【 取替え子 】
◆VZpO0svMyk




79 :No.19 取替え子 1/4 ◇VZpO0svMyk:08/02/03 22:56:28 ID:sYxQu+th
 女学校はいつも静かだった。生徒たちはお喋りせず押し黙って移動した。廊下を擦るようにゆっくり歩き、
やわらかな革靴は音を吸収した。彼女たちは厳しい規律の中で過ごしており、日々の生活から服装に
いたるまでことこまかく指定されていた。皆髪をかたく一つに結い上げ、毎日毎日同じ服を着ていた。
その服は入学時に一枚だけ支給されて、卒業するときまでそれを着続けることになるので、生地は
擦り切れないように分厚くゴツゴツしており、汚れの目立たないように濃い藍色で染められていたが、
毎日着続ければそれでも少しやわらかく色も落ちるもので、年長の者と年少の者は服装でそうと知れた。
 彼女たちは朝に夕に同じ文言を暗誦する。
 ……静寂をもって 和をなす
 わが心に問へば 自ずからその由明らかなり……
 入学して二年になる八木は自分の唇と喉が震えて言葉を紡ぎ、皆の声と唱和するのを耳で聞いていた。
それきり一日中、口を利くことは禁じられる。初めはその沈黙も辛かったが二年もすれば慣れて、今では
暗誦するときの自分の声を耳慣れないように思うくらいになった。
 だが斜め前に座っている、今年入ったばかりの少女は、八木がそうであったようにまだこの沈黙に慣れて
おらず無意識に足が揺れていた。眺めていると気付いた教官がやって来て、ピシリと少女の脇で床を一回
鞭打つことで「立て」と命じた。少女が立ち上がると教官は彼女の両足を鞭打ち、そしてまた床を打ち
座ることを許可した。彼女の足が徐々に蚯蚓腫れを浮かび上がってくるのが見える。泣いていなかったが、
彼女の肩はそれからしばらくの間ずっと震え続けていた。ここでは不注意は怠惰の罪として厳しく処された。
 教室の中だけでなく廊下でも監守たちがその行動を見張っている。決して音を立ててはいけない。彼女たちは
ゆっくり歩き、なるべく足音を立てないように靴底を廊下に擦り付ける。監守の前ではいつも緊張していたこと、
あるとき緊張のあまり転んでしまったことを思い出しながら八木が歩いていると、そのときピシリと音を立てて
鞭が鳴った。
 ハッと顔を上げると監守が立っていた。何のための処罰か分からず惑っていると、監守が鞭の先で八木の
左の革靴を指した。革靴の紐が解けていた。八木はしゃがみ靴紐を解き、靴と靴下を脱いだ。素足をさらすと
監守がそこに鞭打った。鞭の先が小指に当たり思わぬ痛さに声を漏らしてしまった。監守は八木の唇を
つねった。だがその後八木は沈黙を守り動かなかったので、懲罰はそれで終わった。監守は去り、八木は
ゆっくりと血のにじみ始めた素足に靴下を付け靴を履き靴紐を結び自室に戻った。自室に戻って靴下を
脱いで仔細に見ると指の爪が剥がれかけていた。その晩ゴツゴツとしたシーツとカバーのの陰でこっそり
八木は泣いた。

80 :No.19 取替え子 2/4 ◇VZpO0svMyk:08/02/03 22:56:56 ID:sYxQu+th
 その明け方、まだ暗いうちに八木は目を覚まし、枕の上に一粒の砂を見つけた。それは八木が泣くと決まって
枕元に落ちているもので、何となく彼女はそれを集めていた。同室者を起こさないようにそっと机の引き出しを
開いて小さな瓶を取り出し、瓶を揺すると溜まった砂粒がさらさらと音を立てて崩れ、白々と明けてきた光を
受けて雲母のような光沢を放っていた。八木は今までこれが何か分からなかったが、もしかして涙が凝り
固まって出来た塩の粒ではないだろうかと思い舐めてみた。粒は果たして刺すような辛さの塩味を残して
舌の上で溶けた。
 ふと八木はぴちゃぴちゃという水音を聞いて寝台から立ち上がって部屋の外に出た。するとそこには
小さな森広がっていた。傍には池があり、ぴちゃぴちゃというのはその水が石にぶつかっては立てている音だった。
「誰かいるのかい?」
 女の声にはっとして八木が見遣るとそこには一人の若い女が立っていた。顔は日に焼けて赤く、体は
細身ながらしっかり肉が付き、目はすばしこかった。何より八木に奇妙に映ったのはその服装で厚手の
膨らみのあるスカートとエプロンも身に付け、履き古したブーツを履いていた。服は繕ってあるものの、
それでもあちこち破れたり染みや汚れがそのまま残ってあったりした。若い女は不思議そうにしげしげと
八木を見ていたが、やがて興味を失ったようで持っていた甕に水を汲み始めた。
「隣村から歩いて来たのかい? 随分変な格好だね。夜も近いんだ、凍えちまうよ」
「いいえ。私はそこから来たの」
 と八木は振り返って指さしたが、そこには鬱々とした森が広がっているだけだった。若い女は水を汲む
手を止め、八木に近付き、彼女が本物であるか確かめるように頬に触れた。女の手は荒れて乾いていた。
「本当に人の子かい? それともお前さんは違うところからやって来たのかい? もう日が暮れちまうよ。早くお帰り」
 女は八木の肩を叩いた。
「どうやって帰ったらいいか分からない」
「取替え子みたいなことを言う子だね、仕方ない、ついておいで」
 女は甕を持ち上げ歩き始めた。八木は立って見ていたが、何してんの、置いていくよという女の声に
彼女のあとについて歩き出した。
「あんた名前は何て言うの?」
「八木」
「ヤー……、ヤーグ? 変わった名前だね。私はサラだよ」

