【 うそ 】
◆dmOmz2xPKU




59 :No.16 うそ 1/2 ◇dmOmz2xPKU:08/02/10 17:17:09 ID:XkyjENZ9
 西暦二千七年、晴れて成人を迎えた天皇家の長男である彼は、その節目に一大決心をする。
これまで皇居ひとつに閉じ込められ、他人との関わりには必ず天皇の名前がついて回った。
彼はこのしがらみをうるさく感じていたし、将来この特別な環境に馴染めるとも思えなかった。
そうした葛藤をしてきたからこそ、成人になっていよいよ天皇家での自分の立場の重要さを
受け入れなければならない時期に、あることを思いついたのであった。
 早朝、今日は別段の予定も組まれておらず、彼はただホテルに宿泊している客の如く、
見渡す限り真っ白な奥行きの深い部屋を独占し、大人三人が寝れるであろう大きなベッドから
好きな時間に起きられるはずだった。もちろん、いつもはブランチの時間まで寝ているのである。
しかし今日は朝早くに起きた。そしてベッドの下から金の額縁に収まった大きな肖像画を引きずり出した。
これは長年にわたって彼の面倒を見てきた執事に頼んで調達させたものだ。
彼の芸術的センスは、天賦のものであるといっていい。幼稚園時代に桜の絵を描かせたところ、
他の園児は茶と桃の二色をそれらしく塗っただけだったのに対して、彼は枝の感触や形を
丁寧に表現し、桜の花びらにいたっては白と赤を巧みに混ぜ合わせ、その臨場感たるや桜の香り
までもが匂ってきそうなくらいだった。小中高と学年が上がっても、むしろその才能は伸びる一方だった。
そのような生い立ちがあったから、彼はこの肖像画に自分の人生を賭けてみようと思ったのだ。
絵に対する考えや心の持ち方が、並大抵の人間とは比類であると周囲の皆が認めるからこそ、
この絵に陶酔した彼自身が、感動によって絵の世界に吸い込まれてしまったとしても、皆は
自分を許してくれるだろうと思ったのである。ただ、このような無謀な計画が単なる現実逃避
ではないことは、彼が天皇家や国民に対してある期待を持っていたことは一つの根拠となりえるはずである。
 「だ、だんなさま!だんなさま!」
ブランチの時間。テレビでは俳優谷原とマルチタレント優香が楽しそうに会話を繰り広げている。
冒頭は次期皇太子の誕生日についてだったが、メディアに顔を出さない彼の話題はすぐに反れ、
皆がお待ち兼ねのNY特集に移った。そんな柔らかな日差しと優しい風が吹く、陽気な午前十時、
肖像画を調達した、あの執事が慌てながら叫びにも似た声で皇太子に伝えた。
「大変です、ぼっちゃまが…お亡くなりに…!」
ブランチの特集に腕を振り上げてスタンバイしていた父、皇太子はテレビに対して前傾姿勢のまま、
首だけを執事のほうに向けて呆然としていた。

60 :No.16 うそ 2/2 ◇dmOmz2xPKU:08/02/10 17:17:43 ID:XkyjENZ9
 皇太子は執事にあらゆる罵声を浴びせたが、それは事実が現実とあまりにかけ離れていたからだ。
死因はショックによる卒倒であり、それは絵画を見たときに感動したからだと、皇居の医長が説明した。
泡をふいてうつ伏せに倒れる息子の頬に、父は両手を当てた。
「まだ…温かいじゃないか…。お前が…こんなことをするほど悩んでいたとは…」
執事の表情が一瞬曇り、皇太子に手を伸ばそうとしたときである。
「旦那様、総理が参りました。」
部屋に女性の声が届き、場の空気を一変させた。
「あいつか…。総理ならば訪問する時間くらい…」
親の顔から皇太子の顔になった男は、旧友の総理の訪問に気を引き締めた。
「息子のことはよろしく頼む。このことは総理に伝えておくよ。」
そう言って部屋を後にした。
 「お父様、気付いていたのかな」
仰向けになり、泡を拭きながら彼が言った。
「ええ。でも少なくとも、旦那様は坊ちゃんの心情をご理解なさったでしょう。」
彼は上半身だけ起き上がり、ベッドの下に腕を伸ばして大きな茶色いバッグを取り出した。
「ずいぶんと、味のあるものですね」
皮製のバッグは毛羽立ちの目立つ使い古されたもので、はちきれんばかりに膨れ上がっていた。
「うん。僕は天皇家を…、いや日本を離れて、画家を目指すんだ。」
彼はいつもの明るい声でそう言ったが、顔はうつむき加減で、バッグを持つ手も震えていた。
 彼は皇居に咲く何百本もの桜並木道を歩いていた。
「日本じゃなくても、桜は見れるだろうか」
旅立つ彼を見守ったのは、男三人と女一人。
「旦那様、よろしいので?」
「明日になったら考えようか。…ところで執事、今日は何日だ?」
執事が日付表示機能のある腕時計を見ると、時刻は二時を回っていた。
日にちは一日。桜が咲き、入学式が行われる季節である。





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