【 大空に最も近い男 】
◆dx10HbTEQg




106 :No.27 大空に最も近い男 1/5 ◇dx10HbTEQg:08/02/11 00:14:47 ID:S44wChK6
 故郷へ早く帰りたい。強引に江戸に連れ出された大空武左衛門は、並みはずれた巨体を精一杯縮め
ながら人々の視線に耐えていた。
 肥後国熊本を離れすでに一月が過ぎているが、未だこの地には慣れない。道を歩いているというだけ
で集まる好奇の視線、視線、視線。不躾なそれは内向的な彼には耐えきれぬものだった。
 疲れきった態の彼に付き添いの青年が苦笑する。林述斎の門人であり、名を源助という。有名人と並
びどこか得意げな様子を見せる彼に、武左衛門は辟易し始めていた。
「武左衛門殿」
 そう呼ばれるたびに彼は憂鬱になる。大空武左衛門という壮大すぎる名は、四股名だ。
 七尺五寸の身丈を買われ力士となるべく藩主に召された彼であったが、生来の気の弱さが災いし一
度も相撲を取った事はない。一人で外出する事さえ厭うのに、どうして人と戦えようか。生まれてから
二十五年、潜むようにして生きてきたのだ。今更変わる事など出来はしない。
「述斎先生も仰っていたが、その体を恥ずかしがる事はないのです。自分に誇りを持ちなさい」
「……は、はい」
 その述斎の所為で落ち込んでいるのだが。本音を表す言葉は舌の根に絡み付いて声にならない。
 武左衛門は江戸に来てから幾度も貴紳に呼び寄せられていた。彼等の目的は例外なく武左衛門の並
外れた巨体にある。
 その好奇心は、どうやら彼を一人の人間として認識する事を妨げているらしい。無遠慮に触れられ、
細かな採寸をされ、描写され――。蘭鏡を取り出されたときには逃げ出そうと思ったものだった。写真
鏡とも訳されるそれは、対象物を忠実に描く事を目的とするものである。
 今日は幕府の儒官である名高い林述斎の屋敷だというから、いくらかはましな対応がなされると思っ
ていたのだ。だが期待は虚しくも外れ、常と同じく屈辱的な扱いを受けたのだった。
 ――背比べをしようか、武左衛門。ああ、全く敵わないなあ。しかし……。
 にやりと笑った、述斎の顔が脳裏から離れない。
 ――肝の大きさは我が物の方が大きいだろうよ。
 己の気の弱さは、己が誰よりもよく知っている。だが何も爆笑する事はないではないか。つい先刻の
状況を思い起こすと、情けなくも涙がにじむのが分かった。
 また後日訪問しなければならない事を思うと気が重くなる。近年名を上げ始めた絵師の手による、己
の肖像画と並び比べられるらしい。