81 :No.19 取替え子 3/4 ◇VZpO0svMyk:08/02/03 22:57:15 ID:sYxQu+th
 森をしばらく歩くと急に視界が開けて、開墾された畑とまばらに家が建っていた。畑では一人の老人が何かを
植えており、サラを見ると声を掛けてきた。
「やあサラ、その子はどうしたんだい?」
「森で拾ったのさ」
「森の子かい?」
「そうさ」
 老人は笑って手を振りまた作業に戻った。
 サラはこじんまりとした家に入って行き夕食の準備を始めた。家には目の見えない老婆と口の利けない
子どもが一人いた。
「手伝ってくれるかい、ヤーグ?」
 そこで体験したことはすべて八木にとって驚くべきことだった。皆声高に喋り(サラはとてもお喋りだった)
彼らが歩くたびに靴底は床に当たってガタガタ音を立てた。食事はあたたかく、サラは「美味しいだろ?」と
八木に訊いてきた。子どもはスプーンをかちゃかちゃ鳴らし、最後には行儀悪く皿を舐めてサラに叱られた。
食事をしている間もその後も隣人たちが珍しがって八木を見に来た。そのたびにサラは自慢げに八木を
彼らに紹介した。
「森の池のところに突っ立ってたのさ。ヤーグっていうんだ」
「取替えっ子が帰って来たのかね」
「そうじゃないかい? だってこんな生っ白い子見たことないよ。地下かどこかに住んでたに違いない」
「何にしろ幸先がいいね、小さい人たちに贈り物をしないと」
「いやいや、そっとしておくのがいいよ。ヤーグは天からのプレゼントさ」
 八木は話を聞きながらテーブルの上でうとうとしていた。台所は騒がしかったがとても暖かかったからだ。
八木がうとうとしているのに気付くと、サラは彼女のごわごわした服の代わりに木綿の寝衣をチェストから
引っ張り出して着せ、子どもたち用の寝台で二人が分け合って眠れるように布団を重ねた。寝衣からも
布団からも薬草のような匂いがした。子どもは間もなくすやすやと寝息を立て始め、八木も眠りに就いた。

82 :No.19 取替え子 4/4 ◇VZpO0svMyk:08/02/03 22:57:35 ID:sYxQu+th
 目を覚ますと八木はいつもの寝台の上にいた。脱いだはずのごわごわとした服が身を包み、あたりは静まり返って
灰色の壁がいつもより押し迫るように四方を囲んでいた。
 教室では今年入ったばかりの少女が今日も失敗を繰り返して鞭打たれていた。彼女は目に見えて怯えていた。
午後になって彼女は教官が横を通った際にびくりとして本を机から落とした。教官はこれまでと同じように床を
ピシリと鞭打ち立つように命じた。少女は身を震わせながら何とか立ち上がったが、既に幾筋も鞭打たれて
赤くなった両足を鞭打たれると膝をついた。教官はもう一度ピシリと床を鞭打って立つように命じ、彼女はついに
泣き始めた。
「教壇の前に立って背中を見せなさい」
 教官は彼女の服を脱がせると背中を鞭打った。初め彼女は脱いだ服を握り締めて耐えていたが
失禁してしまい、床に座り込んで泣きじゃくり始めた。教官は教室の外の監守を呼び少女を懲罰房に
入れるように言った。彼女は泣き喚きながら連れて行かれた。教官は手前に座っている生徒に尿に汚れた
床を掃除させ、空気を入れ替えさせた。八木は彼女のことを可哀想だと思わなかった、八木自身が通ってきた
道だからだ。おそらくこの学校にいる全ての人たち皆がそうだろう。懲罰房は八木も最初一度入れられたことが
あるが、思い起こすだけでぞっとする、もう二度と入りたくない場所だ。そこは狭い穴倉のような場所で、入ると
両肩が壁に触れ、足は完全に伸ばすことができない。不意にそのとき八木は塩粒の向こうのサラたちを
思い出して、久方感じたことのなかった怒りを感じた。おそらくサラたちは懲罰房に入ったことなどないだろう。
 その夜八木は机の中にしまっていた瓶を塵箱に捨てた。瓶が塵箱の底に当たってカチャンと砕ける音がした。
 そのとき塵箱からぴちゃぴちゃという水音が聞こえ始めた。塵箱から水が湧き出し、あっという間に部屋は
水浸しになった。水の勢いは留まるどころかますます激しくなる。八木は部屋を出ようとしたが、既に扉の
向こうも水に満ちてしまったのか、扉は開かなかった。八木は寝台に上り一番チェストに上がったが、
間もなく部屋は天井まで水で満たされてしまった。八木は窓が水圧で破れたことに気付いてそこから外に
泳ぎ出た。外も見る限り同じように水に満ちていた。八木は空高く光を目指して泳ぎ始めた。途中で
重くまとわりつく服を脱ぎ捨てた。
 やがて八木は水面に辿り着く。陸のようなものに夢中でしがみ付いてみるとそこはあの池のほとりだった。
八木がぼんやりとしていると木々の陰からサラが現れた。サラは甕を取り落とし、八木に駆け寄っで抱き寄せた。
「ヤーグ! また帰ってきたんだね、もう戻って来ないかと思ったよ」
 泣かないで、泣かないでとサラは繰り返して八木を揺さぶったので、八木はそのとき初めて自分がずっと
泣いていたことに気付いた。
 
 終わり



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