【 赤く染まったスケッチブック 】
◆pxtUOeh2oI




19 :No.06 赤く染まったスケッチブック 1/5 ◇pxtUOeh2oI:08/02/09 23:55:57 ID:9vfIfcC3
 冬の夜、日付の変わる頃に、少女が帰宅した。年は10代後半、薄茶色の髪を肩まで伸ばし、
寒そうな短いスカートの制服を着ている。どこにでもいるような少女だった。
 乱暴に靴を脱ぎ捨てた少女の冷たい目に、廊下の奥で、薄く曇ったガラス張りの扉から漏れていた明かりが映った。
少女の足取りが重くなる。ゆっくりと扉を開け中に入ると、彼女の想像通り怒った顔の母親が、
ダイニングの椅子にカーディガンを羽織って座っていた。テーブルのカップにはコーヒーを飲んだ後、
ずっと待っていたに違いない。
「美奈。こんな時間まで何をしてたの?」
 沈黙。薄暗く静かな部屋に規則正しい時計の音だけが伝わる。
母の言葉を無視し美奈は冷蔵庫から、牛乳を取り、コップに注いだ。
「人の話を聞きなさい。お母さんは美奈のことが心配で」
 勢いよく閉められた冷蔵庫の音が、母の言葉を遮った。注がれた牛乳が揺れ、コップから溢れる。
「私に干渉しないで! どうせ世間体が気になるんでしょ!」
 美奈が叫ぶ。母が立ち上がり美奈の頬をはたいた。乾いた音が響き、すぐに消える。
美奈は張られた頬を押さえ自分の部屋へと駆け込んだ。
 彼女はそのまま、ベッドにもぐり込み、子供の頃から大事にしている白いアザラシのぬいぐるみを抱きかかえ呟いた。
「どうせ、私の気持ちなんかわかんないんだ……」
 美奈の涙が抱えるぬいぐるみをじっとりと濡らす。
その涙が乾き、どこに落ちたのかわからなくなった頃、美奈は眠りについていた。

 鳥の鳴き声、揺すられた木々が発する葉音、体に伝わる地面のうなり、地下水の流れる音だろうか? 
美奈は辺り一面を木に囲まれた深い森の中で、眠りから目を覚ました。着ていた制服には土が付着し、
足もとの履きなれた靴は、少しくたびれ汚れていた。
「ここは……どこ?」
 顔や服についた、土を払い落しながら、周りをぐるっと見回す。木しかない。
さまざまな形の葉っぱを生い茂らせた、いろいろな種類の木々が隆々と立ち並んでいた。
 美奈はとりあえず、歩き始めた。目を凝らした様子で、地面を良く見ると、
草の部分と土の部分が、すこし曖昧ではあるが分けられていた。これが道ならば進めば人にあえるかもしれない。
 二十分ほど歩いただろうか、彼女の耳に動物、犬らしき鳴き声が聞こえた。野犬ならば注意しなければ、
彼女が体を緊張させると、後からかわいらしい子供の歌声も響いてきた。体の力が抜ける。
 美奈は、少し早足で歌声のするほうに近づいた。

20 :No.06 赤く染まったスケッチブック 2/5 ◇pxtUOeh2oI:08/02/09 23:56:29 ID:9vfIfcC3
 日の当たった木の下に犬がいた。大きくて眼光の鋭いシベリアンハスキー。
その横では、歌っている板が浮いている見えた。良く見ると、板には手が掛かっており、下から小さな足が伸びていた。
木に寄りかかって座っているようだ。ひょいと横に飛び出した小さい手には筆、
絵を描いているのかもしれない。筆を持った手は、何かの容器に一度、筆を浸して、またすぐ板の陰に隠れてしまった。
 犬が美奈に気付きワンと吠えた。その声に板の陰の小さな主人も彼女に気付いたようだ。歌が止む。
「お母さん?」
 少年とも、少女ともつかない、何かを期待したような声。板がしゃべってるようだった。
美奈は、少年を怯えさせないようにするためか、ゆっくりとやさしい声で言った。
「ごめんね、違うの。うん、お母さんじゃない……です」
「あ、ごめんなさい。どちらさまですか? 僕に何か御用ですか?」
 男の子のようだ。板から顔を出さずに少年が言った。持っていた筆を置いたが、その様子は少したどたどしい。
「気がついたらこの森にいて、迷っちゃったみたいなの。ここ、どこか教えてもらえない?」
「ここは、カイセキの森です。お姉ちゃんはどこから来たの? インテグ村の人?」
 耳慣れない地名を聞き取れなかったのか、美奈は少し動揺した様子で言った。
「私の家は、桜上水なんだけど……知ってる?」
「サクラジョウスイですか? ごめんなさい、聞いたことないです。僕、この森から出たことがないんです」
 少年の声は弱々しい。美奈が少年は悪くないというように、明るい声をだした。
「きっと関係ないよ。私も村の名前とかわからなかったし。それ、絵を描いてるの?」
 美奈が、少年の肩から掛かった画板を陽気に覗きこむ。板に載せられたスケッチブックは赤く染まっていた。
「えっ」
 すっとんきょうな声を出した美奈、スケッチブックから少年の方へ顔を移し、さらに声を上げそうになっていた。
 やわらかそうな革帽子から伸びる白い髪、その下で少年の目は閉じられていた。
 固まる美奈の様子を察したのか少年が慌てて言った。その隣で犬が美奈を睨みつける。
「あ、ごめんなさい。僕、目が見えないんです」
 瞼に力が入っている様子はない、言葉の通り目が見えないのだろう。
「僕はトーマ・リクスと言います。この子はルトン!」
 わん! とルトンと呼ばれた犬が答える。その大きく迫力のある声に美奈は少し後ずさりしつつ言った。
「私は美奈、よろしくね」

