【 初恋 】
◆Mjk4PcAe16




61 :No.17 初恋 1/5 ◇Mjk4PcAe16:08/02/10 17:19:31 ID:XkyjENZ9
 高校一年の冬、石油ストーブの匂いが漂う放課後の美術室で僕はじっと内田先輩を見つめていた。
「あー、また口開いてる。閉じててって言ったでしょ」
「すいません、なんかぼーっとしちゃって」
 三年の内田先輩は学校で一、二を争う美人ということで、まったく繋がりのない僕たち下級生の中でも知られていた。
そういう人物は、男女関係なくどこの学校にもいるだろう。けれど普通なら話したこともないままに憧れの人物で終わ
ってしまうのが世の常であるような学校のアイドルに、僕は冬休み明けの昼休み、急に話しかけられた。
「やっと見つけた」
 そう言って弁当を食っている僕に先輩は近づいて来た。最初僕は「やっと見つけた」相手が僕だとはわからずに、い
きなり教室に入ってきた有名人に驚いていたのだが、彼女の大きな瞳は、同じように驚いているクラスメイトたちでな
く、明らかに僕を見つめていた。
「君、私の絵のモデルになってくれない?」
「はい?」
「君、名前は?」
 内田先輩は名前すら知らない僕を探していた。後から聞いたところによると、その直前の授業のとき、移動教室で先
輩の教室の前を通りかかった僕を見たのだと言う。
「竹下昴です」
「すばる、いい名前ね。ますます気に入ったわ。私のモデルになって」
 それまでうるさかった教室は静まり返った。当然だ。だってありえないことが目の前で起きていたのだから。例えば
僕がイケメンやお調子者だったらひやかしの声があがったかもしれないが、僕はかっこ良くもなければ、目立っている
わけでもなかった
「本当にかわいい顔してるわね」
 初めて美術室に行ったとき、先輩はそう言った。……距離が近かった。僕は先輩の顔をちゃんと見ることが出来なか
った。
「おびえなくていいのよ。何も食おうってわけじゃないんだから」
 先輩は僕の眼鏡に手を伸ばした。耳に先輩の柔らかな手が軽く触れて、僕は眼鏡を外された。先輩の手はそれから僕
の前髪を上げて、熱を量るように額に当てられた。
「こっちを見て」
 僕は見ることが出来なかった。
「何恥ずかしがってるの。しっかり私を見て。先輩命令よ」
 僕が下げていた目線を渋々あげると、先輩は僕をじっと見つめていた。

62 :No.17 初恋 2/5 ◇Mjk4PcAe16:08/02/10 17:20:00 ID:XkyjENZ9
「睫毛が長い」
 僕が先輩に思ったことを、先輩は声に出して言った。
「そんなこと言われたことないです」
「本当に? こんなにきれいな顔していてモテないなんてことないでしょう?」
「モテるなんて……僕女の子と話したこともほとんどないのに」
「恥ずかしがる顔も絵になるわ。本当に最高の素材ね。ねえ、そこに座って」
 その日から毎日僕は美術室に通い続けた。嬉しいというより、嫌だという思いの方が強かった。単純に気まずいのだ。
美術室には誰もいなくて僕と先輩の二人きりで、僕は毎日二、三時間丸イスに座って先輩を見つめていた。
「私をじっと見るように」
 という命令だ。先輩はその間ずっと僕を描いている。キャンバスから時折除く先輩の真剣な顔は、なんというか、と
いうかそれ以外に形容しようがないのだが、かわいい。ただ、真剣なかわいさというのはどこか恐ろしい。ここにいた
いと思わせるかわいさと、ここから逃げたいと思わせる真剣さが同居している眼で、先輩は僕を見つめた。
 美術室には誰もおらず、カリカリとキャンバスに僕を描く音だけが響いていた。石油ストーブは僕たちのためだけに
つけられている。
「あのー、どうして僕だったんですか? その、モデル」
 ある日、僕はおそるおそる聞いてみた。デッサンの最中だった。気を散らすなと怒鳴られるかと言ってから後悔した
けれど、意外にも先輩は素直に応えてくれた。
「線が奇麗なの、君」
「線?」
「輪郭と言った方がいいのかしら? ううん、それは違う概念だわ。でも例えば頬のラインだったり、髪の毛の生え方
だったり、首から肩へのラインだって、真剣に美しいの」
 真剣に美しい、という意味はよくわからなかった。
「それが線なんですか?」
「そうね、でもそれだけじゃなかった」
「どういうことですか?」
「あっ、動かないで。今は口を動かしても大丈夫だけど体は動かさないで」
「……すいません」
「……そうね、顔に凹凸があるっていうのかしら? 鼻が高いのね。それから目もくぼんでいる。だから光の濃淡がは
っきりしていて、色彩が多彩なの。日本人には珍しいほどにね。けれど外人的な顔っていうわけでもない。」
「はあ」

