【 The sign which only it has 】
◆.oZ8mlfsac




51 :No.14 The sign which only it has 1/5 ◇.oZ8mlfsac:08/02/10 17:10:48 ID:XkyjENZ9
 ある肌寒い晩、大きな荷物を引きずって、男が店のドアを開けた。
私はカウンターで店の壁に掛けられた絵画を見つつ、読書をしているところだった。
「あの……すいません……。買取を……」
 男は消え入りそうな声でカウンターに向かって話す。
「あぁ、絵画の買取をご希望ですか? 分かりました。奥の応接室までどうぞ」
 男は、安そうなスーツを脱ぎ、絵画と思われる白布のかかった荷物とトラベルバックを引きずり店の奥に入っていった。

「――――となるので、一度鑑定を行い、それによって……」
 応接室に席を移したあと、私は買取の概容を説明していた。
 この応接室には2枚、こちら側にモナリザのレプリカ、商談相手側に夜のカフェテラスのレプリカが展示されている。
つまり相手からは、私の後ろに掛けられている紛い物のモナリザが見えることとなる。
「――によって異なりますが、査定期間は……」
「あ、あのっ」
 説明の後半に差し掛かったところで、商談相手の男から横槍が入れられた。
 ギャラリーでは絵画の保存上の理由で、照明の明度を落としてあるのだが、改めて明るい光の下で男を見れば、
ずいぶんとやつれている様で、隈がはっきりと見えるほどに、疲弊している顔だった。
 どうしたのか、という私の質問に対して男は
「今日中に買い取ってもらえることは出来ないでしょうか?どうしてもお金が」
と、懇願するように身を乗り出して言った。
 私は腕を組み目をつぶった。口では擬音めいた声を上げたりもする。
だが、答えは決まっていた。
 値段交渉をする上で、自分が切迫した立場であることを晒してしまうことは、自分を追い込む以外の何事でもない。
 値段交渉という戦いが始まる前に、私は大きなアドバンテージを手に入れたのだ。
「……そうですね。いいでしょう」
 男はキャリーカートからB1大の絵画3つをガラス製の机の上に順番に重ねてゆき、最後に、トラベルバックからB2大の絵画を取り出した。
「これだけなんですが……」
 私より年を取っているであろう商談相手の男は、上目使いで、恐る恐るといった様子でこちらを窺った。
 私は簡単な査定を開始する。
 最後に取り出し、一番上に重ねられた絵画。
 これは彩り豊かな油絵である。数種類の花と草原、そして真昼の空には赤、青、黄色の星が輝いている。

52 :No.14 The sign which only it has 2/5 ◇.oZ8mlfsac:08/02/10 17:11:41 ID:XkyjENZ9
その星もグラデーションが使われており奥行きを感じさせる絵画に仕上がっている。
 それに比べて、残りの3つの作品には色さえなかった。
 2段目に積み上げられている絵画のモデルは虫である。
 名前は分からないが、体節と6本の足、羽ばたく羽が見て取れる。
そして、輪郭と光の反射の描写から外郭を持った生物であることが見て取れた。
 画風は荒々しく、黒色だけで仕上げられていた。
 そして次の絵画は、地上を駆ける犬。最後の絵画は、女性だった。
「んー」
「ど、どうですか……?」
「この作品の作者は分かります? あと、題名なんかも」
 すると、男は顔を伏せ、恥ずかしそうに言った。
「それ、僕が書いたものなんです。絵なら何でも買い取ってくれる店があると聞いて、それで」
 そこで言葉が途切れる。失言だと思ったのだろう。
「あの……。実は、妻が……」
「そういうのはいいです」
 言い放つ。
 相手の家庭事情など知りたくは無いのだ。
「ウチの店で飾れるのはこいつだけですね」
 そう言って、カラフルな油絵をポンと触れる。
 男は残念そうであり、ホッとしているようでもある表情になる。
 私は、男の表情変化を見送ったあと、最重要の交渉に移る。
「それで、おいくら位がお望みですか?」
「いくら位なら買い取ってもらえるんですか?」
 質問の質問返し。
 こちらにとって交渉が有利になるのだが、利潤とは別のところで、この男に苛立ちを感じる。
「そうですね。良い油絵具をお使いのようですし……。5万円ではどうでしょう?」
 男は一瞬迷うように視線を上下に往復させたが、やがて、
「……わかりました。それでお願いします」
と、真剣な表情で頷いた。

53 :No.14 The sign which only it has 3/5 ◇.oZ8mlfsac:08/02/10 17:12:17 ID:XkyjENZ9
私は、買い取った絵画を特殊なビニール袋に入れ空気抜きをし、保管室まで運んだあと、
店の名前が印刷された封筒に1万円札を5枚入れ、名前と日付を封筒に書き付けた。
 また、それとは別に、何も書かれていない大き目の茶封筒を持ち、応接室に向かった。
 応接室では、すでにスーツを着て、待ちきれない様子で座っていた。
 私が部屋に入ると、立ち上がり頭を下げた。私もそれに習い頭を下げ、そのまま5万円の入った封筒を手渡した。
「あ、ありがとうございますっ!助かりました」
 ありきたりの言葉だが本心のようだ。表情を見ると安堵しているようだった。
「それでは、あの、私はこれで……」
 すでにキャリーカートには残りの3枚の絵画が積み込まれていた。
 男はそのまま荷物を引きずり、応接室を出ようとする。
「待ってください」
 扉に手をかけたところで、私は男を呼び止めた。
「急ぎの金といっても、今すぐにと言うわけでは無いんでしょう?座ってください。少しお話しましょう」
 男はしばらくドアに手を書けたまま止まっていたが、しぶしぶと言った様子で、商談時座っていたところに戻る。
 男は強張ってこちらの様子を窺っていた。
「安心してください。金を返せ、なんてことは言いませんから」
「はぁ……、それじゃあ何を……?」
 小さく座る男は早く岐路につきたくてしょうがない様子だった。
「あなたに少しお尋ねしたいことがありまして」
 間をおいて
「絵というものは、絵描きの内面を表したものです。風景画にしろ、落書きにしろ、人間である以上、そこに感情が宿る」
 男は口を開かない。
「だから、その絵は唯一無二の価値のある作品になるのではないでしょうか?」
「はぁ……」
「私が買い取ったあなたの作品は、そういう意味では価値は低いですね」
 ビクッと男の肩が上がる。顔が地面に近くなる。
「大衆が好みそうな、鮮やかで、被写体が健全で衛生的。しかし、そこに個性はあるのでしょうか?」
私はキャリーカートのほうに視線を向ける。
「そこに積み込まれている絵画は個性的でしたよ。それこそがあなたの書きたいものではないんですか?」
 言い詰める。男が何か話し出すのを待った。

