【 老人と絵 】
◆ka4HrgCszg




44 :No.12 老人と絵 1/5 ◇ka4HrgCszg:08/02/10 08:52:03 ID:15GA5xC+
 彼は妻の絵を描いていた。
 病室の片隅で、病いに伏せた彼女を紙に写し出している。
 骨張った手はサラサラと鉛筆を操り、写真のように緻密な絵を描き込んでいく。顔を皺くちゃにしてすっかり老け込んだ老婆が、絵
の中で痛々しく微笑んでいる。
 黙々と描き続ける彼も、その老婆と同じぐらいの老齢だった。時々目をスッと細め彼女を見つめては、紙にその姿を描きだす。皺の
一本すら残さないかのように、ひたすらモデルに忠実な絵。
 彼は極端に嘘を吐けない人間だった。
 彼が嘘を吐く事は、まず無いと断言しても良い。両親の教育か、それとも生まれつきそうなのか、気が付けばバカが幾つも付くほど
の正直者になっていた。例え優しい嘘を求められている時も、正直に答えてしまうような人間だった。彼の胸の中では、常に『嘘を吐
いてはいけない』という脅迫概念が大部分を占めているのである。
 だがそんな彼でも、たった三度だけ嘘を吐いた事がある。どの場合も、そこで嘘を吐けなければ、他人の運命をガラリと変えてしま
うほど重要な場面だったのだ。そんな場面で彼は、ほんの些細な嘘を吐いた。
 そして彼は、そんな些細な嘘でも自分の心をひどく傷つかせ、大いに泣くのだった。自尊心がズタズタに切り裂かれて、踏みにじら
れる思いを感じるのだった。一度嘘を吐く度に、もう嘘は吐かないと更に固く心に誓うのだった。
 そんな彼の性格は、絵を描く時も顕著に現れている。彼の絵は微に入り細に入り密に写しだす。物であろうと、風景であろうと、そ
のままをカンバスの上に切り取る。
 彼は、幼い時から自分の将来を絵描きに定めており、ずっとその夢を叶えるための道を歩んで来た。その為に人一倍の努力もしてき
た。しかし、最後には夢を諦めてしまった。……それは、何故か。結局の所、彼がモデルに忠実過ぎて、描く絵の全てが『模写』の域
を超えられなかったからである。どんなに上手く描けてはいても、それらには訴えかける何かが無かったのだ。彼の絵は空虚だった。
意志が無かった。魂が無かった。彼は紙の上ですら、嘘を吐く事が出来なかった。それはどう足掻いても写真には勝てない絵だったのだ。
 ――動かしていた指を止める。紙の上には、目の前の彼女となんら変わりの無い姿をした老婆が写っている。
「あなた、出来ましたか?」
 目の前の彼女が笑う。どこか諦観したような笑顔。聞きながら、あまり期待していないような――。
「出来た」
 彼は短く答える。そして、また絵に視線を落とす。
「……だが、見せたくない」
 そこに描かれた老婆は、美しいモノでも何でも無かった。希望に溢れるモノでも無論無かった。それは死を待つ弱った老婆だった。
病に苦しめられ、衰弱して、痛ましく死を待つ老婆だった。彼はそんな妻の姿を忠実に切り取って、紙の上に写し出してしまっていた。
彼はこんな絵を見せたくなかった。
「……そうですか。でもあなた、私はどんな風でも良いんですよ……。その絵が、あなたに描かれたものでしたら、それで……」

45 :No.12 老人と絵 2/5 ◇ka4HrgCszg:08/02/10 08:52:19 ID:15GA5xC+
 だが彼は何も答えないまま、スケッチブックを閉じる。
 彼女はそれを見ると、諦めたように話題を変えた。
「……あなた、私がおらずに家で不便をしてませんか?」
「不便だ。家事は今でもさっぱり慣れん。だがまぁ、何とかはなってはいる」
 彼は真面目な口調で答える。
 彼女は顔を皺くちゃにして笑みを浮かべる。そうしてしばらくの間、彼を見つめて黙り込んでいた。彼も彼女に視線を返す。
 病室の中に穏やかな沈黙が流れる。外の廊下からは、絶え間なく人の通る気配があった。
「私の命は、後どれぐらいになりそうです?」
「持って三ヶ月だそうだ」
 彼は即答する。
 しかし、余命が僅か三ヶ月と聞いても彼女は簡単に頷いた。そして、まるで今からが大事だとでもいうように、顔を少し強張らせて
口を開く。
「その内……。私の絵を描いて、私に見せて下さいね……」
 彼はその言葉には頷かなかった。