21 :No.06 赤く染まったスケッチブック 3/5 ◇pxtUOeh2oI:08/02/09 23:56:54 ID:9vfIfcC3
 美奈の自己紹介に、心なしかトーマの顔がほぐれる。話相手が欲しかったのかもしれない。
「ねえ、目が見えないのに、絵が描けるの?」
「はい!」
 トーマが先程までとは違う明るい声で言った。そんなトーマに美奈が不思議そうにたずねる。
「周りに何があるかわからないんだよね? たとえばどこに木があるとか」
「なんとなくわかります。ルトンの声とか、あとあの、はずかしいけど僕の歌とかが響くので」
「へ〜すごいね」
「それにお母さんが来た日は、木や葉っぱにさわったりしてます」
 トーマが銀色のルトンの背中をなでながら、言った。ルトンは気持ちよさそうな顔で軽く鳴く。
 美奈はトーマの言葉を聞き、何か少し考えているようだった。しばしの間の後、美奈は妙に明るい調子で、
トーマの持つスケッチブックを指差し聞いた。もちろん、その指はトーマには見えないが。
「スケッチブックの赤……えっと、これは、何で描いてるの?」
 赤く染まったスケッチブック。美奈は、目が見えるのならば伝えられるはずの色を使わずに、
なんとか言いたいことを伝えようとしていた。
「だいじょぶです。僕の絵が赤い色だというのは知ってます。色というものがどういうものなのかはわかりませんけど」
「じゃあ聞くけど良い? この絵、一面、赤いけど何か意味があるの?」
 それでも少し戸惑いがちな美奈の問いに、トーマは隣に置いてある赤い絵の具の入ったべこべこの容器を持ち答えた。
「この絵の具は、銅の粉をにかわと水にまぜた物を使ってます。乾くと、紙に銅のつぶつぶがくっついて、
さわってわかるようになってます。この銅の粉が赤い色らしいです」
 美奈が絵を見ると、確かにうっすらと赤い絵が盛り上がっているのがわかった。かすかに金属の匂いもする。
「さわってみて良い?」
 そう言いながら、美奈が赤い絵にそおっと指を伸ばした。
「バウガウワウ!」
 突然、ルトンが吠えた。思わず手を引き、しりもちを着いた美奈。派手な音が辺りに、こだました。
「ルトン!」
 トーマがルトンをなだめる。ルトンは自分は悪くないとでも言いたげだったが、すぐに静かになる。
トーマはルトンをなでながら、音のした方を向いて言った。
「だいじょぶですか? すいません。まだ乾いてないからさわっちゃダメなんです」
「大丈夫。ちょっと痛いけどね……」
 そう答えた美奈の格好は、もしトーマの目が見えていたら、青いパンツが丸見えであろう体勢だった。

