【 ルール 】
◆ibD9/neH06




22 :No.06 ルール 1/5 ◇ibD9/neH06:08/02/03 04:47:12 ID:UF0Row6K
 全車両の空気が全て外へ抜けるような音を合図に、扉がゆったりと閉まっていく。
 隣の席に腰掛ける禿頭の老紳士は、背もたれ深くどっかり腰掛け、駅の売店で購入したと思しき文
芸誌を膝の上にのせて、早くも微かな寝息をたてていた。
 今朝から止まぬ暴風雪により、列車は予定時刻よりも十五分ほど遅れての発車となったため、箱中
に気だるい空気をより気だるくするお詫びのアナウンスが流れる。
 ガタリゴトリ。
 進行中だということを全身にまざまざと伝える祭囃子のような震動に嫌気がさした頃、私は窓外の
景色を見やってみる。
 それもまた面白みのない事だとは分かっていたのだが。
 雪化粧の施された郊外を走っているため、雪化粧の施された郊外の景色しか映らない。
 ただ見渡す限り、畑地が役割を担わず惰眠を貪っていた。
 雪の棘で殺されてしまったのかもしれない。当たり前のように音もたてず。
 当たり前のことが当たり前にあるという現実は、逆に規範を逸脱しているように感じる。
 そんな筋の通らない幼い思想が片隅に残っている。
 ガタリゴトリ。
 愚かだとは分かっているのだが、どうにもその思想を無下にはできない。
 私は疲労する心を座席に埋めるが如く、どっぷりと背もたれに身を任せ、閉じた瞼に冷えたタオル
を乗せた。
 簡易の闇が齎すまどろみを泳いでいると、俄かにおぼろな、それでいて馬鹿馬鹿しい過去へと逆行
するような感覚に捉われた。
 散文家を気取る者ならば、さしずめ記憶の発掘とでも無意味に肉付けして、偉そうに連呼するとこ
ろだろうか。

23 :No.06 ルール 2/5 ◇ibD9/neH06:08/02/03 04:47:55 ID:UF0Row6K
 大学時代からの友人が、警察の厄介になったと人づてに聞いて、出張ついでに見舞い品をぶら下げ、
彼の住むアパートを訪ねたことがある。
 地金が覗けていた、とでも言おうか。
 扉が開くとまず目に飛び込んできたのは、皮膚を突き破らんとする鎖骨とさんばら髪。色素の薄れ
た乾いた肌。目のふちは赤く爛れ、顔中の筋肉は緩み、値踏みするかのように澱んだ三白眼で睨んで
くる。これがかつて大学一の好色漢と謳われた友人だと、誰が信じれるだろう。まあ私ぐらいなもの
だ。
 部屋には生ごみや空のダンボールが密集しており、特に生ごみの袋内部では小さな羽虫が所狭しと
蠢いていた。
 なるだけ淡白な声で、どうしたんだねと尋ねると、いや、と笑ってかわされる。歯もぼろぼろで概
ね黄ばんでおり、歯茎と歯との合間に青黒い何かが付着している陰惨な映像が、今 でも記憶に熱く
焼きついている。
 いや、付着しているのではない。地金が覗けていたのだ。
「つまりそうだな……僕の神経は思いのほか繊細だったということかな」
 言葉尻に吐き出される、彼らしくもない諦念とも思える苦笑(まさしく吐き出すという表現がぴた
りと嵌るのである)。
「精神病か何かかね」
「んんや、その呼称は具体的でないな」
 少しは緊張の糸が解れたのか、彼はちびた煙草を咥えて膝を崩す。封を切っていないマイセンを勧
めたが、そんなの吸った気がしないと、にべもなく断られた。
 私が手を引っ込めると、彼は「ふぅ」と重い溜息を地面に転がし、心臓を毟り取るかのように、乱
暴に自分の胸に爪をたてた。
「恋わずらいだ」

