【 snowflower 】
◆AOGu5v68Us




97 :No.25 snowflower 1/5 ◇AOGu5v68Us:08/02/10 23:26:12 ID:RqqC7kMw
 昔から絵を描くのは好きだった。小学校でも中学校でも、県内のコンクールで賞を取った。でも、それだけが取り柄だったと言って
しまえばそれまでだ。勉強も運動もあまりできなかったし、その頃はとにかく人に厳しく自分に甘かった。交友関係はごく浅く広かっ
た。透子はそんな僕に健気についてきたが、僕は彼女を邪険に扱うことが多かった。
 中学三年に上がってしばらくした頃、透子が学校の屋上から身を投げた。遺書は残さなかったが、その後の調べで女子からのいじめ
や、唯一の家族である母との不仲が理由とされた。なんだか不思議だった。彼女はそんなことを何一つ僕に話していなかったからだ。
今思い返すとそれらしいことが彼女の死の直前に一度だけあったが、それ以外は相変わらず元気だった。
 これは夢なんだ。明日になったらいつも通り家に迎えにきて、いつも通りたわいのない話をして、いつも通りの一日が始まるんだ。
そう信じ込もうとしたが、そんなことがあろうはずもない。当たり前のように通夜があり、葬式があり、そこからは誰もが彼女を忘れ
た。その中で僕だけが彼女の記憶、なににも気づいてあげられなかった罪を引きずり、取り残される心地がした。
 それから僕は、よく透子を描くようになった。スケッチブックからノートや教科書の端まで彼女で埋まった。卒業制作には、桜の木
にもたれかかる彼女をキャンバスに再現した。彼女の髪に花びらが止まり、彼女がそれを払う。彼女は僕と待ち合わせていて、僕が姿
を現すのを待っている。でも、彼女は笑ってはいない。なんの表情も浮かべていないのだ。彼女は時間が静止した絵の中で、現れるこ
とのない絵の中の僕を、うつろな瞳で待っているだけだ。他の絵も全てそうだった。僕は彼女の笑顔を描けなくなったらしい。
「先輩って、いつも同じ人描いてばっかりですよねぇ。しかも、上手いのに、なんか気味が悪い感じ」
 後輩にそう笑われるようになる頃には、もう絵を描くのが好きではなくなっていた。でも、描き続けなければいけなかった。心の中
に、衝動と罪悪感と自己嫌悪が存在し続けていたからだ。卒業制作と暇つぶしのスケッチの一部は、透子の母親に譲った。彼女は寂し
さを紛らわすためか、時々僕をお茶に呼んでくれたが、絵を家に飾るどころか、絵の話すら一度もしなかった。
 高校で美術部に入ったのは、完全に惰性の業だ。描かされるものはあるのに、描きたいものはない。透子の絵は少しずつ増えたが、
日増しに透子らしさが抜けて、誰でもない他人になっていく風だった。家に持ち帰り、勉強も忘れて丁寧に色を塗ってみても、やはり
それらのスケッチは透子であるようで、なにかが欠けている。
「花井君の絵ってさ。なんていうか、不思議」なぜかやたら親しくしてくれた村上という先輩にそう言われたことがあった。僕は例に
よって透子を描いていて、彼女は僕の後ろからそれを覗き込んでいた。
「よく言われます。なんか、自然とそういう風になるみたいで」
「そっかぁ、そうなんだ……。なんていうか、ね。かわいい子だよね。絵の子。超タイプ。ギュッて抱きしめて、いろいろしたい」
「堂々とレズ宣言ですか」僕が少し身を引くと、彼女は「冗談よ」と笑った。
「でも、なんかさ……。よく描けてるんだけど、うーん。上手く言えないんだけど……。いいや、気にしないで」
 会話は唐突に終わった。でも、僕には彼女が何を言おうとしていたか、なんとなく分かった。

 その年の文化祭に出展した作品も、やはり透子の絵だった。それまでは過去の思い出ばかりを描いていたが、それに限界が見えてき
たので、思い切って彼女に訪れ得たかもしれない未来を描いてみることにした。

