【 アナザー・ワールド 】
◆Sound.UlVY




92 :No.22 アナザー・ワールド 1/5 ◇Sound.UlVY:08/02/03 23:04:25 ID:sYxQu+th
 俺はいつ壊れてもおかしくないぐらい錆びた階段を上がり、いつものように自分の部屋のドアを開けた。鍵な
どかけていない、どうせ取られて困るものなどこの部屋には何も無いのだ。
 二種類しかない靴の一つを豪快に脱ぎ捨てると、着ていた上着をハンガーにかけ、ベッドへと向かう。
 ベッドに倒れこもうとすると一匹の猫が俺の足元まで歩み寄り、かすれた声でニャアと鳴いた。
 「お前、また来たのか? ちょっと待ってろ、今牛乳を持ってきてやるから」
 俺はゆっくりと向きを変え、冷蔵庫のある台所へと向かった。
 さっきの猫は別に飼ってるわけではない。何日かに一度開けっ放しの窓から俺の家に勝手に上がり込み、その
度に食べ物を要求するという、なんともふてぶてしい野良猫なのだ。
 一見そんな猫に俺が食べ物をやる理由など無いように見えるが、小さい頃家の事情で猫を飼えなかったことが
ありそのせいか、なんとなく無視できないで餌をやってしまうのだ。
 牛乳を底の浅い皿に少し注ぎ込むと、それを猫の目の前にそっと置いてやる。
 それから俺は狭い部屋の大半を占領しているベッドへと倒れこんだ。
 枕の横にあった――いつからそこにあったのだろう――かなりの臭いを発している靴下を猫にかからないよう
に投げるとゆっくりと息を吐いた。
 今日も、いつもと何ら変わりない一日が終わりを告げる。まだ九時前なのだが、俺がやることはもう何もない。
あるとしても、それは天井を見つめながら今後の身の振り方を考えることぐらいだ。
 大学に通うも、これから何をしたいという大きな目標があるわけでもないし、母は専業主婦で父も普通のサラ
リーマンの間に生まれた俺には継がなければいけないような家業も無い。
 あと半年で大学生活も終わりを告げようとしている。どうしたものか?
 俺はなんとなく考えるのが嫌になって、残り少ない牛乳を熱心に舐めていた猫に声をかけた。
 「なー、お前もそう思うよな?」
 猫は顔を上げてこちらを向くとまるで返事をするかのように、またニャアと鳴いた
 俺はそれで満足する訳もなく、天井の方に顔を向け直した。
 「ああ、暇や退屈を感じない世界に行ってみたいよ……」
 誰に言うわけでもなく小さく呟くと、俺は部屋の電気を消し目を閉じた。俺の視界は闇に飲まれ、意識もだん
だん遠のいていく。
 ――声が聞こえた。その声は低く落ち着いていて、少しかすれていた。
 「お前は退屈しない世界へ行きたいか?」
 夢、か。俺は直感的にそう感じ取ると、顔も見えない声に向かって答える。
 「ああ、こんなつまらない日常を繰り返すのはもう飽きた」


