【 海とビールと傍観者 】
◆hemq0QmgO2




75 :No.18 海とビールと傍観者 1/4 ◇hemq0QmgO2:08/02/03 22:51:31 ID:sYxQu+th
 ごうごうとうなっていた旧式の乾燥機はがだんっ、と危なっかしい音を立てて、やがて止まった。
 乾いた洗濯物を紙袋にしまって、いつもより早く家路につく。
 八月の土曜日が暮れかけていた。銭湯に隣接するコインランドリーの外は長い影と橙色とに染められていて、
暑さもいくらか和らいできている。おばさんが駆る自転車のタイヤの音、ベルの音が耳に涼しい。
自宅のアパートの前につながる細い路地を抜けると、そう遠くないどこかからカレーの匂いがした。
 何もかもにまるでとりとめがなく、いかにも東京らしい、夏の夕だった。

 電話越しの真田の声はそわそわとして落ち着きがなく、少しばかりうわずってすらいた。
「あのさ、今週の土曜日、東京に行くことになったから泊めてほしいんだけど……」
 何か事情があるような口ぶりだったが特に追及はせず、俺は了承した。断る理由もない。
「一応言っとくけど俺んちクーラーないぜ。扇風機オンリー」
「マジで?」言葉とは裏腹に、真田の声はこのあたりでようやく落ち着いた。
「もちろん、マジで」
 真田は高校の同級生で、卒業後は地元の鵠沼から横浜の大学に通っている。東京の大学に進学した俺は
何度か催された同窓会に一度も出ず、帰省もしなかった。だから真田とは卒業以来、一年以上も会っていない。

 恥ずかしげもなく「文武両道」を掲げる県内有数の進学校の中にあって、俺は完全に劣等生だった。
部活動もせず、成績は常に学年で最低クラス、酒やタバコはもちろんのこと、
鵠沼海岸で楽しげに海水浴に興じていた同級生を殴って停学処分を下されたこともある。
 劣等生には劣等生なりの世界がある、と言ったのは色川武大だが、それはたしかにその通りだろう。
世界があれば構造があり、構造があれば倫理がある。それを乗り越えようとしてこそ、人は成長していく。
 俺は自分の世界を作るほどに劣等を徹底できなかった。屈託も苦悩もバカらしいと突き放して、
つまはじき者のくせに鵠沼やそこに住む人々を本気で憎むことができず、もちろん愛することもできなかった。
 やがて家族や友人と顔を合わせるのも面倒くさくなり、俺は逃げるように東京に上った。

 真田と、彼の「いとこ」の話をしよう。
 真田幸広は野球部員だった。二年生になった頃にサードのレギュラーを奪い、しかしその夏に腰を痛めて、
野球を断念せざるをえなくなる。スコアラーや伝令役として部に残るという選択肢もあったが、
真田はすぐに退部届けを提出した。「オレにとって野球とは」真田はいくらか冗談めかした口調で言う。
「オレにとって野球とは、補佐するものでも応援するものでもなく、プレーするものでなければならなかったんだ」

76 :No.18 海とビールと傍観者 2/4 ◇hemq0QmgO2:08/02/03 22:52:11 ID:sYxQu+th
 真田と俺が初めて言葉を交わしたのは、彼が野球部を辞めた少し後、高校二年の秋頃だった。
 ある日曜日、俺はタバコを吸いながら海岸公園をあてもなくぶらついていた。
思い出すと、今でも笑ってしまう。よっぽどヒマで頭の悪い不良少年しかこんなことはしない。
 潮風の遊歩道に真田はいた。
 カメラを持って、何やらパシャパシャやっている。学校で何度か見たことのある顔だが、話したことはない。
名前も知らない。黙って脇を抜けようとするとこちらに気付いたらしく、声をかけてきた。
「おまえ、泉だろ? 二組の泉ハルオ」
 後で聞いた話では、鵠沼海岸での暴行事件以降、俺は学内でちょっとした有名人になっていたらしい。
「あのさ、よかったら一本くれない?」
 俺は無言でマイルドセブンとライターを差し出した。初めてなのか、なかなか火がつかない。
「息を吸いながら先っちょに火をかざすんだよ」
「ん、こうか? うっ」
 ごほごほと咳きこむ真田を見て、思わず笑ってしまった。煙が入ったらしく、しきりに目をこすっている。
「ああ畜生、しかしひどい味だな。こんなもん吸って何がしたいんだか」目が赤かった。
「俺はおまえが何をしたいのかわかんねえよ。つーか、誰さんだっけ?」
 すると真田は自己紹介をはじめた。野球部でレギュラーだったことや俺に話しかけた経緯、
最近は写真にハマっているということも含めて、必要以上に饒舌に、自慢げに語ってくれた。
「いやあ、泉って変わったヤツだって聞いてたからさ、ぜひ一度話してみたくて」
「俺はおまえの方がよっぽど変なヤツだと思うけど。ところで、一人で撮ってるのか?」
「いや、いとこと一緒に来たんだけど……あ、いた」
 真田の「いとこ」は、これもまた見たことのある顔だった。一年生のとき同じクラスだった、下川綾乃だ。
比べて眺めると、たしかにどこか面影がある。どちらも美男美女と言って差し支えない顔立ちだった。
「何やってんの幸広、って泉くんじゃん。知り合いだったの?」
「たった今知り合って、心の友になった」真田が軽口を叩く。
「そりゃ結構。昼ゴハンまだなら泉くんも一緒に行く? 私たちこれから行こうと思うんだけど」
「えー、こんなガラの悪いヤツと一緒にメシ食うなんて嫌だよ。オレ、綾乃と二人がいい」
「何言ってんの、心の友なんでしょ? ごめんね泉くん、昔からこーゆーヤツなのよ」
 話に割りこむ間すら与えてくれない。顔もそうだが、何より息の合った二人だな、と思った。
「じゃあ、お言葉に甘えて」

