【 ある風景の絵 】
◆7BJkZFw08A




29 :No.08 ある風景の絵 1/2 ◇7BJkZFw08A:08/02/10 00:01:29 ID:O/Da0CZZ
 その絵は美術館の片隅、誰もが見過ごしてしまうような、そんな隙間に飾られていた。
どこかの風景を描いた絵のようだった。
それはとても古い絵だった。題名はない。誰が描いたのか、それもわからない。
しかしその絵はずっとその美術館に飾られ続けていた――

 ある少女が、その絵の前に立った。
少女は誰も目を止めないこの絵をふと見つけ、もっと良く見てみようと近づいたのだった。
それは平凡でのどかな、どこかの風景だった。
しかし不思議に少女はその絵に引き込まれた。
 手前の丘は柔らかそうな緑の芝に覆われ、そよ吹く風に波打って草の匂いを辺り一面に漂わせているようだったし、
左手に佇む木は濃い緑の葉と赤い実で装いを整え、ざらざらと葉をこすり合わせながらその身を揺すらせているようだった。
透きとおるような水色の空からは白い陽光が燦々と降り注ぎ、緑の大地により濃い緑の影を作りだしている。
 ふわっと甘い香りが流れたような気がした。この木に描かれた赤い実はきっと林檎だろう、少女はそう思った。
真っ赤な林檎がたわわに実り、自らの重さで今にも地面に落っこちそうだ。
それを知ってか知らずか、木の根元には二匹のねずみがいた。
ねずみ達は物欲しそうに木を見上げ、なにかを囁き合っているように一方が一方の耳に口を近づけている。
(あの林檎はいつ落ちるのだろう)
(まだ落ちないかな。早く食べたいなぁ)
(きっととても甘いよ。それに少し酸っぱいんだ。前歯でガリッとやるときっと素敵な味が喉に流れ込んでくるはずさ)
(あぁ、素晴らしいね。きっとその素敵な味で僕ら二匹がお腹いっぱいになってもまだ余るよ)
(誰かに見つかる前に、早く落ちないかなぁ)
 そんな風なことを話しているように、少女には思えた。
 この絵をじっと見つめていると、絵の中の風景がまるで眼前に広がっているかのようにその姿を想像できる。
太陽は空高く、一筋の雲が良く晴れた空に彩りを添えている。
午後の陽気、と言ったところだろうか。
 きらきらと睫毛にあたって弾け、思わず目を細めたくなるような陽の光。
空に浮かぶ綿ぼこりのような雲は、広がり、縮み、くっついて離れながら大空を横切って行く。
彼らが太陽の前を通り過ぎる時、今まで辺りを柔らかく照らしていた陽光が一時翳る。
淡い雲達が、その消え行く靄のような体でもって、ちらと太陽に薄い幕をかけるのだ。
 薄雲と言えどその身体の厚みにもとりわけ薄いところとそれなりに厚いところがある。

30 :No.08 ある風景の絵 2/2 ◇7BJkZFw08A:08/02/10 00:01:49 ID:O/Da0CZZ
うららかな風に吹かれてたなびきながら、薄雲は光を巧みに操りながら空を泳いでいく。
淡く、強く、幻燈のようにぼやりとした光を優しく投げかけるかと思えば、刺すような光の筋を強く焼きつけてくる。
影もそれに応えて薄くなったり濃くなったり、光のなかでゆっくりと揺れる。
そのうち薄雲はどこかへ飛び去って行き、空はまた、青く透きとおった空へと戻る……
 ふと少女は、丘の向こうにぽつっと見える水色を見つけた。
湖だろうかと少女が目を凝らして見ると、淡い水色のその周りに木立らしき緑色が見える。
あちら側から吹く風のはらむこの涼やかさは、湖の上を通って来たからなのだろう。
 丘の上に登ったらあの湖が見えるだろうか。
深緑の木立に囲まれた湖は、陽の光をその水面に揺らめかせながらじっと佇んでいるのだろう。
訪れるものと言えば草原を駆ける風と差し込む太陽の光だけ。
明け方に木立の周りに朝の香りと霧を捲き、昼は光や風と戯れ、夜は静寂を楽しみながら浮かぶ月をその身に映す。
そうしてあの湖は、ずっとそこにあり続けるのだろう。
 風の匂いが鼻をかすめたような気がして、少女はすっとまぶたを閉じた。
そよそよと吹く風が少女の体を撫でて飛びまわっているような気がする。
暖かな風は優しく、柔らかに歌いながら丘を駆ける。草や木はさらさらとそれに応え、合唱が始まった。
 風は時に弱く、時に強く吹いて調子をつけ、歌い手たちを導きながら自らもそのうららかな歌声を辺りに響かせる。
ひゅう、ざわざわ、ひゅう、さらさら。
歌は調子を帯びて、木の葉をひらひらと舞い散らせながら激しくなり、ざざざっと最後のフレーズを響かせ、そして、止んだ。
 少女は目を開けた。
はらはらと歌の終わりに遅れた木の葉が舞い踊り、ひそやかなアンコールに応える。
地面に落ちた木の葉達を、役目を終えた役者が舞台にとどまりつけることは無粋だと言わんばかりに、渦を巻いた一陣の風がどこかへ連れ去っていく。
 辺りには再び柔らかな静寂が訪れた。
 少女はほぅ、と溜息をひとつついた。この上なく満ち足りた心が、自然と顔を綻ばせる。
少し長居し過ぎたような気がして、少女は名残惜しくも目の前の風景に背を向けた。
振り向いた少女の目の前に広がっていたのは、それまで心に描いていた、なだらかな緑の草原と心地よく吹く風……

 その絵は美術館の片隅、誰もが見過ごしてしまうような、そんな隙間に飾られていた。
どこかの風景と、ある一人の少女を描いた絵のようだった。
それはとても古い絵だった。題名はない。誰が描いたのか、それもわからない。
しかしその絵はずっとその美術館に飾られ続けていた――――                       完



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