54 :No.14 The sign which only it has 4/5 ◇.oZ8mlfsac:08/02/10 17:12:43 ID:XkyjENZ9
「僕には妻がいて……」
 男はこちらを窺う。私は今度は止めなかった。
「生活は大変だったけど、なんとかやってきました……。」
「……」
「子供が生まれるんです。妻はもちろん働けなくなります」
 男は顔を上げ、泣きそうな顔で叫ぶ。
「お金がいるんです!夢を追ってる場合じゃない!お金がいるんですよ!生きていくためには……」
「あなたはその夢の先駆けである絵を、布をかけただけの粗末な包装で持ってきました」
 私は3つの絵画を見続けていた。視線を追うように、男もキャリーカートの荷物を見る。
「卑屈になりすぎだ、あなたは。値段交渉もその3つの絵画の買取も食い下がるべきだった」
 身を乗り出して男に近づく。顔を見据える。
「文学だろうと芸術だろうと同じだ。個性が無ければその作者が書いた意味が無い。その作品の価値は無い。
その作者の価値は無いんじゃないですか?こうして話してる間にも、あなたは私の目を見ているようで、後ろのモナリザを見ている」
 ビクッと男が揺れる。今度は体全体が。
「その黒い絵画のようにあなたの内面は躍動してるはずだ。それを押さえ込んで、自分の価値を落としている。
それでもあなたは芸術家なんですか?ここまで言われて……」
 ドカンと音がして男が立ち上がっていた。ガラステーブルの上のアルミ製の灰皿が床に落ちる。
 男の顔は真赤で、涙を溜めていた。
「私だって好きで売りに来たわけじゃないんだ!アンタに口を挟まれる思えは無い!」
 ギャラリーに届くような大声だった。
 男はキャリーカートを乱暴に引きながら部屋を出ようとする。
「待ってください」
「まだ何かあるんですか!?」
「その、キャリーカートの絵。そいつを私に買い取らせてください」
「え……? だって……」
 男は突然のことで、今までの感情を忘れ、キョトンとした。
「店に飾ることの出来るのが、あの絵だけだと言ったんですよ。
私個人として、その3つの絵画を買い取らせていただけませんか?」
 まだ状況がつかめないようなので、用意しておいた茶封筒を取り出す。
「これで譲っていただけないでしょうか?」

55 :No.14 The sign which only it has 5/5 ◇.oZ8mlfsac:08/02/10 17:13:05 ID:XkyjENZ9
「これって」
「300万円入ってます。少ないのなら……」
「少ないなんて!そんな」
 言ってから気付く。やはりこの男は交渉が苦手のようだ。
「こんな絵に……」
「黒といっても、色々な画材を使った独特の画風。動き。そして、女性の絵の優しさ。温もり。……もしかして奥さんですか?」
「あ……、はい」
 照れくさそうに頷く男。
「そうですか。やはり。個性がある。それだけが持っているモノ。それがその絵の中に入ってる」
「しかし、こんな大金」
「安心してください。それは店名も私の名前も書いてない、ただの茶封筒ですから。
あなたは卑下しすぎなんですよ。納得できないのなら、スポンサー代とでも思ってください」
 茶封筒を男のスーツの内ポケットに突っ込む。
 5万円が入った封筒が折れ曲がり潰される感触があったが気にせず突っ込んだ。
「あっ、ありがとうございますっ!」
 確実にギャラリーまで響いた声を出した男の顔は、涙を流しながら笑っていた。

 あれから3ヶ月がたった。
 僕はコンクールに出す絵画の最終仕上げに取り掛かっていた。
 作業は車庫用の倉庫を借りて行っている。部屋に収まりきらないキャンバスで、外で作業するわけにも行かず、苦肉の策である。
 倉庫の中には自分と、キャンバス、画材、そしてラジオしか無い。
 キャンバスの表面は黒と白。墨や油絵を主に、色々な画材を用いて書いている。
 絵柄は、原っぱを大型の犬が走りぬけ、花には蜂が止まっている。
 大きな木が立っていて、その木陰には髪の長い女性がたたずんでいる。空には星々がきらめき地上を照らしている。
 本当はここで完成のはずだった。だが、その女性の手には新しい命が、大事そうに抱かれている。
 この3ヶ月で、僕に新しい家族が出来た。僕はいい父親になれるだろうか。最後の一筆を入れ終えて、ふと考える。
 ラジオのニュースが薄い壁に反射して、倉庫中に広がる。
『――文学賞、大賞に入賞されたこの作品の魅力はなんですか?』
『それだけが、その作品だけが持っている、私の個性ですよ』
 どこかで聞いたことのあるような声が聞こえた気がした。



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