 数日が経っても、絵は増えていく一方、それらの一つもモデル本人が見る事は無かった。
 彼はちゃぶ台に着いてロクに料理と呼べないような食事に箸を伸ばす。その隣でエサ皿を不満そうに突いているのは、老人夫妻の飼
う猫である。猫は子供代わりだ。彼女は子供を作れない体だったので、夫妻は長年に渡って様々なペットを飼ってきたのである。
 彼は夕飯を済ませると、難儀して立ち上がる。彼の体も時の流れには逆らえない。体を動かすと体の節々、特に膝が激しく痛んだ。
背中もいつからか真っ直ぐ伸ばせなくなっていた。
 一人の家は不気味なほど静かで、家のどこを見渡しても誰も居ない。餌を突いていた猫の姿も消えている。彼は、心に空いた穴に冷
風が吹きすさぶような錯覚に囚われながら、もう寝る事に決めた。寝間に移動して、押入れの襖に手を掛ける。
 突然、電話の音が鳴り響いた。
 彼の体が一瞬跳ねる。それから、電話のある玄関へ向かった。
「もしもし」
 彼は受話器を取り上げて耳に当てる。同時に切羽詰ったような声が聞こえてきた。電話は、病院から。
 ――彼女の容態が悪化したのだ。

 息を切らして病院に着くと、彼はまず医者に呼ばれ別室に案内された。そこでの話によると、峠は越したものの危険な状態が続いて
いる。持ってあと二週間程度だろう、という事であった。

46 :No.12 老人と絵 3/5 ◇ka4HrgCszg:08/02/10 08:52:38 ID:15GA5xC+
 その後、彼は病室に入った。部屋の中央には、酸素マスクを被せられて静かに眠る彼女が居た。
 持って二週間――。
 彼には信じられなかった。その弱々しい寝顔を通して、彼はこれまでの日々を振り返ってみる。長い時間を、途方も無く長い時間を、
一緒に過ごして来た気がする。それはもう、生まれた時から一緒だったような――。
 ――それが後、二週間。
 彼には信じられなかった。実感が沸かなかった。例え二週間後、彼女が居なくなったとして――――それではその後、一体どうなる
のか?
 彼は、ハッと気付いて顔を上げる。
 ベッドの上。眠っていた彼女が、いつの間にか目を開けて彼を見つめていのだ。そして、彼と目が合うや否やニッコリと微笑んで見
せ、言った。
「いつか、……私の絵を見せて下さい……。……見せて下さい、ね……あなた……」
 彼は何も答えられないまま、石像のように固まっていた。

 家に戻ると、すぐさまスケッチブックを開く。一番最初に出てきたのは、ベッドに弱々しく寝ている老婆。ページをめくると、その
次に現れたのも老婆。更にめくっても、同じような老婆。めくる。老婆。めくる。老婆――。
 スケッチブックに収められているのは、どこまでも無機質な絵だった。まるで観察記録かのように、弱っていく老婆の様子を映した
絵。ひたすらモデルに忠実な絵。
 彼はスケッチブックを床に叩き付けた。そして頭を抱えて床にうずくまる。心の底からこんな性格の自分を、呪った。
 彼には、絵を通して何かを表現するという事が出来なかった。この老婆の絵も、穏やかで温かい雰囲気を出せれば彼女に見せる事が
出来たかもしれない。あるいは、老婆の持つ病的な死の雰囲気を絵の中から拭い去るだけでも――。
 だが無理なのだ。
 彼はただ忠実に、モデルの雰囲気も全てありのままに描き取ってしまう。いくらそれを変えようとしても出来無い。変えようとすれ
ば、手は動かなくなるだけなのだ。
 いっその事、このスケッチブックの中の老婆を見せてしまっても良いかもしれない。それで彼女は喜ぶだろう。喜ぶに違いない。そ
う、彼女は間違い無く喜ぶのだ。そして、同時に――絶望もする。
 自分の変わり果てた醜い姿に。死の匂いを放つおぞましい姿に。深い皺が刻まれ、若い頃の美貌は跡形も無く消え去った姿に。
 彼は知っていた。彼女が自分の容姿に強い自信を持っていた事を。誇りに思っていた事を。そして、華やかな全盛期時代に想いを馳
せては、大きな溜め息を吐いていた事を。
 ――夜はすっかり更けていた。時刻は十二時を回っている。彼はどんよりとした疲労を感じ、もう布団を敷こうと思った。
 寝間へ移動する。あくびをしながら押入れの襖を開けて――咄嗟に身を引いた。

47 :No.12 老人と絵 4/5 ◇ka4HrgCszg:08/02/10 08:52:54 ID:15GA5xC+
 中から猫が飛び出してきた。猫は彼の顔を一瞥すると、そのまま通り過ぎて部屋の外へと出て行く。
 彼は視線を押入れに戻す。そこの下段にしまっていた、本やレコード、救急箱に工具、手紙やアルバムなど雑多な物が、全てメチャ
クチャに散らかされている。
 猫が派手に荒らして行ったらしい。彼は思わず溜め息を吐いた。
「ひどいな、これは……」
 彼はその中から一番手前に来ていたのを何となく拾い上げる。
 それは随分と古いものだった。