107 :No.27 大空に最も近い男 2/5 ◇dx10HbTEQg:08/02/11 00:15:51 ID:S44wChK6
 往来で涙をして更にからかわれる種を作りたくはなかった彼は、梅雨明けの空を仰ぐ事でごまかそうと
した。日本一の背丈を持つ彼が上を向けば視界には誰も入らない。見えるのは、太陽の下で矮小な鳥
が気楽に囀るだけの世界だ。
「おお、牛股だ! 牛股武左衛門だ!」
「でっけえ! 絵で見た通りだな!」
 ふと意識を地上に戻すと、足元に元気な江戸の少年らがまとわりついていた。
 びくりと、傍目にも分かり易いほどに武左衛門は震える。無邪気な彼等は貴紳たちよりもある意味は性
質が悪い。踏み潰してしまえそうなほど小さな彼らは、心根が直線的すぎ、武左衛門の心を脅かすのだ。
「なあなあ、牛を跨いだって本当か?」
 そんな事はしていないと、喉の奥で訴える。
 “大空武左衛門は道をふさぐ牛を跨いで乗り越えた”
 彼のあまりの大きさに生まれたそんな妄説は、いつのまにか事実と認識されるようになっていた。そ
れを由来として牛股の名と刀脇差まで給わってしまった彼に、否定する機会は最早どこにもない。
 困り果てて目を逸らす彼の視界に、一枚の張紙が入った。
 ふくよかな裸婦に覆いかぶさる男の絵――春画だ。おそらく誰かが悪ふざけで張ったのだろう。平素
ならば顔を少しばかり赤くして目を逸らす武左衛門であったが、今日は様子が違った。
「おお、これはこれは」
 絶句する武左衛門の横で、源助が下品に笑う。
 張紙に記された、牛股の文字。武左衛門を指し示す言葉である。
 武左衛門は固まった。無反応になった彼に退屈して子供たちが去っていったが、その事にも気づかな
い。いざ参らんと女へと突き出されている男の陰茎は、足と見紛うほどのものとして描かれていた。
「流石武左衛門殿。体も大きければ魔羅もでかいか! ははははは」
 まただ、と彼は顔を歪ませた。武左衛門自身を置いてきぼりにして、幻想だけが人々に広がっていく。
 絵は真実ではないのだといくら主張しても無駄なのだろう。また、そのような意気地もない。
 武左衛門の関知しないところで描かれた絵は数多く存在する。瓦版に取り上げられた事を始めとし、
出版された錦絵は数十種類にも及んでいた。そのためであろうか、彼の意志など無関係に姿だけが一
人歩きし、それらの絵を通して人々は妙な幻想を抱いているらしいのだ。
 曰く、巨人は巨人に相応しい気性を持っており、またそれ以外にも何らかの未知の特質がある、と。
 少し話せば、そのような事など何一つないとすぐに分かる。しかし、武左衛門の巨体しか知らない者は
そうは思わない。勝手に期待をされても、彼は困惑する事しか出来ないのだ。

108 :No.27 大空に最も近い男 3/5 ◇dx10HbTEQg:08/02/11 00:16:48 ID:S44wChK6
 会った事もない人間に知られているという違和感。そしてそれを上回る不快感。
 どうすべきかと悩む武左衛門の頭に、鳥の糞が落ちた。


 七月の暑さに人々が喘ぎ始めた頃、武左衛門の世話になっている家に源助がやってきた。例の絵
が完成したのだという。
 随分早いと呟く彼に、源助が笑った。武左衛門を題材とした猥褻画は日増しに増えていて、彼の肖
像画の一切を禁じる取締りがなされる日も近いだろうと噂されている。だから、急いだのだと。
 滅入る気を引き摺りながら訪れた屋敷には、既に何人もの客人が武左衛門を待ち構えていた。
「待っていたぞ牛股武左衛門。遅かったな。怖気づいて逃げ出したのかと思ったぞ」
 呵々と笑う彼らに、反論は出来ない。実際に何度も逃げ出そうとしていたのだ。述斎の屋敷からど
ころか、江戸の地そのものから。
「では、披露してくれ」
 門人の一人が掛け軸を取り出した。妙に長く、そして太い。訝しんで思わず見下ろした絵師の含み
のある笑みが気になったが、武左衛門は再び軸に意識を集中させた。絵にされて嬉しいとは思わない
が、気にはなるのだ。しかし掛ける位置が高すぎはしないだろうか。どうやら武左衛門の背丈よりも長いらしい。
 しゅるしゅると降ろされていく真新しい掛軸が、徐々に本紙を露わにしていく。武左衛門の顔、肩、
胸、刀、足……。なるほどと彼は納得し、その出来栄えに瞠目した。武左衛門は絵師の手により、等身
大で描写されたのだ。
「おお、牛股が二人おるぞ。ははは。ほれ、並んでみろ」
 はて、と彼は首を傾げた。改めて全体を見ると、どこか違和感を覚えるのだ。それは隣に立たされて
更に鮮明となった。
 確かに似ている。絵師の筆は確かである。しかし、体のバランスが変だ。腰から下は確かに原寸大な
のだろうが、肩や頭が妙に縮小されている。
 様子のおかしい事に気づいた絵師がくすりと笑う。彼が疑問を抱いた事に気づいたのだ。
「気づいたかな?」
「ええ、あの、やはり……」
「これで良いのだよ。なあ牛股、そこにしゃがんでみろ」
 周囲は訳が分からぬといった表情をしていたが、気に留める事もなく絵師は彼を促した。