98 :No.25 snowflower 2/5 ◇AOGu5v68Us:08/02/10 23:26:42 ID:RqqC7kMw
 絵の中の透子は僕の高校の屋上のフェンスに寄りかかって空を見上げていた。最初は想像の中だけでも僕と同じ学校に、という発想
で描き始めたに過ぎなかったのに、描き終えてみると彼女は自由や安らぎへの憧れと諦めを抱いているように見えた。今にも涙がこぼ
れ落ちそうな瞳で青い空を仰ぐ少女。悲しいものとはいえ、久しぶりに感情を持った透子を描けた、彼女が隠していた苦しみを分かっ
てあげられた。そんな気がして、嬉しかった。
 文化祭の一日目。僕は受付として、美術室の入り口に机といすを構えて座り、来場者にパンフレットを配る仕事をしていた。昼食後
の担当に回されていたこと、来場者の少なさ、単純作業に飽き飽きしたのにくわえ、BGMが刺激の少ない静かなクラシックばかりだっ
たせいで、途中から仕事より睡魔との戦いがメインになっていた。
 その時、ポンポンと肩を叩かれた。
 寝ぼけ眼をこすって相手の顔を見上げた瞬間、体中の眠気が飛んだ。というより、生気が吹っ飛びそうだった。確実に寿命が縮んだ
と思う。
 目の前に、透子がいた。手が隠れる長袖シャツにジーンズというラフな服装を除いて、僕が覚えているままの姿で。
 これは夢だ。そう思って頬を思い切りつねったり、頭を叩いたりしたが、彼女は消えなかった。
「ねぇ、お願いがあるんだけど、あの奥の絵描いたハナイって人に会わせて……って、ひょっとして君!?」彼女は僕の名札を見なが
ら大声で尋ねてきた。美術部員はみんな名札をつける。絵の感想を来場者が本人に伝えられるように、という考えらしい。
「あ、うん……。ねぇ、もうちょっと静かに」
「いつ空く?」
「へ?」
「仕事。いつ空く? 話があるの」外見が透子にそっくりな少女は、透子とは正反対の強引な口調で問い詰めるように聞いた。
「えっと……。三時半に交代、かな」
「じゃあ、終わったら、テニスコートのクレープ屋に来て。絶対だよ?」そう言うが早いか、彼女は呆気にとられる僕を尻目に、きび
すを返して去っていった。来場者の視線が彼女を見送ったあと僕に集まるのが分かった。

「で、話ってなに?」少女にクレープをおごらされた僕は、ラムレーズンのクレープを渡しながらそう聞いて、席に着いた。
「あの絵の女の子について教えて」単刀直入に答えられて、驚きのあまりクレープを落としそうになった。「わたし、この街にお姉
ちゃんがいるって聞いたから探してるの。あの絵、わたしにそっくりだったから、ひょっとしてこの絵を描いた人なら知ってるんじゃ
ないかなって思って」
 僕は考えを巡らせた。透子に妹がいるという話は聞いたことがなかったが、両親が離婚した以上、透子の父親が再婚して子供を作っ
たという線もなくはない。ここまで似てると他人のそら似ということもないはず。ただ、透子が死んでいて、しかも自殺というのはあ
まりにも言いづらいし、ほんとうに異母姉妹となれば、動揺のあまり僕がなにかヘマをしでかさないか心配だった。しかし、言わない
のもあまりにも忍びないし……。

99 :No.25 snowflower 3/5 ◇AOGu5v68Us:08/02/10 23:28:11 ID:RqqC7kMw
「……教えても、いいよ」腹をくくってそう言うと、彼女は顔を輝かせた。申し訳ない気持ちになる。「でも、君が期待してるような
答えは、たぶんあげられない」
 彼女の表情に戸惑いが顕われた。
「どう、いうこと……?」
「とりあえず、クレープを食べたら場所を変えよう。ここでは話しづらいことなんだ」