63 :No.17 初恋 3/5 ◇Mjk4PcAe16:08/02/10 17:20:20 ID:XkyjENZ9
「そうやって、頬がすぐ赤くなるのもいいわね。のっぺりとした頬を描くのは難しいの」
 それは貴方が目の前にいるからです。そして僕のことを信じられないほどに持ち上げてくれるからです。さらに言え
ば、貴方がちらちらと僕を見つめるからです。なんてことは言えなかった。僕は何も考えないよう徹した。そうでなけ
れば、気が持ちそうになかったのに、先輩は追い打ちをかける。
「それから、唇ね。いい色をしている。きっと柔らかいのね、光が柔らかいもの。だからふっくらとしているのに、必
要以上に目立っていないわ。君とキスしたいって女の子はたくさんいるでしょうね」
 ふふっと先輩は笑った。僕をからかっているのはわかっている。けれど、その女の子の中に先輩も含まれますか? と
聞きたいのは、僕がすでに彼女を好きになってしまっていたからだ。
 もちろん、向こうにそんな気がないことは百も承知だ。日が陰ると毎日、「おつかれさま」と一言だけ言って、先輩は
僕を先に帰してしまう。待っている意味はなかった。先輩はバスケ部のキャプテンといつも一緒に帰っていたのだから。
 だから聞いてみたのだ。(どうして彼でなく)僕なのか、と。先輩は僕の質問の意図を理解してはくれなかったようだ
が。
「ねえ、脱いでみてくれる?」
 着色にかかったころ、先輩はなんでもないようにそう言った。
「脱ぐって?」
「上半身裸になってもらいたいの。色をつけ始めてみて思ったんだけど、制服じゃちょっと違うのよ。前に言ったでし
ょう? 君は肌の色がいいの。だからどうせなら全部素肌の方がいいかと思って」
 抵抗する間もなく、半ば強制的に僕は制服を脱がされた。
「案外筋肉ついてるのね。なにかスポーツやっているの?」
「いえ、もともと筋肉質なだけです」
「本当にいい体ね。もはや才能よ、それは」
 改めて言わせてもらえば、僕はそれまで女の子にモテたことなんて一度もない。付き合ったり告白されたりしたこと
がないのはもちろん、バレンタインに義理チョコすらもらったこともない。むしろそっちの目がおかしいんじゃないの? 
と僕は思った。だからといって決して気分が悪くなることはなかったのだけれども。
「先輩はやっぱり美大とか行くんですか?」
 卒業式が近づいていた。本来なら三年生はもう学校に来なくてもいいはずだ。内田先輩は放課後に僕を描きにだけ学
校にきていたのだ。受験勉強はいいのだろうか? とは前々から気になっていた。
「行かないわ。私才能ないもの」
「そんなことないですよ。県のコンクールで入賞したこと有名ですよ。全校朝会で賞状が渡されたの覚えています」
「だから所詮県レベルってことよ。どうせ美大に行ったところで美術教師がいいところだわ。そういうと桜井先生には

