【 生類憐みの令 】
◆ETwWxomLBg




19 :No.05 生類憐みの令 1/3 ◇ETwWxomLBg:08/02/03 04:30:09 ID:fZ128Ywq
初めて江戸に赴いた私が見たのは、噂に聞いたものとはかけ離れた不気味な有様だった。
 仕事終わりの町人達が屯しているはずの通りには、人の気配が全くない。
 夕刻と言えどまだ空は赤く、行き来があってもおかしくないはず。
 なのに人っ子ひとり見当たらず、代わりにそこには、野良犬が伸し歩いたのだ。
 しかも一匹だけではない、二匹、三匹……、まるで自分の庭の様に。

 私は江戸の町人が皆、犬になってしまったのかと思った。
 このまま江戸を進めば私も犬に成り代わってしまうのではと足が竦んだが、
傍のあばら屋から老婆がひとり、顔を出してくれたのが幸いだった。
 その老婆にこの有様について尋ねると、老婆は何故か陰鬱な表情で黙り込む。
 ますます不思議がって首を傾げていると、老婆は恐る恐る一言、呟いた。
「お犬様に手を出してはならねぇ、……絶対に」

 その言葉の意味が分かったのは、やっとの事で古くからの友の家に辿り着いた時だった。
 すっかり月は登ってしまっていて、江戸の町は闇に静まり返っている。
 私が家を訪ねると、友と友の家内はたいそう喜んで迎えてくれた。
 この二人に会うため、私は田舎の農村からこの江戸まで赴いたのだ。
 しばらく盃を交わしたあと、私は町の有様、老婆の言葉について二人に話した。
 すると二人は顔を見合わせ、老婆と同じように黙り込んでしまった。
 どうしたかと尋ねると、少し困ったような面持ちで、友の家内は話してくれた。

 半月ほど前、江戸の町に立て札が立てられた。
 その中身は要するに、生き物を尊び、特に犬は大事に扱え、というものだったらしい。
 聞くにはなんてことないものだが、実際にはそうはいかなかった。
 魚鳥を食い物として育てることを禁じられ、家畜もぞんざいに扱うことを許されなかったのだ。
 江戸は常に役人に見張られ、皆生き物に怯えながら暮らしていかなければならない。
 そして先日、誰もが恐れていたことが起こった。
 店の品を荒らした野良犬を蹴飛ばした店主が、役人に連れていかれてしまったのだ。
 翌日、店に帰ってきたのは店主の草鞋だけだったらしい……。


20 :No.05 生類憐みの令 2/3 ◇ETwWxomLBg:08/02/03 04:45:29 ID:UF0Row6K
「上様は狂ってしまわれたか」
 あまりのことに私が呟くと、友はため息と共に首を振った。
「分からない。しかし、それ以来誰も犬には近付けなくなってしまった」
「あの店の主人も気の毒なことでした」
 友の家内は着物の裾で目を拭う。
「幼い娘が居りましたのに」
 店主のことを思うと不憫でならない。
 妻と娘を遺して、死に際には一体何を思ったのだろうか。
「今の江戸には犬がはびこっている。もはや我々の居場所は無い」
 友はポツリと呟いた。
 あの寂しい町の情景もあの老婆の哀しみも、全てはひとつの法から、ひとりの死から始まった。
 江戸は華々しく活気に満ち溢れていると、旅人の噂に聞いた。
 良い町だと旅人は笑っていたのに、上様はなぜこのように変えてしまわれたのだろうか……。
「お二人、飲み過ぎですよ」
 友の家内は気遣うように笑って、酌を片付け始める。
 私は酔いを覚ましてくると断って家を出て、夜の江戸の町に出た。

21 :No.05 生類憐みの令 3/3 ◇ETwWxomLBg:08/02/03 04:46:18 ID:UF0Row6K
 広い通りに人の姿はなく、時折物陰から犬が顔を出している。
 これでは町の大きさを除けば、故郷の農村とあまり変わりない。
 不意に、何処からか泣き声が聞こえた。
 とある一角の家屋から、確かに幼子の泣き声がする。
 よく見れば屋根に看板が掛かっていた。
 あぁ、あの店なのか。
 主人を失った、哀れな妻子が住う店。
 店の奥に小さな灯を見て、私は踵を返した。
 幼子の泣き声はまだ大きく耳に響いている。
 上様はなぜあんな法をお作りになったのか。
 生き物を、犬を尊ぶ、あれはそんな法ではない。
 私には、その法があの幼子を泣かせるためのものに思えて仕方がない。
 店主の命を奪い、その妻を苦しめるためだけの法に思えて仕方がないのだ。
 そんな法があっていいものか、法とは何のためにあるのか。
 田舎者の私には分からない。
 ただ、胸の内に起こったこの感情は間違いではないと、それだけは断言できた。

 物陰から野良犬がこちらを覗いている。
 私は彼らに見せつけるように、通りのど真ん中を精一杯踏み締めて歩いた。   終



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