22 :No.06 赤く染まったスケッチブック 4/5 ◇pxtUOeh2oI:08/02/09 23:57:12 ID:9vfIfcC3
「僕の家に来てください。前に描いた物がいっぱいあります」
 トーマは、茂みの中から杖を取りだし、画板と絵の具入れを持って立ち上がった。やわらかそうな布地の服が揺れた。
ルトンは、トーマの後を追うようにのっそりと体を起こす。美奈も立っておしりについた草と土を払った。
 先頭はルトンだった。ときどき後ろを振り返りながら、ゆっくりと足を進めた。
トーマは、杖よりもルトンの足音を頼りに進んでいるようだ。美奈はできるだけ静かに続く。
「話してもだいじょぶですよ」
 黙って歩く、美奈に気付いたのか、トーマが言った。ルトンが振り返り鋭い目を光らせ美奈を見る。
「そ、そう? あ、ルトン、カッコイイね。大きくて、トーマを守る戦士みたい。女の子にモテそうだね」
「ルトンは女の子なんです」
 トーマの予想外の返事に美奈は言葉が詰まる。何か文句ある? とでも言いたいのか、ルトンがさらに美奈を睨んだ。
 ルトンが吠えた。美奈にではない。トーマの家に着いたようだ。道を少し外れた木々の影に小さなログハウスが見えた。
 「どうぞ」
 トーマが扉を開けた。中に入ろうとした美奈の足元を、ルトンがするりと抜ける。
「結構、広いねー」
 整えられた静かな家の中で美奈が言った。美奈は何か迷っている様子だったが、表情を硬くしトーマに聞いた。
「トーマの家族は……仕事?」
 静かだった。森の音が聞こえるくらい。ルトンがトーマに寄り添うように近づいた。美奈の顔がこわばる。
「家族はインテグ村に住んでます。お母さんは、たまに来てくれます」
 申し訳なさそうに言う、トーマ。美奈は何か言おうとしたが、トーマは続けた。
「だいじょぶです。僕にはルトンがいます!」
 トーマがルトンのもふもふとした体に抱きつく。トーマの愛らしい笑い声が部屋に響いた。
「絵は奥の部屋の机の上に置いてあります」
 言われるがまま、美奈は奥の部屋に行き、机の上に並べられた絵をひとつ手に取った。全てあの赤い絵だった。
「これはさわってもだいじょぶです」
 トーマの言葉に、美奈はおそるおそる指を近づける。ルトンは吠えなかった。
「わかりますか?」
 トーマが聞いた。美奈は何度もなぞったり、目をつむってみたりした。繰り返し絵をさわってみた。
「ごめん、わからない」
 それでも美奈にはわからなかった。ルトンの悲しげな声が部屋を包む。

23 :No.06 赤く染まったスケッチブック 5/5 ◇pxtUOeh2oI:08/02/09 23:57:35 ID:9vfIfcC3
「しょうがないです」
 トーマが残念そうに言った。目の見える人でわかった人はいないらしい。
「ごめんね……」
 美奈は涙を流していた。なぜ涙が出るのか、自分自身でもわからないようだった。
「泣かないでください」
 美奈の顔が見えないはずのトーマが言った。
「なんでわかるの? 目が見えないはずなのに。私よりずっと子供なのに」
「わからないから、考えるんです。耳で聞いて、手でさわって、相手のことを、色々なことを考えるんです」
 トーマが涙で濡れる美奈の頬に手を添えた。ゆっくりと、そしてやさしく、トーマは美奈の顔をさわった。
「ありがとう」
 美奈が言った。彼女の頬にさわる、トーマの冷たい手の感触。美奈は知った、これが夢であると。
「お別れだね」
「だいじょぶです。いつでも会えます」
「うん、また来るよ。ばいばい」
 ルトンの遠吠えが聞こえた。またね。そう言っているようだった。

 ベージュのカーテンから漏れる朝日の光、美奈は、少し濡れた白いアザラシのぬいぐるみを抱いて、
自分の部屋のベッドの上で目を覚ました。
 夢を見ていた。けれどもそれがどんな夢かは良く覚えていなかった。ぬいぐるみの顔が冷たく感じる、泣いていたのだろうか。
 ドアノブに手を掛け部屋から出た美奈、テーブルには、ごはん、味噌汁、目玉焼き、湯気をたてた朝御飯がきれいに並べられていた。
冷蔵庫から牛乳を取りだし、コップに注ぐ。美奈が席に着くと、玄関の閉まる音が聞こえた。
 廊下から聞こえる足音、薄く曇ったガラス張りの扉が開き、新聞を持った母が現れる。
 美奈は何と言おうか考えた。色々考えた末に言った。
「おはよう」
 その声たちは、きれいに調和し光溢れる部屋に響いた。時計の音は聞こえなかった。
 <了>



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