109 :No.27 大空に最も近い男 4/5 ◇dx10HbTEQg:08/02/11 00:17:15 ID:S44wChK6
 指示通りに腰を沈め――武左衛門は今度こそ本当に驚愕した。
 まるで壁のように聳え立つ、巨大な男。威風堂々たる面持ちは、見るものを圧倒させる。こんなにも
大きな人間は見た事がなかった。
 間抜けに口を開く武左衛門に、絵師が笑う。この肖像画は正確には実物大ではない。畳から見上げ
る事を想定した絵なのだという。上半身は武左衛門の遠く届かない程の高さを表現するために、巧妙
に縮小されていたのだ。
「君は皆にこう見えているのだよ。大きいだろう、本当に」
 しかし得意げな絵師の意図と反して、彼は絶望を覚え始めていた。
 大きさで人を驚かす事ができる、この絵と己。では己と絵の違いとは一体何だ?
 会話は不得手。相撲を取る事も出来ない。人の前に出る事すら嫌う。他人に求められるのは、この尋
常ならざる背丈のみ。
 どれだけの注目を浴びようと堂々とした態度を崩さない絵が、武左衛門の前に立ちはだかる。
「牛股?」
「い、いえ、なんでも……ありません」
 毎次のように武左衛門の体格鑑賞と、性格に対する揶揄が始まる。しかし武左衛門は、ただただ呆
然と絵を見つめていた。


 どうやって屋敷を出たのかも覚えていない。隣には源助も居らず、もしかしたら断りもなくふらふらと
飛び出して来てしまったのかもしれない。
 呪いのように己の肖像がが脳裏にこびり付いている。己はなんと情けないのだろうと沈み込んでいると、
目が潤み始めてしまった。
 いつものように大空を見上げると、数羽の鳥が目にとまった。あんなにも小さな鳥は、武左衛門でさえ
も届かないほどの高さにありながら、人の目を気にする事なく悠々と舞っている。
 いっそ憎らしいと八つ当たり染みた思いで睨みつけていると、足元に感触を覚えた。見下ろすと、元気
な少年が絡み付いている。
「なあなあ牛股。やっぱちんこもでかいのか?」
 あの春画を見たのだろうか。どう答えたものかと視線を彷徨わせていると、少年と目が合った。好奇心
のみが宿る純粋な瞳に気おされた。子供から発せられる真っ直ぐ過ぎる光が武左衛門に突き刺さる。

110 :No.27 大空に最も近い男 5/5 ◇dx10HbTEQg:08/02/11 00:17:53 ID:S44wChK6
 ふと、彼は思った。武左衛門は絵ではない。絵ではないから、人々にからかわれ、話しかけられる。子
供たちに懐かれる。彼を見上げる子供の楽しげな表情は、他でもない武左衛門の成果だ。
 あの貴紳達にはまだ無理だが、こんな小さな子供相手ならば、大丈夫かもしれない。ごくりと唾を飲み、
言葉を喉から押し出した。己は人間だ。人間ならば、話せるはずだ。
「そ、そりゃあ、でかいさ、体が大きいからな。だが、あの絵ほどじゃない」
 言えた、と彼は拳を握った。若干声は震え、背には汗がだくだくと流れているが、成し遂げられた事に違
いはない。絵から脱し、人間として存在するための一歩を踏み出したのだ。
 子供等を散らすようにして足を動かす。わあ、と子供達がはしゃぐ。激しく打ち鳴る心臓の音を落ち着か
せるためにしたのだったが、振り回された子供等の思いがけない反応で、彼は少し考えた。
 牛を跨いだ牛股武左衛門。人々が望むのは巨体の鑑賞であり、また彼の巨人であるが故の挙動だ。それ以上
でも以下でもない。ならば期待に沿ってやるべきか。
 大袈裟に足を振り上げ、子供の上を跨ぐ。零れんばかりに見開かれた少年の瞳がみるみる喜色に染まっ
ていく。
「すげー! 跨いだ!」
「もう一度やってくれよ! おいこら行くな!」
「うるさい、あまり下をうろつくな。さもなくばお主の頭に糞を垂らしてやるぞ」
 興奮した子供等の歓声を背にし、大空武左衛門は江戸に来て初めての笑みを浮かべた。

<どんと晴れ>



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