77 :No.18 海とビールと傍観者 3/4 ◇hemq0QmgO2:08/02/03 22:52:57 ID:sYxQu+th
 それからは学校の内外でたびたび二人に出くわした。しかし、会って何をするわけでもない。
学校では他愛のない世間話をし、俺はあまり口をはさまず、真田と下川のやりとりを見て笑っていた。
学校の外で会うと彼らは決まって写真を撮っていて、俺は「写真を撮る二人」をただ眺めていた。
 考えてみれば、俺はずっと、何もかもを眺めているだけだった。
 鵠沼の海を、藤沢駅前のざわめきを、二人の関係を、そしてどうしようもなくヘタレな自分自身を、
ただ眺めているだけで、結局何もしない。何もできない。それすらたまらなくなって逃げ出す始末だ。
 逃げ出す前に、大きな声で伝えるべきだった。他の誰でもなく、卑怯者の自分自身に。
「海岸公園で会うずっと前から、下川綾乃が好きだった」

 左の頬が不自然に腫れ上がった真田の顔を野方駅の改札前に認めたときは、さすがに驚いた。
「いずみー、オレ、もう、ダメかもしんない」真田は力なく笑う。
「ダメっておまえ、その顔どうしたんだよ」
「はは、ついさっき、綾乃の彼氏に、思いっきりぶん殴られました」
「はあ?」
 俺は混乱した。再会の喜びに浸る気持ちなんて環状七号線の果てまで吹き飛んでしまった。
 下川の彼氏って、真田、おまえじゃないのか?

 心身共にすり減らした真田を部屋に招き入れて、冷蔵庫からビールを取り出す。
こういう局面を打開するのは酒だ、などというマッチョ的な神話を、俺は愚直にも信じているのだ。
「ひでー部屋だな。ボロいし汚いし、クーラーはない。テレビもない」
「パソコンと冷蔵庫はある。扇風機もな。ほら、飲めよ。そんで経緯を説明してくれ」
「それよりさー、電車の中でな、みんながオレの顔をちらちら見るんだよ。なんか青春ど真ん中って感じ」
「ああ、それは来る途中に聞いた。そんで小学生に笑われたんだろ」俺は扇風機の振り子ロックを解いた。
「そう。なんで知ってんの?」
「だから来る途中に聞いたって」スイッチを入れて、風力を「強」に設定する。
 畳んだ布団の上にぐでんと横たわり、真田はタバコに火をつけた。窓を開けて、ぬるい風を部屋に送る。
「おまえ、いつから吸ってるんだ?」網戸の向こうの退屈な夜を一通り眺めて、振り向きざまに俺は言った。
「ついさっき。意外と悪くないな、これ」
 扇風機の「強」風に吹かれては消える煙を見ながら、よく冷えたビールを飲む。うまくもなんともない。
「マッチョな神話はあっけなく崩壊し、バカげたむなしさだけが残った」。そんな味だった。

78 :No.18 海とビールと傍観者 4/4 ◇hemq0QmgO2:08/02/03 22:54:50 ID:sYxQu+th
「なーんか、しみったれてるなあ」つぶやいて、真田は身を起こした。
 そしてビールを二口ほど飲むと、弱々しくもおどけた声で「こと」の経緯を語りはじめた。

 真田は「いとこ」の下川と付き合ってはいなかった。互いに気持ちはわかっていたが、
どうしても「いとこ」という関係がぬぐえなかったそうだ。下川も地元の鵠沼から大学に通っていたが、
一年を待たずに辞めてしまう。その理由は真田も知らない。そして今年の春に上京し、
映像関係の専門学校に通いはじめた。聞くと野方からほど近い、高田馬場に住んでいるらしい。
「専門なんて横浜にだってあるだろうに、なんでわざわざ東京まで?」
「わかんねーけど、嫌だったんじゃないか? 鵠沼が」腫れた頬をさすりながら真田が言った。
 そして今日、真田は高田馬場の駅前で買った二千円の花束をぶらさげて下川に会いに行った。何のために?
「プロポーズに決まってんだろ。そんでおまえに結婚報告する予定だったんだよ」
「で、断られたと」俺は冷蔵庫から新しいビールを取り出した。
「『ふざけないでよ!』だってさ」ビールを受け取って、真田はへなへなと笑った。
「どーせふざけてたんだろ?」
「レヴィ=ストロースの構造主義、交差イトコ婚」
「は?」プルタブを引く指が止まった。
「親族の基本構造、偏在する『普遍の関係』。綾乃、オレと一緒に世界の構造を貫こう」
「おまえ、そんな意味不明な求婚したの?」
「そう、そしたらぶち切れて泣いちゃって、同じ下宿先の彼氏登場。ぼっこーん」
 真田はビールを飲んだ。「レヴィ=ストロースの構造は崩壊し、バカげた痛みだけが頬に残った」。
 そんな味だっただろう。たぶん。

 オレはおどけてないと本心を口に出せないんだ、と痛ましく笑いながら真田は言った。
「知ってるよ、そのくらい」
 真田はいつも本気だった。どんなに冗談めかしていても、どんなにバカげていても、何もかも本気だった。
わずらわしい世界を、倫理を、常識を、本気で乗り越えようとしていた。俺なんかとは大違いだ。
「わかってるよ。わかってるからさ、泣くなって」
 低いテーブルに突っ伏したまま肩を震わせる真田を眺めながら、俺はまたビールを飲んだ。
 どんなに注意深く舌を泳がせてみても、涙の味はしなかった。(了)



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