【 僕はそれをカナシミと呼ぶ 】
◆fSBTW8KS4E




56 :No.15 僕はそれをカナシミと呼ぶ 1/3 ◇fSBTW8KS4E:08/02/10 17:14:21 ID:XkyjENZ9
 カナシミがいつからいたのかは知らない。気づけば、完成した絵に、カナシミは現れている。カナシミはいつも同じ場所に現れた、右下隅の額をつければ少し被る、その場所
に。
 高名な画家や、ナルシストな若者がサインを残すように、カナシミは僕が描いた絵の全てにいた。
 カナシミと名前を付けたのは、僕の父だ。
 僕の父は、老いても若々しく、アトリエに若い女を招いては、ヌードを堂々と描いた。そしてその絵は、年寄りの評論家にうけ、どこかの金持ちが、高い金と交換していった。
 しかし今、その父は塀の中にいる。モデルに手を出して、訴えられたのだ。僕は父を蔑んだ。
「その右下にある染みは意図的なものか? 女の流した涙が、シーツに染み付いた感じと似ているな」
 僕の絵を父が見て言った、それは、粘りけがあり、蛇の鱗を纏った声だった。
「まるでカナシミのようだ」
 こうして、カナシミが生まれた。
 カナシミの色は決まって灰色だ。はっきりとわかるわけではないが、下の色を透かしたあの濁りは、黒でも白でもない、曖昧な灰色だった。
 父が塀の中に入った今、僕にとってカナシミは、父の汚らわしい血を僕が絞り出して落とした染みでしかなく、絵を描く度に、父を持った戒めををうける気分でしかない。
 それども濁った灰色の血は、呪縛のように、いつも現れた。

 その女性、ヒナコさんに会ったのは、ちょっとした好奇心からだった。
 家のアトリエで書いているときに見つけた、父の最後の絵。
 描き掛けで色は塗られていなかったが、デッサンだけでも僕はその女性に見とれてしまった。
 シーツを中途半端に巻き付け、官能的なポーズを取りながら、機械的な雰囲気を出している。
 しかし見とれていれば、あっという間に喉元を食われる、怖さも併せ持っていた。
 これはしかたがない、頭の奥でそういった考えがよぎったことに、驚愕する。
 身体の中に巡る血が、溶けた鉛に変わる感触を覚える。
 カンバスの裏には、黒鉛で「NO.42 ヒナコ」と書かれていた。僕は書斎に行き、父のアドレス帳をめくる。
 目的の電話番号は、Hの欄に比較的新しい字で書かれていて、考えるよりも早く、僕は電話に手を伸ばしていた。
「思いだすのも嫌かもしれないですけど、少し話したいことがあります」
 何を喋ればいいかわからなかったが、頭の中にちょっとした考えが、後押ししてくれた。
「……いいわ」
 電話の奥から聞こえた機械的な声は、あの絵の雰囲気の通りで、僕は嬉しくなる。
 そのあと、僕は日時と場所を指定してから電話を切った。

57 :No.15 僕はそれをカナシミと呼ぶ 2/3 ◇fSBTW8KS4E:08/02/10 17:15:13 ID:XkyjENZ9
「で、君は私になんの用があって、電話を?」
 ヒナコさんは、テーブルに置かれたコーヒーカップを離さず、透き通った目を向けた。
「ごめんなさい」
 父の分だ。
「あなたは関係ないわよ。あの人がした間違いは最低な行為よ」
 ヒナコさんはそこで、ゆっくりとコーヒーを口に運んだ。
「あなたはあの人の息子、それだけよ。私とあなたの間には、特別な枷は存在しないの」
 そういって、微笑むヒナコさんに、僕は完全に落ちてしまった。
 ヒナコさんは超越している。空気だけで人を殺せるほどの、透き通った全てを、ヒナコさんは持っている。
 これなら父は、と、また例の考えが浮かんで、罪悪感が僕を苦しめた。
「……あの、握手してもらっていいですか?」
 僕は震えた声を出し、震えた手を差し出す。
 ヒナコさんは軽く頷き、自分を汚した男の、息子の手を握った。
 冷たい手に、僕の神経は全て吸い取られ、無意識のうちに、強く握ってしまう。
「大丈夫?」
 とヒナコさんがかけた声で、我に返り、慌てて振りほどく。
 そのあと、二人で残っていたコーヒーを飲み干し、ヒナコさんは先に席を立った。
 僕は、三度深呼吸をして、席を立ち会計を済ませ、道の奥で消えたヒナコさんを見つめながら家へと向かった。

58 :No.15 僕はそれをカナシミと呼ぶ 3/3 ◇fSBTW8KS4E:08/02/10 17:15:47 ID:XkyjENZ9
 僕は、父の最後の絵に向かい合っている。
 我慢出来ずに、筆を握り、カンバスに絵の具を塗りつけた。
 昼間見たヒナコさんをゆっくりと思いだし、丁寧に、丁寧に塗っていく。
 少し微笑んだ口元をなぞり、温度の低い目に臨む。手に残った質感から肌に色を付け、道の奥で靡く髪を再現した。
 ヒナコさんの乳房をかいていくうちに、僕の身体の血が変色してきたのに気づく。
 欲望という父からの贈り物に、絶望を感じ、恐怖に戦く。
 真人間な僕の叫びが聞こえる。
――それを超えるな。
 黒く染まった僕の声も聞こえる。
――遺伝だ、受け入れろ
 二人が、僕の中で干渉しあい、仄暗く濁っていく。
 身体が濁る。僕も、結局は父の息子なのだ。
 悔しくなって、握っていた筆に力を込める。両手で持ち、そして一気に、折った。
 絵を見直す。
 自分にしては質感が上手く出せた。そして、カナシミを見つける。
 目をこらして、手を目にやると、濡れていた。
 頬を伝い、例の場所に落ちた涙は、いつものように染みを広げていた。
 僕はそれをカナシミと呼ぶ。
 その日から、僕の絵にカナシミは表れなくなった。
 理由はよくわからない。カナシミというものに生命があり、僕に愛想を尽かせたのかもしれない。もしくは僕の妄言で、自分を責めたことにより消えてしまったのかもしれな
い。
 この前は父が、ガラス越しに、曖昧な答えを教えてくれた。
 僕は、完成したヒナコさんの絵を持って、父に会いに行った時のことだ。
「絵っていうものは、オリジナリティがあればいいわけではない。絵を描くことで重要なこと、それは悲しみをぶつけないことだ。描く方の持つ悲しみは、鑑賞するものに必要で
はない。俺はそれが出来なかったけどな」
 父は、悲しみをカンバスにぶつけられず、ヒナコさんへ向けたのだ、そう考えたのは父と別れたあとで寄った喫茶店でだ。
 いつかのようにコーヒーをすすり、目を瞑る。
 帰ったら、ヒナコさんにまた電話をしよう。
 僕はそれを、カナシミとは呼ばない。



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