【 知恵の果実と楽園の境界 】
◆rmqyubQICI




83 :No.20 知恵の果実と楽園の境界 1/4 ◇rmqyubQICI:08/02/03 22:59:11 ID:sYxQu+th
 夕暮れ時。夕日が木々の緑を赤く染め、ひぐらしの声がかなかなと響き渡る頃。
 少年はひとり、山道を歩んでいた。ただただ俯き加減で、踏み固められた土の上を延々
とゆく。その表情に浮かぶのは、十歳の少年にはどうしようもない、若い感情の波。芽生
え始めたささやかな反抗心、そして、ついに抱いてしまった社会への不信感が、彼をいつ
になく苛つかせていた。

 きっかけはごく些細なことだった。「元来、人間は自由なものです」という、彼の担当
教諭の言だ。
「そんなこと言ったって、俺たちが自由なわけないじゃないか。
 毎日制服を着て学校に来なきゃいけないし、授業中は席から動くこともできない。毎年
冬になったらマラソン大会なんかに出なきゃいけないし、給食を残すのも駄目。
 これのどこが自由だっていうんだ。大人は大嘘つきだ!」
 昼休み、熱弁をふるう彼に、クラスメイトたちは盛大な賛辞を送った。ある者は「その
通りだ!」と叫んで返し、ある者はうんうんと頷いて、またある者は激しく両手のひらを
打ち合わせる。そのとき彼の心につのったものは、一時の高揚感だけではなかったに違い
ない。
 帰宅後、少年は居間で書き置きを見つけた。彼は祖父と二人暮らしであるから、書き置
きの主はすぐにその人と分かる。二つ折りされたその紙には、祖父の文字でこう記されて
いた。
『今夜は遅くなる。夕飯には昨夜のカレーの残りを。くれぐれも柵の向こうへは行かない
ように』
 寡弁な彼の祖父らしい、いつも通りの書き置き。いつもならば少年のささやかな反抗心
は夕飯を食らう間に冷め、帰ってきた祖父をいつも通り笑顔で出迎えていただろう。しか
し、今日は違っていた。書き置きの紙をぐしゃぐしゃに丸めて床に叩きつけると、少年は
玄関から走り出したのだ。
 彼の行き先は始めから決まっていた。書き置きにもあった、日頃から決して越えるなと
言いつけられている柵のところだ。越えてはならない理由というのは、その向こうの山林
は大人でも迷いやすく、昔から幾人もの行方不明者を出しているため、ということだった。

84 :No.20 知恵の果実と楽園の境界 2/4 ◇rmqyubQICI:08/02/03 22:59:42 ID:sYxQu+th
 もちろん、少年もそのことは知っていた。彼が気に食わないのは、どうして越えてはな
らないのかと尋ねたときの、祖父の返答だ。「お前のためだ」と、決まってその一言。大
人が不完全だと知ってしまった少年にとって、これは受け入れがたい言葉だった。
「自分の言うことが正しいと思い込んでいる大人に、一泡吹かせてやらなければならない」
 彼の反抗心は、声高にそう訴えた。そしてついに、彼はその声に従ってしまったのだ。

 三十分も歩き続けていた少年の足が、ようやく止まった。目の前には、まるで背の低い
鉄棒を並べたような、錆びついた鉄製の柵。
 今まで近づこうとすらしなかったそれを目の前にして、少年は強烈な違和感に見舞われ
た。触れられるほど近くまで寄ってみて初めて分かったのだが、その柵は、少年の腰ほど
までの高さしかなかったのだ。
「こんなに低かったのか……」
 意識するでもなく、少年の口からそんな言葉が洩れ出した。何年間も自分を阻んできた
ものが、こんなにも小さかったなんて。
 しばらくして、少年の口角が大きく吊り上がった。その柵の高さが、まるで、大人たち
の小ささを象徴しているかのように思えたのだ。彼は柵に手をかけて、軽くそれをまたぎ
越した。そして両足が『柵の向こう側』についたとき、少年は、ついに声を出して笑い始
めた。
 大人が決めたルールの、なんと脆弱なことか。これまで近づくことすらしなかった禁忌
が、まさかこれほど簡単に破れるものだったとは。
 ひとしきり笑ったあと、少年はゆっくりと後ろに向き直り、山林の奥へと歩き出した。
入れば命を落としかねないという、大人たちの『迷いの森』へと。


 少年が柵を越えてから数時間が経った。
 珍しい植物や虫はいないだろうかと、少年らしい好奇心に導かれて奥へ奥へと分け入る
うちに、気付けば辺りはもう暗くなり始めていた。

