【 家路 】
◆Gv599Z9CwU




27 :No.07 家路 1/4 ◇Gv599Z9CwU:08/02/03 04:51:01 ID:UF0Row6K
 こぼれ落ちる砂のように、誰も止められないままに僕たちの時間はすぎていく。だから、僕
たちはこの時間をどんなに守ろうとしても、卒業という差し迫った別れを必ず迎えることにな
るだろう。
 変わることを恐れないで、とイヤホンから響く歌が言うけれど、変わるのは嫌だ。僕は自転
車を精一杯の力でこぐ。川に反射した夕日がきらきらと瞬く。僕はそれを見ない振りをする。
それから歌が聞こえない振りをする。けれどもきっともうすぐ夜が訪れる。
 時間はすぎていく。それがこの世界の絶対のルール。

 川沿いの道を抜けるころ、終わらない歌を歌おう、とイヤホンから歌が響くが、終わらない
はずの歌はあたりまえのように終わり、夜が始まる。丸太に電球を取り付けただけの古い街灯
では水面が見えないが、川はきっと静かに流れている。
 イヤホンを外して、僕は世界の音を聞く。
 その間にも時間がすぎていく。自転車をこぎながら風や鳥や数多の音の中に体を晒している
と、単純に気持ちがいい。冬の空気の寒さも、積極的に味わおうとすれば、緩んだ身を締めて
くれるような心地よい感覚をもたらしてくれる。
 そしてせっかくの締まった体を再び緩ませたのはケータイのバイブ音だった。一緒に歌が聞
こえる。
――I can change the world
 メールの着信。やじーから。
「合格通知届いたよ!」
 僕は自転車を止めて、返事を送る。「おめでとう」

 イヤホンから歌が言う。変えられないものを受け入れる力、そして受け入れられないものを

28 :No.07 家路 2/4 ◇Gv599Z9CwU:08/02/03 04:51:34 ID:UF0Row6K
変える力をちょうだいよ。
 僕は自転車をこいでいる。まだ家は遠い。冬の夜風はさすがにきつくて、僕は脱いでいたコ
ートをかごから出して羽織る。田んぼ道は街灯の間隔が遠く、その中間ほどの光の届かない暗
闇の中で黒いコートを羽織っても、見た目にはきっと何も変わらない。
 冬の田んぼには稲は生えていない。昼間ならば土や藁が見えるのだろうけど、暗くなって影
と化している遠くの山までの風景は、崩壊した世界のように何もない。
 光のグラデーションが車を呼び、猛スピードで僕を抜く。機械の轟音がした。あるいはガソ
リンの臭い。そして闇へのグラデーションと再び訪れる静寂。風に僕の羽織ったコートが揺れた。
 僕は世界に対して無力だ。知ってはいたけれど。

 機械を動かすには動力が必要で、原始的なものであればそれは人力だったりするのだが、僕
のMDプレイヤーを動かしているものはボタン電池だ。
 かつてMDの時代があった。それはウォークマンとiPodの二つの固有名詞をを繋ぐ、ほんの
わずかの期間であったけれども、確かに存在した。ミレニアムはMDの支配下にあった。
 僕が不安に思うのは、それを人々が忘れてしまうのではないかということだ。既にノスタル
ジックなアイテムとして、創作物の世界でカセットは価値を持っている。それに現代音楽史に
おいても、重要な素材であったことは間違いない。
 そうした現代における機能的価値や文化的価値を背負っていないMDはやがて人々の記憶か
ら消えていくのではないか。
 僕はこのMDプレイヤーを小学生のころサンタクロースからもらった。僕はまだサンタクロ
ースを信じている。そう言わせてくれ。
 ともかく、電池の尽きたMDプレイヤーからは何も聞こえない。

29 :No.07 家路 3/4 ◇Gv599Z9CwU:08/02/03 04:52:09 ID:UF0Row6K

 時刻は明日を迎えようとしている。家がまだ遠いのは、僕が帰ろうとしないからだ。僕はこ
の自転車でどこまでも行ける。たとえば海さえも。
 やじーからまたメールが来ていたのに僕は気づかなかった。気づかない振りをした家からの
着信に紛れていた。
「これで離れ離れ決定だな。けど友情は永遠だぜ(笑)」
 僕は山を登っている。峠を超すのだ。ママチャリではきついけれど、僕は立ってペダルをこ
いだ。
 僕には名付けようのない意思があった。誰も歌ってくれない今、僕は自分で歌うしかなかっ
た。
 せめて少しはカッコつけさせてくれ。寝た振りしてる間に出て行ってくれ。
 あーあー、と僕は熱唱する。
 暗い夜の帳の中へ。
 古い歌を僕は歌う。僕が生まれるより前に作られた歌を。

 抗う。と書いてあらがうと読む、と模試の回答例を見て知った。つまり僕はこの文字を読め
なかった。あらがうという言葉は知らないが、漢字が抵抗の抗であるからに、抵抗するという
意味で間違いないのではないか。
 僕は自転車をこぐ。坂道はきつく、歌など歌っている場合ではない。僕が今すべきことは自
転車をこぐことだけで。
 この自転車は中学に入学したときに通学のために親から買ってもらったものだ。あのころサ
ドルは一番低い状態で、だからこそ当時の僕に合うということで選んだ代物だったのだが、今
ではあのころと比べてサドルはずいぶんと高くなっている。しかしこれ以上サドルを高くする

30 :No.07 家路 4/4 ◇Gv599Z9CwU:08/02/03 04:52:44 ID:UF0Row6K
ことはないだろうし、もっと言えばこの自転車に乗ることももうなくなるかもしれない。
 だから僕は自転車をこぐのだ。

 峠の頂上で僕は止まった。迷っていたのだ。行こうか、引き返そうか。そのとき、何百キロ
も先の水平線が光った。毎日起きることを奇跡とは誰も呼ばないから、それは断じて奇跡では
なかったが、神聖さや荘厳さの範疇には、少なからずあった珍しい夜明けだった。
「友情は永遠だぜ」
 僕はやじーの言葉そのままにメールを送り返した。(笑)はつけなかった。
 朝日が僕を刺した。字は正しい。だから僕は坂を降りた。そのときMDプレイヤーがポケッ
トから落ちたことに僕は気づかない。
 MDプレイヤーは断末魔をあげた。

 Hello,Hello,can you hear me?
 Are your skies clear and sunny down there?
 Even in this rain,
 the breath of the breeze is reaching me here

イヤホンから漏れる音は誰にも聞こえない。
 僕は坂を下る。出したことのないスピードで、風を切っていく。冬の早朝の凍えた空気は、
もはや僕に快楽などもたらさず、ただただ頬や手を削ぐように、厳しく僕に襲いかかる。それ
でも僕はブレーキをかけない。



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