答を終えたあと、出て行った両親や医師と入れ替わるようにして若い男性がやってきた。
 彼が同じ美大に通う後輩の沖田くんだと認識するのにも、私は数十秒の時間を要した。
 幾度か社交辞令のように言葉を交わした。外を見る。暗い。暗いが今はほんとうに夜なのだろうか。彼にたずねる。夜の八時
くらいですねと答えた。どうやら明度はおかしくなっていないらしい。
 ふいに沖田くんが大きなカバンから額縁に入れられた一枚絵を取り出した。彼はそれを事故に遭った日に持ち歩いていた私の
作品だという。もういちど思い出す。確かにあの日完成させた絵があった。自分でも唸る会心の出来で、すぐに大学の講師や
当時交際相手だった沖田くんに見せてやろうと家を出たのだった。
 見せて欲しいわ。そう求めてその絵を受け取る。そして見た瞬間、愕然とした。白と黒がまばらに入り混じった灰色の風景だ
った。醜いと思ってしまった。
 おかしい。何が? 私の目だ。だってあの日、私は多種の絵の具を使って色彩したのだから。
 許容したくは無かったが、やはり認識してしまった。自分の視界から色が失われていたことを。
 どれもこれも。誰も彼も。白、黒、灰。モノクローム。
 
 /
 
 それから数日が過ぎた。医者は私の目の状態を把握していないようだった。周囲にこれ以上の心配をかけるわけにもいかず、
私も伝えぬまま様子見をすることにしていた。
 モノクロを認識した視界は病院生活において存外不便ではなかったけれど、他人と触れ合うときには強烈な違和感を覚えた。
 細かいものが見えなくなると細かいことも感じ取れなくなるのだろうか。わからないが、私の生還を涙する両親や、毎日見舞
いに来てみやげ話をしていく沖田くんからの、そこに介在するであろう愛や好意を私は感受できなくなってしまっていた。

116 :No.29 モノクローム 2/4 ◇9n93902Z1A:08/02/11 00:25:06 ID:S44wChK6
 ただ私に話しかける人たちに、両親、恋人、医者というそれぞれの意味を持った記号が見えるだけで、それ以上の情報はスト
ップしてしまうのだ。色が単調化したことによって思考意識も単純化したのだと、そういうことなのだろうか。
 しかし逆に、自分の内からあふれ出てくる感情はしっかりと存在していた。
 皮肉だと思う。だって私は両親を愛しているし、沖田くんもちゃんと好きなのだ。その想いは消えていない。
 だからこそ彼らからの愛情がわからなくなって生まれた莫大な孤独感が私の心を締め付けていた。
 認めてさえ信じたくは無かった。だから試験的に父親に不謹慎な言葉を吐き出してみた。
 次の瞬間、叫び声が耳に響いた。しかし父が怒っているという情報は伝わってこなかった。
 他者の感情が見えない世界は、空虚だった。虚ろなまま父に謝罪した。
 
 /
 
 緑が好きだった。それを描くのも好きだったけれど、今はもう描けない。後遺症で手の繊細な動きが不可能となっていたから
だ。せめて目に入れるくらいは。そう思いこの病院に隣接した森林公園を車椅子で駆け回った。
 息が切れ、筋肉が悲鳴をあげてなお叱咤し、車輪を動かした。
 しかし、どこに行っても緑は無かった。木という記号が見えるばかり。白黒のそれからは何も感受できないのだ。
 けれども諦めきれず次の日、医師に遠出を認めてもらうよう頼んだ。
 会話している間、怪訝な目でこちらを伺う医師と看護士の悪意も感じ取れなかった。昏睡状態から立ち直ったばかりの患者に
ここまで強引に言い寄ってこられては、ぜったいに迷惑に思うはずなのに。
 そうしてどうにか許可を得て、南の海岸まで足を運んだ。目的は日没を見ることだった。
 水平線に沈む太陽を視界に焼き付ける。しかし、見えたのはただの太陽という記号だった。やはり私には何の感動も得ること
はできなかった。肩を落とし、両親の不審な視線を避けるように顔を隠す。
 そして、静かに病院に戻った。道中、内心で悲鳴をあげた。
 
 /
 
 空虚で単調な日々を過ごす中、沖田くんが一枚絵を持ってきた。今日完成した自分のものだといった。
 そういえば彼がモノクロ画を趣味として嗜んでいたことを思い出す。興味が沸いて、その絵を求めた。
「素晴らしいじゃない」
 灰色の風景が目に映った瞬間、呆気に取られてその言葉だけを口にしていた。
 意識的に白色と黒色だけを使って彩った絵は、世界がモノクロに映る私と同化している気がしたのだ。

117 :No.29 モノクローム 3/4 ◇9n93902Z1A:08/02/11 00:25:47 ID:S44wChK6
 実際に見て何も感じ取れなかった森林の風景だった。そのデータが私の頭の中につぎつぎと伝達して、まさに自分はその場所
に立っているのではないかという所感を抱かせた。理由などわからないが、ただ嬉しかった。
 沖田くんはそんな私のようすに慌てていたようだった。
「以前は酷評ばかりだったのに……一体どうしたんですか先輩」
 確かに彼のモノクロ画は一般的に見れば上手だとは言い難いものだった。何度も忠告した覚えがある。
 しかし確かに今その絵は、私のぽっかりと隙間のできた心を満たしてくれていた。
 何度もお礼を言って、彼に私の視覚異常を打ち明けることにした。彼に助けてほしかった。
 信じられないというふうに、彼は天を仰いだ。
 
 /
 
 沖田くんはそれから次々にモノクロ画を完成させては私に見せてくれた。
 私が以前彼にお気に入りだと伝えた場所の風景ばかりだった。
 構内の美術室や展示室。よくふたりで足を運んだ砂浜、美術館の外観。白亜の展望台──。
 何より、どのような経緯で許しをもらったのかわからない絵に思わず私は笑ってしまった。
 両親が私の部屋を丹念に掃除する風景画だったのだ。
 無事に退院できますように。心地よく出迎えてやれますように。そんな類の莫大な情報量がそこには介在していた。
 そしてようやく私は親の愛を感受し得た。笑いと涙が止まらなかった。
 沖田くんは親指を立てて私に向ける。どうだ、すごいでしょうと言わんばかりの自信満々の笑顔だった。
 ──しかし、それでさえ、悲しみはまだ癒えないことに私は気づく。
「もう絵を描けないことが、辛いんですか」
 彼は察したようにたずねた。いや、そうじゃないのと答えて私は真意を告げる。
 初めて自分の絵をモノクロの視界で見たときのように、今まで描いて積み上げてきた色彩画が、雑多な醜い風景に見えてしま
うことが辛いのだと。
 
 
 ◆
 

118 :No.29 モノクローム 4/4 ◇9n93902Z1A:08/02/11 00:26:04 ID:S44wChK6
 
 数週間経ち、沖田くんは久しぶりに顔を見せたかと思うと、今度はいちどに大量の絵を持ってきた。
 すぐさま目に入れて、唖然とした。私の作品すべてを強引に上から白黒で塗りたくってモノクロにしていたのだ。
 またしても自信満々で親指を立てる彼の顔面にその絵をぶつけて、馬鹿じゃないのと私は怒鳴った。
 笑ってしまうほどにめちゃくちゃだった。情報が混在し過ぎて頭が痛くなるほどだった。
 ほんとうにばかじゃないのと今度はちいさくつぶやいて、忘れていたことを思い出す。
 彼が何を想って行動しているのかということだ。
 ──だから私は勝手に絵に手をつけられた代償として、彼に自画像を描く罰を背負わせてやったのだ。



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