39 :No.11 絵 1/5 ◇ibD9/neH06:08/02/10 08:36:16 ID:15GA5xC+
当年とって十五歳。まさか小学校の頃の担任から呼び出しを受けるとは、夢にも思いませんで
した。
小高い丘に囲まれたまるで蟻地獄の本陣のような処に、私が嘗て登校していた校舎殿がどっし
り待ち構えています。
校舎の外壁は、数多の思い出や汗と涙。果ては容赦ない風雨によって、多少はくすみなどが目
立つものの、どうしてなかなか男前ではないでしょうか。
それとも単なる、きったねえ建物でしょうか。
どうでしょうか。
感じ方は人それぞれなので、どちらでも構わないのだと、勝手に解釈に奔ります。
夏季休暇中のためか、周囲には人気もなく、ひっそりと静まり返っていました。
さて、なにぶん閉鎖的ホームグラウンドでは内弁慶として名高い私ですから、見晴らしの良い前
庭を、独り鼻歌交じりに駆け抜けろなどというミッションはあまりに酷。きっとリンゴかタコになります。
可能な限り樹冠の密集するセーフティーゾーンを、俯きながら早足で無我夢中で突き抜けてや
りました。
教員玄関の窓口で訪問者名簿に自分の名を記入してから、スリッパを一足拝借して、荘厳と無
邪気を隔てる扉を軽くノック。しかし待てど暮らせど返事はなく、鍵が掛かっているのかドアノ
ブは半分も回りません。開けっぴろげの宿直室を覗いても、日光を浴びた埃が煌いているばかり
で、消し忘れのラジオから流れる競馬中継の実況がより静謐を冴え渡らせている以外に、人の息
吹を感じさせません。
そして『廊下を走るな』という貼紙の前での、わざとらしくパタパタとスリッパの音を強める
という抵抗は、虚しさを誘うばかりで必ずしも建設的ではない。ということを先ほど思い知らさ
れました。
40 :No.11 絵 2/5 ◇ibD9/neH06:08/02/10 08:36:46 ID:15GA5xC+
仕方なく窓口で応対してくれた方のもとへ引き返すと、物憂い表情で文庫本を読み耽っていた
事務員の女性が、昆布茶をご馳走してくれました。冷たい昆布茶というのを初めて経験しました
が、非常に上品かつ清涼な口あたりで満悦至極。
「松本先生? 校内に居るとは思いますけど。少し待っていてください。あ、お茶は好きなだけ
どうぞ」
恭しく頭を垂れて見送り、待つこと十五分。昆布茶が七杯目にさしかかろうとした頃に、うぐ
いす色の箱を携えた白髪の老紳士、松本元担任が事務室に顔を出しました。
「呼んでおいてすまないね。待ちましたかな姫様」
待ちましたよ。と、肝の据わられたお方なら憤怒する場面なのでしょうが、いかんせん私は倭
国伝来の小心者。筋金入りの泣き寝入り至上主義。
ありもしない不満などおくびにも出さずに七杯目の昆布茶をあおり、元担任のお戯れに便乗す
る余裕を残したまま、雅に縁取られた涼やかな微笑みで応えます。
「なんの。腹が少しダボダボになったくらいでござる」
41 :No.11 絵 3/5 ◇ibD9/neH06:08/02/10 08:37:20 ID:15GA5xC+
微かに粘土の匂い打ちかおる道徳教室へと、私たちは談話の場を移しました。
室内にはお日様の香りがこれでもかと詰まっており、湿度の低い乾いた熱気が頬を嬲ります。
夏の到来を濃厚なまでに味わったのは久しぶり。このままでは脳みそがとても幸せなことに
なってしまいそう。
松本先生は若者の流行がどうしたとか政治がああだとか、世間話で会話の糸口を探るのです
が、残念なことに私は世間知らずのノンポリ。受信機を持たぬ交信は、暗号めいたデータのまま
情報に置換されず、掻き消えてしまいます。いたたまれません。これ以上場が白ける前に、私か
ら話を切り出すこととしました。
「あの先生。今日はいったいどうして」
私の質問に先生は一瞬戸惑った様子で、ああ、うん……まあ。とまた此方でも糸口を探して、
一つ二つ咳をすると「これなんだがね」と先ほどより小脇に抱えていた長方形の箱を、静かに
教壇の上に滑らせました。
開けると画用紙が一枚。かつては眩い純白を誇っていたと思しき黄ばんだ画用紙が一枚、入
っているじゃありませんか。これほど仰々しく保存していることから察するに、ただの画用紙
なわけがありません。
「名画だと思わないかね」
「なんとも趣のある画用紙ですねえ。なんといっても黄ばんでいますし。おいくらほどですか?」
「小学生時代の君が、私の前の担任に提出した単なる画用紙だよ」
「なんともきったねえ紙ですねえ」
短期間で黄ばみすぎじゃないですか貴方。
先生は立ち上がり、「まったくそうだ。汚い紙なんだ」と笑いながら、箱の中からその画用
紙を取り出して窓際まで持っていくと、ジッと眺めたり、日の光に透かしてみたりしています。
「透かしたら浮かぶような、そういう類の絵は描いた記憶はないのですが」
「君はそうやって昔から物事を直面で捉えられる素直で可憐な女の子だったよ」