93 :No.22 アナザー・ワールド 2/5 ◇Sound.UlVY:08/02/03 23:05:09 ID:sYxQu+th
 「なら、その願い叶えてやろうか?」
 本当か? 俺がそう言う前に、また声が聞こえた。
 「ただし、この条件をのめばの話だが……」
 「条件?」
 どうせ夢なんだ、なら条件無しでいいじゃないか。どうして俺の頭はこうくだらないところでリアリティーを
求めるのだろう? 困ったものだな。
 俺の考えなど無視するかのように、かすれた声は続く。
 「悪魔みたいに魂を差し出せなんてことは言わない。そう、もっと簡単なことだ。
一つ、もう一つの世界に着いたとき、その世界の存在を疑わないこと。
一つ、『暇』『退屈』この二つの単語を口に出さないこと。
これだけだ。どうだ、簡単だろう? そうすれば、こことは違うもう一つの世界に連れて行ってやるよ」
 俺は迷うことなく返事をした。 
「ああそれぐらいの条件ならのむよ。どうすればそのもう一つの世界とやらに行けるんだ?」
 顔は見えないが、声の主がかすかに笑ったような気がした。
 それから声は聞こえなくなり、俺の意識は完全に途絶えた。
 ――まぶしい。カーテンのない窓から入り込んだ朝日が顔にあたっているのだろう。
 またあの汚い部屋が視界に入り、また退屈でくだらない日常が始まるのか。
 そう思い、俺は体を亀のように起こすと、重い瞼をゆっくりとあけた。
 しかし、視界に入り込んだのは想像していた景色ではなく、むしろ百八十度違うものだった。
 俺の部屋の三倍はゆうにあるであろう部屋。その床を全て覆いつくしている、クリーム色の絨毯。白い壁の大
部分を占める巨大な窓。その窓の両脇にある赤の布地に金色の糸で優雅な曲線が描かれているカーテン。部屋の
隅には今までに見たことのないような木で作られた漆黒の立派な机。よく見るとベッドも違う。いつものやつと
違い大人が四人乗ってもまだ余裕があるほどの広さを持つベッドへと変わっていたのだ。
 「おはよう。気分はどうだい? 旦那」
 あのかすれた声が聞こえた。声のした方を向くと、黒いスーツ姿で少し渋い顔の男が立っていた。
 「あ、ああ。いい気分だけど……あんたは何者だ? あれは」
 夢じゃなかったのか? その言葉を言おうとしたとき俺は彼の言った条件、つまり『ルール』を思い出し、
その言葉を飲み込んだ。
 その様子を見ていた男はにやりと笑った。
 「どうやら条件を忘れていないようだな。なら心配はない、この世界をたっぷりと楽しんでくれよ」

94 :No.22 アナザー・ワールド 3/5 ◇Sound.UlVY:08/02/03 23:05:27 ID:sYxQu+th
 それだけ言うと、男は俺の呼びかけも無視し、背を向けてこの部屋に似つかわしい豪華な装飾が施された扉か
ら出ていった。その後、男と入れ替わるようにメイドの格好をしたかわいらしい女性が朝食らしきものをのせた
銀色のワゴンを押して部屋に入ってきた。
 俺がその女性と簡単に朝の挨拶をすると相手も簡単な挨拶を返し、朝食の準備をし始めた。聞いてみたところ
俺の朝食だそうだ。
 俺がその食事を食べ終わるまで先程の女性が微笑みながらすぐ隣に立っていたので、味はよくわからなかった
がおそらく、いつもの俺なら驚くほどの味がしたのだろう。
 俺が食事を食べ終わると、女性は食器を片づけ部屋を出て行ってしまった。
 その後も何回か人がこの部屋を出入りし、俺に服などを持ってきてくれた。
 その流れで俺にはわかったことは二つ。
 ここの人たちは俺のことを旦那と呼ぶこと。後はこの世界で俺は神のような存在であること。実際二人ぐらい拝
んで帰っていったしな。
 さて、どうしたものか?
 俺は部屋に置いていかれた服を着ながら考えた。しかし、いくら考えても答えは出てこない。
 服を全て着ると、俺はゆっくりと部屋を出た。考えるより、この目で確かめた方が早いと感じたからだ。
部屋の外に出てみるとそこは映画に出てくるお屋敷のようだった。白い壁に等間隔で設置されている燭台、部屋
とは違った朱色の絨毯が一杯に敷き詰められている廊下を俺はゆっくりと歩いていく。
 その間、何人かの使用人に深々と頭を下げられたのは言うまでもない。
 俺は屋敷を出ると、ゆったりと街を回る。空の色こそ青色だが、そこはあからさまに住み慣れた世界とは
違った。家はキノコの形をしており、道は若草色でふわふわしていて歩きにくい。街を歩く人は男女問わず信じ
られないほど綺麗な人ばかりで、思わず二度見してしまうほどだ。
 「あら旦那さん。お暇なの? なら私とゆっくりお茶しない?」
 など、人生に一度でも聞ければいいと思っていた言葉を何人もの女性から何度となく言われた。何回か
 「もちろん暇です! 何所までも一緒に行きましょう!」
 なんて言いそうになったが、すんでのところで男の言葉を思い出す。
 この世界で俺は『暇』と『退屈』は口にしてはいけない。彼女達といたら、会話の中で自然と使ってしまいそ
うなので、やんわりと断り続けている。もったいない気もするが、これがここで暮らすための『ルール』だ。
 「旦那、なかなかいい調子じゃないか」
 「あ、あんたか。まあ、何とかね」
 いつの間にか俺の横を歩いていたかすれた声の男が直ぐ左にある店を指差す。