 僕らは近くの海岸に移動し、ぼろぼろの桟橋に座った。そこで僕は彼女に、「君のお姉さんかどうかは分からないけど」とあらかじ
め断ってから、安住透子という人間について話した。彼女とつきあっていたこと、彼女が屋上から飛び降りたこと、伝え聞いたいじめ
や家庭不和の話。彼女は真剣な表情で耳を傾け、話が終わると悔しそうな面持ちで拳を握りしめ、ゆっくりほどいた。
「会って、みたかったな……」
「だろうね。君のお姉さんじゃなかったとしたって、会わせてあげられないのは残念だよ。すごく、いい子だったから……」
 彼女の視線の先をたどった。海の色は世界中の絵の具を落とし込んだように深く、それでいて光を反射するさざ波はきれいに青さを
失った。光の色は難しい。白にもごく淡い金にも見える。彼女はそれを見つめ、その先にある水平線を見つめた。
「トーコ」ふと彼女が呟いた。「分かるよ……」
「え?」
「あ、なんでもないよ」そう言って、彼女は僕に笑ってみせた。
「それと、もう一つお願いがあるんだけど」彼女は持っていたハンドバッグからCDケースを取り出して僕に渡した。「neige」と手書
きされたCDが一枚入っていた。「わたしのアルバムのジャケット、描いてみない? あの絵、すっごくよかったから、頼みたいの」
「……ずいぶん急な頼みだね」
「君の絵はたぶん、わたしのやってる音楽とぴったり合うはずだから、とりあえず聴いてみて。気が向いたら描いてよ」
「う、うん」
 彼女は地面に手をついて立ち上がった。
「じゃあ、君もそろそろ学校に戻った方がいいだろうし、また明日、ここで会お? 五時くらいなら大丈夫だよね」
 そう言い残して駆け足で去ろうとする彼女に、僕は叫んだ。
「ねぇ、君、名前は?」
「寧樹。伊室寧樹」叫び返しながら、寧樹と名乗る少女はなかなかのスピードで走り去っていった。
 家に帰るなり僕はスケッチブックを開き、いつも通り透子のスケッチを始めたが、どうもしっくりこなかった。少し休もうと思って
インスタントコーヒーを一杯こしらえた時、寧樹にもらった自作というCDを思い出し、聴いてみることにした。正直な話、再生ボタン
を押すまであまり期待はしていなかった。
 不思議な音楽だった。無機質なドラムとベースを、ほとんどノイズと言っていいギターが覆っている。

100 :No.25 snowflower 4/5 ◇AOGu5v68Us:08/02/10 23:28:48 ID:RqqC7kMw
 真綿のように柔らかく、雪のように冷たく、それでいてどちらの優しさも持たない、歪んだ音色。しかし、寧樹の声が微かに聞こえ
出した瞬間、それらの音は生命を持った。寧樹の歌声は話し声と違い、とてもか細くて孤独だったが、ほとんどの曲で終盤に差し掛か
ると、溺れかけていたノイズの海を抜けて天に飛び立つような、美しい高音が聞けた。あの快活な印象とは裏腹の、寂しさと一筋の希
望をたたえた声で、彼女は歌う。
 気づいたら透子のスケッチは寧樹になっていて、僕はなぜか泣いていた。ジャケットを描こう。そう決意した。

 ほとんど徹夜で、悲しげな笑顔で両手に乗せた星を差し出す少女、というジャケットの下書きを描き上げたせいで、次の日は仕事に
ならず、村上先輩に受付を代わってもらって寝る始末だった。待ち合わせの時間が迫る頃に僕は起き上がって、桟橋に向かった。寧樹
は五分遅れで姿を見せた。僕らは近くの自販機の缶コーラを片手に話をした。
 寧樹は、両親とともに東京の方で幸せに暮らしていたらしかった。今は健康上の理由で隣町の親戚の家に居候しているが、上手く馴
染めていて、新しい学校でもちゃんと友達を作れているという。彼女の曲を褒めると、将来の夢はイギリスで音楽活動をすることだと
嬉しそうに笑った。
「花井君の夢は、なに?」そう聞かれて僕は少し悩んだ。特にはっきりした夢はなかった。けれど、中学時代の交友や、透子のことを
思い返して、個人的なささやかな目標に思い至った。
「そうだねぇ……人を泣かさないで、少しでも幸せにできたら、いいかな」気恥ずかしく思いながらそう返した。
「なにそれ」
「いいよ、分からなくて。君は今、その、幸せみたいだし……」
「ハハ、花井君顔真っ赤だよ?」
「うるさいな。そんなことより、はい。まだ下書きだけど」
 描いてきたジャケットの下書きを寧樹に見せた。彼女は目を丸くして、子供みたいな歓声をあげた。
「わぁ、これ一晩で描いたの?」
「すごいでしょ」
「うん」
 力強くうなずいてから、彼女は隅から隅までじっと下書きを見た。
「幸せ、か……」潮風に消え入りそうな声でボソッと呟く彼女は、心なしか寂しそうな様子だったが、僕は気に留めなかった。