柔和な語調のままカラカラと窓を開けると、前庭で青葉が風でさわさわと揺れ動いて、木漏
れ日の模様を一瞬間のうちに変えていきます。不意に訪れた変動の予兆に、私はむずかゆさ
を覚えます。
「端然と背筋を伸ばしている姿に感動したものだ」
快晴の夏。反して靄に煙る焦土に、剥き出しの雨粒達が、満を持して降り注ごうとしていました。
42 :No.11 絵 4/5 ◇ibD9/neH06:08/02/10 08:37:43 ID:15GA5xC+
「君が四年生の時の担任の林田くんだけど」
懐かしい名です。お元気なのですか。
「あれから転勤になってね。今はなにをしているのかも分からない」
お元気でいてほしいものです。
「居場所が分かれば縫い付けてでも引っ張って謝罪させたいのだがね」
謝罪されるようなことは、なにもありませんけど。
「君は悪意に疎かった。人の側面へ視点を移そうとしない。魅力と引き換えの欠点だ」
私のようなスベタにも一端の魅力くらいはあったと喜ぶべきなのでしょうか。
「代議士だったお父さんの事は」
釈放されてからは家で酒浸りのワンダフルライフだと母は語っていました。
すっとこどっこいながら、愛すべき家族像だと胸を張れます。
「けれども君は五年に上がってから、私が担任になってから、一度も登校しなくなった。お母さ
んに聞いたよ。毎朝、その、玄関で、」
過激なスキンシップからくる筋肉痛の副作用的な何かという可能性は否定しきれるものでは
なく……。
「今までどうしても分からなかった。なぜ授業とはいえ、林田くんは君に父親の絵を描かせよう
としたのか」
授業だったからじゃないですか。
「ほら、そうやってすぐ人を庇おうとする。その優しさを裏切って反応を楽しみたくなる輩もい
るんだよ。そして私も例外に漏れない屑だった」
あら……?
―――もしかしたら松本先生が、このまま蟻地獄に呑まれてしまうのではないかという、漠然
たる不安にかられて、私は窓際に近づき、画用紙の握られた手を力いっぱい引き寄せました。
「私は君の壊れる姿に魅了されていた。見続けていたかった。だから体面上は止めようとしなが
らも、その実、嗜虐を無条件に肯定していた。彼以上に気味の悪い屑なのだ」
振り返った先生は、嗚咽もなく、眉ひとつ動かさずに、目元だけでさめざめと泣いていました。
「名画であればあるほど台無しにしてしまう。理性を騙る狩猟動物だ」
43 :No.11 絵 5/5 ◇ibD9/neH06:08/02/10 08:38:01 ID:15GA5xC+
私は人生に一片の悔いも残していません。なので謝罪されても、それは自らを全否定されてい
るようで、なんとも決まりが悪いのです。
画用紙にしても、あの小さなスペースに父を閉じ込めるのがなんとも納得いかず、逡巡した挙
句に白紙で提出したという、いかにも子供くさい浅はかな行為に違いないので、深い意味などは
さしてなく、あったとしてもそれは後付の動機だと確信できます。父逮捕の余波としての、空気
扱いされるような苛めもありませんでした。決してありませんでした。
あと私がそれ系の病院側からめでたく仮退院を許されるまでの流れは、すべて母を介して松本
先生へ筒抜けていたそうです。
でも私としては、長年悲劇少女のように扱われていたためか、気づけば無類の内弁慶になって
いたことのほうが、はるかに予想外でした。つけ上がりました。今では母と二人の時は、箸すらも
まともに自分で持ちません。
教室という名のブルペンで繰り広げられた思い出キャッチボールの後、雨により地の固まった私
たちは昆布茶事務員こと増岡さんを交えて、即席鼎談会を催すことと相成りました。が、しかし。
元来の趣味であるゲートボールなどの話題を若者に振る松本先生。昆布茶を注ぐことばかりに
熱中する増岡さん。極めつけは世間知らず甚だしいスットコドッコイな私。
もはや惨状以外のなにものでもありません。竹縄などは尻尾も見せず、導かれるまま僅か二十
分ばかりでお開きに。
事務室を出る際、先生はネクタイを直しながら、不意に自嘲のような嘆息をすると、こう言い
ました
「私は君と話すのが直前まで怖くて堪らなくてね、つい理科室に引きこもってしまった」
チキンな私には、少しだけその気持ちが分かりるような気がしましたが、多分気のせいでした。
「そういえば何故先生が私の放り出した画用紙をお持ちで?」
「林田くんが大事そうにもっていたから、ひったくった」
顔を見合わせ、爆笑に次ぐ爆笑。どっかんどっかん。何を言っても数珠繋ぎに笑いが巻き起こ
ります。
「ところで、この名画は、持って帰るかね?」
「やあ、こんなものは名画じゃないですよ。作品ですらありません」
私はおもむろに画用紙を摘み上げて、夢と愛とパッドの詰まった胸に抱きかかえます。
「ただの黄ばんだ画用紙です。古臭さをまぶされただけの、きったねえ紙ですよ」
〈了〉