95 :No.22 アナザー・ワールド 4/5 ◇Sound.UlVY:08/02/03 23:05:47 ID:sYxQu+th
 「あの店の魚料理がうまいんだ。どうだ、一緒に食わないか?」
 時計がないのでどれほど時間がたったのかわからないが、正直腹は減っていない。俺が首を横に振ると男は肩
をすくめてみせた。それからまたしばらくすると男はふらりとどこかへ行き、棒に刺さった得体の知れない物を
二つ持ってきた。




 「なんだこの臭い?」
 「この世界の食べ物さ。においは最悪だが、一度食うと病み付きになるぞ」
 そう言うと男は俺に一つ渡してくれた。流石に断れないので、一口だけ食べることにした。
 俺は異様な臭いを発する食べ物にかぶりつく。一口で止める予定だったのに、予想以上にうまく結局俺はリン
ゴ一個ぐらいあったものをすっかり食べきってしまった。
 その様子を見ていた男は満足そうに言った。
 「どうだ? 食いだしたら止まらなくなっただろう?」
 俺が短く返事を返すと男は楽しそうに言った。
 「だろ? 『ルール』さえ守れば旦那はこの世界にずっといられる。この世界にいればずっとうまいものを
食べられる」
 「確かにそれはいいかもな。でも、あの臭いはひどいよな」
 俺は笑いながら続ける。これからもここで暮らせる、そう思うと笑いがこみ上げてきてしょうがなかった。
 「あの臭い、俺の部屋にあった靴下並みに臭かったもんな。『謎の食べ物対靴下』どっちが勝つかな?」
 俺の言葉を聞くと、男が急に歩くのを止めた。俺は不思議に思い男の方を見ると、男は複雑そうな顔をして
立っていた。
 あたりを見回すと、先程まで笑顔で歩いていた人たちも足を止め、俺の方をじっと見ている。
 まるで、先程の笑顔が嘘のように何の感情もない表情で……。 
 俺はもう一度、男の方を見た。男はゆっくりと口を開き、言った。

96 :No.22 アナザー・ワールド 5/5 ◇Sound.UlVY:08/02/03 23:06:09 ID:sYxQu+th
 「……旦那は『ルール』を破った。もうこの世界にはいられない。残念だが、さよならだ」
 「お前、何言ってんだよ! いつ俺が約束を破った!?」
 そうだ、俺は『ルール』を破るようなことはしていない。これは何かの間違いだ。そう訴えようとした時俺の
足元の地面が急に沈みだし黒に染まりだした。足を抜こうにもすでに埋まってしまい、動かない。
 男は道に飲まれていく俺を見つめている。
 「いや、あんたは間違いなく『たいくつ』という言葉を口にした。もう一度自分の言ったことを思い出してみな」
 俺は体がすっかり道に飲まれると、薄れゆく意識の中で必死に考えた。
 俺がいつ、『ルール』を破った? いつ『退屈』なんて言葉を使った?
 しかし、考えても答えは出てこない。そうこうしているうちに、俺の意識は完全に闇にのまれた――。

 次に俺が目を覚ますと、そこにあったのはいつも通りの狭く、汚い部屋と、その片隅にこちらを見たまま座る
あのふてぶてしい野良猫だけだった。
 野良猫は俺が起きたのを見ると、かすれた声でニャアと鳴いた。

【完】



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