 寧樹は完成したジャケットをいたく気に入ってくれた。それまでに僕らはかなり近しくなっていて、あちこち遊び回るようになって
いた。久しぶりに絵を描くのが楽しく思えたし、なにより性格は若干違うとはいえ、生きた透子と一緒にいるような気分になれた。
 二学期の終わりも近いある晩のことだ。寧樹から僕に電話がかかってきた。僕の家の近くの公園にいるから会いにきて欲しい、と言
われ、僕は急いで家を飛び出した。

101 :No.25 snowflower 5/5 ◇AOGu5v68Us:08/02/10 23:29:11 ID:RqqC7kMw
 公園に着くと、寧樹は街灯に照らされて、俯き加減でぶらんこに座っていたが、僕に気づくと、急に笑顔を作った。
「どうしたの」
「あのね、花井君。いろいろと、謝らなくちゃいけないんだ」
 僕は彼女と同じようにぶらんこに腰掛けて、左右の鎖を握った。
「……やっとお父さんとお母さんの離婚に決着がついたの。これからわたしは、お父さんと暮らすんだ」
「……ど、どういうこと?」
「でもね、お父さんは、わたしのこと、嫌いなんだ。お母さんも、わたしのこと、嫌い。あの女に似てるって言うの。二人とも。それ
に、東京に戻っても、友達なんて一人もいない。友達なんて、どこにもいない。ずっと、学校、行ってないんだ。怖い。すっごく、怖
い……」そう話しながら彼女は袖をまくり、シャツを少したくし上げた。僕は息を呑んだ。
 彼女のあちこちに、生々しい色の痣や傷があって、両手首の数カ所に絆創膏が貼られていた。
「ごめんね、花井君。ほんとにごめん。全部、嘘だったんだ。幸せな家族も、転校先の新しい友達も、いない。音楽を始めたのは、部
屋にこもって親と会わないため。病気は病気でも、心の方。ほんとなのは、将来の夢だけ。叶わない夢の話。全部つまんない見栄。な
りたかったわたし。みにくいよね。汚いよね。最低だよね」寧樹はまだ笑顔を保っていたが、声は震えていた。
「……寧樹。我慢しなくていいよ。泣いていいんだよ」それまでつっかえていた言葉を、ようやく口に出せた。
「え……?」
「透子さ、いじめのことも家のことも、ずっと僕に隠してたんだ。ずっと、泣くのを我慢してたんだと思う。僕が帰ろうとしてるのに
しがみついて離さなくてさ、どうしたのか聞いたら、すごく辛そうな顔をしてたのに急に笑って、『ダイジョーブ』って。『ダイ
ジョーブ』って言って、次の日に、死んじゃった……。」
 そう、あの時僕は無理にでも聞き出すべきだったのだ。透子の力になるチャンスはあったのに、僕はそれを見逃した。
「だから、泣きたかったら、笑わなくていいから、泣いて」
 寧樹はしばらく黙り込んでいた。が、やっと全ての抵抗を諦めたらしく、彼女は僕の手を握って、それから大声で泣いた。雪の夜の
静寂を破るような、大きな声で。僕は透子にしてあげられなかった分を、ようやく実行できたのだ。

「ほら、君のお姉さんかもしれない女の子だよ」そう言って僕は寧樹にスケッチブックを授けた。彼女はジャケットの下書きを見せた
ときのような子供っぽい歓声をあげ、満面の笑みでスケッチブックを抱きしめ、別れの挨拶を手短かに済ませて電車に乗り込んだ。
 雪景色の彼方に電車が姿を消してから、僕はふと思い立って、駅の公衆電話から透子の母親に電話をした。ベルが七回鳴った後、彼
女は電話に出た。
「透子の妹を、見送りました。今日の昼過ぎには、東京に着くそうです」そう言ってからの数秒はとても静かで、風が冷たかった。
「……そう」透子の母親は、洟をすすりながらそっと答えた。「どんな子、だった……?」
「透子に、そっくりでした」
彼女の嗚咽をしばらく聞いてから、僕は電話を切った。切り際に、寧樹、と呟く彼女の声が聞こえた気がした。



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