85 :No.20 知恵の果実と楽園の境界 3/4 ◇rmqyubQICI:08/02/03 23:00:18 ID:sYxQu+th
「さすがにそろそろまずいかな……」
 少年の呟きと呼応するように、風が木々の葉をがさがさと揺らす。もう帰ろうと決心し
て、彼がくるりと進路を返したそのとき、後方の草むらががさりと音を立てた。小さく悲
鳴を洩らして振り返るも、姿はない。少年はごくりと唾を飲み込んだ。それから、集中し
て辺りの音を拾う。
 じりじりとうるさい虫の鳴き声。風で木の葉が揺れる音。そして、少し離れた川のせせ
らぎ。それら以外に目立った音がないことを確認して、少年はほっと胸を撫で下ろした。
 しかし薄気味悪いことに変わりはない。少年は来るときよりも歩調を早め、川のせせら
ぎが聞こえる方へと向かった。川を下流へと辿ってゆけば、家の近くに出ることを知って
いたからだ。
 川を見つけてから、少年はただ、ひたすら早足で歩き続けた。緩やかな下りの道を、あ
と何十分か歩けば家だ、と自分に言い聞かせながら。しかし、いくら歩いても一向につか
ない。もう何時間も歩き続けているようにすら感じられるというのに、周囲の風景はほと
んど変わらないのだ。
 ここに至って、彼の脳裏にいくつかの疑問が浮かんできた。
 本当にこれでいいのだろうか。本当にこれで帰れるのだろうか、と。
 がさり、と薮が立てた音に、少年は小さく飛び上がった。おずおずとそちらを見遣るも、
やはり姿はない。少年はぶるりと身を震わせた。そこに何か得体の知れないものがいるよ
うな気がして、恐ろしくなったのだ。
 早くここから出たい。少年は強く願ったが、彼の幼い体力は、そろそろ限界に近づいて
いた。足がどんどん重くなってくる。もう歩きたくない。そして、彼は考えてしまった。
もしここで歩けなくなったらどうなるのだろう、と。
 その瞬間、恐怖が彼の体を支配した。足から力が抜け、膝がかくんと折れる。力なく地
面に座り込んだ彼の目から、涙が筋になって溢れ出す。
 それでも、彼の反抗心はきっと、こう訴えたに違いない。
「それもこれも大人のせいだ。大人が嘘をつくからこんなところに来てしまったのだし、
ここから出られないのも奴らのせいだ」
 しかし、少年はこの状況でそんなことを考えられるほど肝が座っていなかったし、それ
ほど頭が弱くもなかった。
 本当に自分が間違っていないと思うのなら、あのとき担任に直接問い質しただろう。

86 :No.20 知恵の果実と楽園の境界 4/4 ◇rmqyubQICI:08/02/03 23:00:37 ID:sYxQu+th
 祖父のことだって、絶対に自分が正しいと信じるなら、真っ向から論じ合えばよかった
のだ。
 少年はようやく、自分の弱さに気付いた。祖父の答えの正しさも、その優しさも、彼は
ついに理解した。
「じいちゃん、助けて!」
 力の限り、少年は叫んだ。助けて、助けて、と、祖父への謝罪にかえて、ただ素直に。
そして、助けを求める彼の泣き顔を、強い光が照らし出した。
 眩しい光に目を細めながら、少年は、確かにその影を見た。大型の懐中電灯を片手に、
こちらへ駆けてくる男の姿。安心でも涙は流れるものなのだと、このとき、少年は初めて
知った。


 少年は山道を歩んでいた。祖父の広い背に負われて、揺られながら。
「じいちゃん、ごめん」
 少年の謝罪に、祖父は無言で頷いた。そして短い沈黙のあと、少年がふたたび口を開く。
「先生がね、言ってたんだ。人間は自由なんだって」
 なのに、なんでルールなんてものがあるんだろう。そう続けようとした少年の言葉は、
祖父の言に遮られた。
「自由だからだ」
「自由だから……?」
「自由でなければ、お前はあんなところへ行けなかっただろう」
 祖父が言い終えて、ふたたび沈黙が訪れる。寡言を徳とする男のこと。少年に問われた
として、もう「自由だからだ」としか返さないだろう。だから少年はなにも聞かなかった。
それに、何を聞く必要もなかった。
 心地よい揺れが、少年を眠りへと誘う。彼をとりまくものの優しさを噛み締めながら、
少年は深いまどろみの底へと沈んでいった。


  了



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