64 :No.17 初恋 4/5 ◇Mjk4PcAe16:08/02/10 17:20:53 ID:XkyjENZ9
悪いけど、私教師ってがらじゃないし。もう進路は決まっているの。福祉の専門。……悪いけど今から口描くから少し
黙っていて」
 絵は続けるんですか。聞きたかった言葉は言えずしまいだった。
「今日は光がいいわね。いつも以上にきれいだわ、君」
 僕もそう思った。一ヶ月ずっとこうやって先輩を見つめてきて、一番奇麗だと思った。先輩はさばさばとしていてち
ょっときつめなところがあるけど、今日の先輩はどこか穏やかだった。
「ちょっとごめんね」
 先輩は立ち上がって僕のところへ来ると前かがみになって指先で僕の唇に触れた。三十センチの距離で僕は先輩の目
を見るけれど、視線が合うことはない。先輩の目は真剣に僕の唇を見ている。優しくつまんで、それからさする。何度
か顔を動かしていろいろな視点から。
「君、キスしたことある?」
 先輩は目線をあげて僕の目を見た。
「……いえ、ないです」
「なら大事に取っておきなさい。この唇は世界遺産ものよ。君とキスする子は幸せ者だわ」
「あの、その僕とキスする子、それ、先輩じゃ駄目ですか?」
 さすがに先輩はちょっと驚いた表情をした。もっともとっさにそんなことを口走ってしまった僕の方が絶対に驚いて
いただろうが。自然と出てきた言葉だった。けれどすべての言葉と同じように、僕の初めての告白は口に出されるや否
や空気の中に溶け去って、石油ストーブの匂いだけが辺りに漂っていた。
「大事に取っておきなさいって今言ったでしょ」
 そう言うと先輩はキャンバスへと戻っていった。何事もなかったかのように先輩は絵の続きを描きだした。それが僕
の唇であることは間違いがなくて、パレットの赤い絵の具が、どこか生々しく思えた。あるいは先輩が僕の唇を描いて
いるという行為そのものが。
「ねえ、君はどうするかもう決めているの? 将来」
 本当に何事もなかったように、先輩の話は絵を中断する前の話題に戻った。
「まだ決めてないです、なんかずっと先のことのような気がして。早いうちにちゃんと目標をたてておくべきだっての
はわかっているんですけれど」
「……その容姿を活かした仕事をするべきだわ。もちろん強制はできないけど。でもね、才能のある人がその才能を使
わずにいるのは、才能のない人に失礼よ」
「何度も言ってますけど、僕本当にモテないんです。先輩だけですよ、そんなこと言うの」
 日が長くなってきていた。絵を描き始めたころは、この時間にはもう暗くなっていたはずなのに、まだ運動部の練習

65 :No.17 初恋 5/5 ◇Mjk4PcAe16:08/02/10 17:21:12 ID:XkyjENZ9
する音が聞こえる。
「もう来なくてもいいわ、後は仕上げだけだから。長い間おつかれさま。今度ご飯でもおごるわ」
 帰り際に先輩は言った。けれどそれっきり僕たちは会うことなく、先輩は卒業してしまった。
 夏休みに入ったころだったと思う。作品が県の展覧会に出品され入選したことを僕は新聞の地方ニュースの欄で知っ
た。先輩の名前が載っていたのだ。大賞作品は写真付きで簡単な作者のインタビューまで載っていたが、賞が下がるに
つれ記事はタイトルと作者名だけになり、入選はタイトルすらなく作者名が羅列されているだけだった。これが先輩の
言う県レベルということなのかもしれない。
 展覧会場の市民ホールに人はまばらで、その多くすら僕のような関係者なのだろうと思われた。
「すばるくん」
 僕を呼ぶ声に振り返ると内田先輩がいた。
「来てくれるなんて思わなかった、こんな誰も興味持たないようなところ。せっかく君をモデルに描いたのに入選じゃ
カッコつかないから、展覧会が終わってから連絡するつもりだったのよ」
「そんな。気にしてませんし、入選だって十分ですよ」
「ううん、君がモデルで入選なんて、私の力のなさよ」
「またそうやって。この際ですから正直に言わせてもらえれば、先輩目がおかしいんじゃないですか?」
「君がそういうんだったら、もうそれでいいわよ。でもあのときの君は本当に特別だったもの」
「どういうことですか?」
「来て」と先輩は僕の手をつかんで、会場の奥の方へ引っ張っていく。中央に展示されている大賞作を横目に、僕に飛
び込んできたのは僕だった。
 それは確かに僕だったけれど、僕でないようだった。似ているとか似ていないとかの次元の話でなく、例えば二本の
違う映画に出ている同じ俳優のように、鏡で見る僕と絵の僕は異なる人生を歩んできたかのようだった。生き別れの双
子にあったような感じだろうか。けれど僕は街中で彼に出くわしても僕に似ていることすら気づかないかもしれない。
「なんかわかったような気がします。先輩には僕がこう見えていたんですね」
「確かにそうだけど、それ以上にこれは私を見る君なのよ」
 そう言うと先輩は「初恋」と書かれたプレートを優しく手でなぞった。
「私ね、絵を描くのやめようとは思わない。けれどこの先の人生でもうこの絵のように時間と労力をかけて描くことな
んて難しいと思う。毎日毎日モデルと向かい合って。それに君のような最高のモデルにだってきっともう出会うことは
ないと思うわ。だからたぶんこの絵が私の人生で最高傑作よ。本当にありがとう」
 プレートをなぞる先輩の左手の薬指には指輪が嵌められていた。約束の食事へと出かけるため市民ホールを出るとき
に、自動ドアに一瞬僕の顔が映ったが、笑いかける間もなくドアが開いて僕たちは外へ出た。



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