 翌朝、彼は目を覚ますとすぐさまスケッチブックを取り出した。そして、何枚も何枚も同じ絵を描く。最初の内はモデルを見ながら
絵を描いたが、その内、見なくても描けるようになった。そして更に何枚も描いている内に、昼が来た。彼は軽く昼食を済ませると、
スケッチブックを持って出掛ける。彼はもう心に決めていた。
 病院に着いて彼女の部屋に行くと、彼女は目を覚ましていた。彼が入ってくるのを見て、彼女は横になったままニコリと笑う。それ
を見ながら彼は、開口一番に言った。
「今からお前の絵を描いて、見せてやる」
「えっ、…………本当、ですか?」
 彼女は咄嗟に聞き返す。そしてその質問は無駄だった事をすぐに悟る。彼が嘘を吐けない事は、彼女が誰より知っているのだから。
 そして彼は描き始めた。その最後のページ。ほぼ全てが老婆で埋められたそのスケッチブックに、彼女の絵を。
 必死だった。今までの人生で他に無いほど集中していた。朝の感触を思い出しながら、紙の上に線の一本一本を描きだしていく。指
が機械のように自動的に、それでいて機械では出せない柔らかさで動く。一本一本の線が、紙の上に彼女の姿を完成させていく。その
絵は明らかに今までのモノとは違った。絵の中の彼女は、眩しい程に輝いていた。
 これなら、と思った。――これなら、彼女に見せられる。
「――――出来た」
 その言葉に彼女が顔を上げる。期待と緊張の入り混じった表情。ジッと真剣な眼差しを彼へ送る。彼は頷く。
 そしてスケッチブックは、――ゆっくりと彼女に向けられる。
「それ……は……」
 彼女は目を見開いて、驚いた。
 流れるような髪、長い睫毛に、大きな瞳、すらりとした鼻に、薄く結ばれた唇――――。
 ――――そこに描かれていたのは、五十年も前の彼女の姿だった。
「どうして、ですか? どうして昔の私なんかを……。私は……、私は、もうこんな……」
 彼女はワナワナと唇を震わして彼に問う。

48 :No.12 老人と絵 5/5 ◇ka4HrgCszg:08/02/10 08:53:09 ID:15GA5xC+
 だが彼は首を横に振る。そして静かに、語り出す。
「……俺にとっては、お前は何も変わっていない。俺の目に映るのは、五十年前から何も変わらないお前の姿だよ。お前は……、今も
綺麗なままだ」
「そんなのは――――嘘です」
 目に涙を浮かべながら、彼女は即座に否定する。
「だってあなた、泣いてるじゃないですか……」
 彼は確かに泣いていた。辛そうに、顔を歪めて。夫が泣いている姿など長い人生を振り返っても、今まで一度も見た事が無かったの
だ。ただ、彼が嘘を吐いた時を除いては――。
 それからふと、スケッチブックを持つその右手に目が奪われた。その小指の付け根から手首に掛けてが、真っ黒に汚れている。それ
は長い時間、彼が鉛筆を紙の上に走らせていた証拠だった。
 彼女はまたスケッチブックの絵に視線を移す。そしてしばらく考え込んで、それを思い出した。彼が昔、いたく気に入って、よく持
ち歩いていた彼女の写真と、その絵のアングルが同じである事を。
 彼は昨日アルバムからその写真を見付けると、今日の朝早くから何度も模写を続けていたのだった。
 おもむろに彼女がフッと溜め息を漏らす。
「あなた……。私は嘘をつかないあなたの事が、好きだったんですよ?」
 そう言われて、彼はピクリと体を震わせた。予想外の彼女の言葉に、彼は何も言わずに黙り込む。そしてそのまま俯いてしまった。
 部屋の中に重苦しい沈黙が流れる。
「……ですけど」
 沈黙を破る彼女の声。
 彼は顔を上げて、彼女を見て、そして驚いた。
 ――――彼女が、泣いていた。
 ぼろぼろと。口に手をやって。顔を皺くちゃにして。
「あなたから、こんなに嬉しい嘘を聞けるなんて思いませんでした――――」
 そう言ってまた彼女はぽろぽろと泣いた。子供のように泣いた。しゃくり上げて泣いた。両手を顔に当てて泣いた。ただ、泣いて、
泣いて、泣いた。
 彼も静かに涙をこぼしていた。嘘をついた不快感は無かった。ただジッと愛しい彼女を見つめていた。
 目の前で泣きじゃくる彼女の姿は、彼にとって五十年前から何も変わらない『彼女』の姿だった。





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