24 :No.06 ルール 3/5 ◇ibD9/neH06:08/02/03 04:48:29 ID:UF0Row6K
 初恋だったのだという。
 大学を苦労もなく出た彼は、市内の高校で教鞭を執ることと相成った。生徒への人気取りにも成功
したらしい。
 だが常に世間を上空から見下ろしているような失敗しらずの彼にとって、我慢ならぬ事件が起こった。
 どうしても一人。いくら此方から話しかけても、目すらあわせようとすらしない女子生徒が居たら
しい。その娘は成績も悪く、なおかつ補習にすらも立ち向かってこない素行の悪さ。たいそうな不良
だった。
 彼は憤慨し、興奮した。
 憤慨しているんだから興奮して当たり前じゃないかと私が話を遮ると、それとは別種だよ馬鹿お前
昔から頭固いんだよ馬鹿と彼が二回馬鹿と蔑んで座布団を投げつけてきたから、お前こそなぜ座布団
投げるかこの馬鹿と(以下略)。
 気づいた頃には、彼はその生徒に夢中になっていた。
 かつて難攻不落と恐れられた絶世の美女を、一晩足らずで陥落させた経歴を持つ救いようのない男
の魔の手から、かの女子生徒は見事逃げ切ったためである。
 結果―――。
「純愛だった」
 愛しさ余ってなんとやら。友人は程無くしてピュアストーカーにジョブチェンジ。二年にわたる尾
行、潜入活動の末、干してある彼女の下着に鼻先を擦りつけているところを、近所にお住まいの鼻セ
レブ(まるでピノキオのような鼻だったと彼は語る)に通報され、逮捕へと繋がる。
 あまりに支離滅裂な言動に納得がいかない私は、とりあえず彼の薄汚れた顔めがけて座布団を投げ
つけたが、すぐさま倍の量のゴミ袋(生)を投げ返された。
「規則やルールを踏み越えれば自ずと違反になるのだ。仕方ないことなのだ。不平等な法律にしがみ
付いて妬むことしか出来ぬ劣悪な連中には分かるまい。生徒に恋することがそんなに愚行か! 体操
着姿の彼女を押し倒したいと思うことがそんなに不潔か! お前らはそんなことすら実行に移す度胸
もないくせに偽善を振りかざすな! 潜入捜査の中で僕は彼女の恥部を知って、ますます知りたくな
っただけだ。くそう、純愛なんだっ!」
「お前中盤以降わけわからないこと口走ってるぞ」

25 :No.06 ルール 4/5 ◇ibD9/neH06:08/02/03 04:49:05 ID:UF0Row6K
 ある程度形作られた常識やら規範が焼き付けられるより前、つまり物心つく前より、特殊な環境下
で育てられると、認識も同様に特殊に捻じ曲げられまま育つことが多い。
 イレギュラーな存在は往々にして弾かれやすい。社会では表面上はどうであれ多数決至上主義、少
数派の意見は聞き入れられず、多数派の生きやすいように構築されていく。いつしかそれが"普通の
ルール"として馴染んでいった。
 少数派の意見は黙殺されるため、いくら取り繕ったところで確執や隙間は残される。
 だからその箇所はルール違反として取り締まり、立ち入られぬようにしてしまう。
 異常という壁での遮断。
 だがその箇所こそが、真にあるべきものだと考える少数派は、消えることはない。
 そんな少数派に属する人間でも子供は作る。そして少数派の教育を施し、少数派の思想を宿した少
数派を作り上げる。
「その少数派の子供というのが、お前の惚れた女子生徒ということ、でいいのか」
「滅茶苦茶雑にまとめるとそうなる。どうやら父親の手……いや腰で、性教育とかも仕込まれている
らしかったが、もう確認するわけにもいかない。監視されているから。それにそういう育て方も、否
定できない。何が悪いのかと迫られたら、なんとも返せない。これだからやたら批判を繰り返すのは
危険なんだな」
 一通り話し終えたところで、持参した見舞いの饅頭を頬張り、温いビールを流し込んだ。
「さすがに餡とは合わない」
「合わないが、僕はさほど嫌いじゃない。というか好きだ」
「好きにしろ」
「好きにした」
 そうして彼は満足気に横になり、「いやあ実に純愛だった」と愚行を懐かしんでいた。

26 :No.06 ルール 5/5 ◇ibD9/neH06:08/02/03 04:49:37 ID:UF0Row6K
 目が覚めると、列車は未だに運転中。隣の老紳士は頻りに腕時計を確認し、「いかんな……これは
いかんな……」と幾分困った様子だ。そんなにいかんなと呟かれると、こちらまで困ってしまいそう
である。
 時計を確認して困ったと認識できることといえば、大体が列車の進行が遅れている場合などである。
 一応腕時計を覗いてみると、なるほど。もう目的地への到着予定時刻などとっくに過ぎている。
 おそらく私が寝ている間にまた風雪が強まり、途中の駅で足止めをくらったのだろう。
 列車側にとって、風雪などは逆賊であり、少数派の障害であるため、蹴散らしながら引かれたレー
ルを直走る。
 国から認められた道。多数派の道。正道である。
 それを覆そうと、少数派の風雪が吹き荒れる。
 勿論、頑なな列車を廃線に追い込むことは殆ど不可能。されど予定時刻をいくらか狂わせることは、
可能なのである。
 だがやはり皆、不毛なせめぎ合いだ。こういう類の青臭いテーマは十代の若者に突きつけるべきで
はないか。
 当たり前のものを当たり前に受け入れるぐらいが、今の私の狭量には丁度よいのかもしれない。
 なぜなら疲れるから。
 私はほころぶ口元をタオルで覆い隠しながら、また記憶の発掘へと取って返した。

〈了〉



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