【 不器用な家康が嘆く先とは 】
◆ecJGKb18io




92 :No.23 不器用な家康が嘆く先とは 1/5 ◇ecJGKb18io:08/01/28 17:20:40 ID:iApBR0zd
 ちょうど三ヶ月前、私は十年間勤めた保険会社からクビを宣告された。
 不器用で何の取り得もない私だが、それでも仕事は真面目にやってきたつもりだった。
だからこそ仕事には自信を持っていたし、それなりにやりがいも感じていた。保険に必
要な書類作りは誰よりも早かったし、顧客も充分に取れていた。そしてその顧客から謂
れのない文句をつけられようが、残業で日を跨ごうが、がむしゃらに頑張ってきたのだ。
 そのお陰でようやく仕事にも慣れてきて、やかましい上司のあしらい方や自分よりも
無能な部下扱い方を覚えてきた途端に肩を叩かれたのだ。無論、私は納得いかなかった。
人員削減は下降気味の会社の方針ではあったのだが、私よりも無能でまともにコピーも
とれない部下や同僚がのうのうと会社に残っている事には納得することが出来なかった。
 幸い、私には退職金が少しばかり出たから生活に困る事はなかった。
 しかし理不尽な事は理不尽だ。だから、だ。
 だから私は決心をしたのだ。世の中が理不尽ならば、理不尽に生きていってやろうと。


「……あれ? パパ、忘れ物?」
 少女。それはパジャマを着てベッドから半身を起こした少女だった。私は顔が強張る
のも自覚しつつ、何も出来ないまま何も言えないままその場に突っ立っていた。
 終わりだ。顔も見られた。今までも失敗続きではあったが、こんな失敗はしなかった。
 それに充分に計画は立てたはずだったのだ。家主は一人暮らしで帰宅時間にも幅はあ
るものの、決してこの時間のこの家に居ることはなく、家族が居るはずもない。家主と
思しき男性が家を出て行ってからは電気も点いていなかったし、人気もなかった。ただ
一つ気になっていたのは今日はいつもより遅い出勤だった事だが、それも取るに足らな
い問題のはずであった。
 しかしこれはどうだ。一階を調べつくして、二階に上がり三つ目の部屋を開けたらこ
れだ。見た所、十五は越えてる年齢で目の前の男が単なる来訪者でない事は充分認識出
来るだろう。何一つ行動の支持を示さない頭で私はただそんな事を考えていた。
 そして少女は増々私を混乱に陥らせるような事を口走った。
「……パパじゃないの? 貴方は誰?」
 少女は私を正視したままそう言った。か細く不安に満ちている声だと分かる。私は機
能停止になりそうな頭をどうにか落ち着かせ、今起きている現状を理解しようとする。

93 :No.23 不器用な家康が嘆く先とは 2/5 ◇ecJGKb18io:08/01/28 17:20:50 ID:iApBR0zd
「……パパ?」
 少女はやはり間違いなく私を正視している。だが、発するのはこの問い。単純に思い
浮かんだ可能性は盲目ではないかいうことだった。そしてそれはおそらく間違っていな
いだろうと思われた。
「あの、どなたですか。パパの会社の人ですか? パパなら……さっき会社に行きました」
 やはりそうだ。少女に私は見えていない。ニット帽に黒手袋をした私を誰が会社の人
間だと思うだろうか。おそらく――――少女は盲目なのだ。
「……そう。お父さんが中々会社に来ないから家に来てみて、鍵が開いてたから上がっち
ゃったんだけれど。どこかですれ違ったのかな」
「そうですか。病院に寄ってから行くって連絡はしたはずなんですけど、上手く伝わって
 いなかったのかな。ごめんなさい、父が迷惑を掛けてしまって」
 少女は半身起き上がった姿勢でペコリと頭を下げた。
「いや……私の早とちりだったのかな。勝手に上がってしまってごめんね」
 私がそういうと少女は「いえ」と再び頭を下げた。何にせよ危機は免れたらしい。し
かし、私はホッと胸を撫で下ろしつつも胸の内にはっきりとした罪悪感が込みあがって
くるのを感じていた。
 彼、家主はおそらく少女を病院に連れて行ってから仕事に行ったのだ。だから今日は
出勤が遅かったのだろうし、下調べの段階でも帰宅時間が不安定だったのだ。きっと薬
を貰いに行ったりをしていたのだろう。そして私の調査も短期間だったため、少女の存
在を確認する事が出来なかった。家の電気だって説明出来る。
「目が……悪いんだったよね」
「はい。多分父から聞いてると思いますが、生まれつき目が見えないんです。今日もそ
 の検診で。すいません。同僚の皆さんには私のせいで迷惑を掛けていますよね」
 少女はまた頭を下げた。反射的に「いや」と両手の平を向けてジェスチャーをしてし
まったが、これも彼女には見えていないのだろう。それでも私は「そんなことないよ」
と顔に笑みを浮かべずには居られなかった。彼女の姿は私の心に残った僅かな良心を揺
らがせ続けた。

94 :No.23 不器用な家康が嘆く先とは 3/5 ◇ecJGKb18io:08/01/28 17:21:01 ID:iApBR0zd
「すいません、こんな姿勢で」
 そう言って、彼女はベッドから手探りで起き上がろうとした。私は慌てて近寄り、そ
れを制す。それでも彼女は起き上がろうとして、私が半ば無理矢理に寝かせる形で落ち
着いた。
 申し訳なさそうな顔で身体を横たえる彼女は随分と大人びているように見えた。言い振
る舞いや艶のある長い黒髪が私にそう思わせたのだろう。とにかく私は目の前に居る彼
女を見ると、自分の未熟さと滑稽さを露呈しているようで妙に落ち着かなかった。もち
ろん泥棒の私が堂々としていいわけがないのだが、あるいは他の同業者だったら彼女が
盲目なのを良い事に平然と盗みを犯すのかもしれない。
 そんな事を考えた瞬間、私は自分が泥棒だということを忘れていた事に気が付いた。
「あの、私、笹塚通恵って言います。よろしかったら、お名前伺っても……?」
「あぁ……」
 ようやく回転し始めた頭が再び止まりかける。ここで名乗らないのも不自然な話だし、
だからといってパッと偽名が思い浮かぶほど私は器用な人間ではなかった。会社に勤め
ていたころあれほど名刺交換をしたのに、そんなもの全く役に立ちやしない。
「と、徳川……家康」
 言って、私は自分の唇を思いっきり噛んでやった。佐藤太郎ならまだしも、あろうこ
とか徳川家康ときたものだ。全く、自分の思考回路が疑わしい。
 しかしながら、少女はそれがギャグか何かだと思ったらしくけらけらと笑い出した。
「あはははは、徳川家康さんですか」
「そ、そう。あはははははは」
 畜生、と心の中で呟いた。一体私は何をしているんだ。少女は一通り笑って、ゆっく
りと一息ついて言った。
「はぁ、面白い。うちのパパってあんまり会社の人を連れてこないからなんか新鮮だな
 ぁ。……この家を引っ越す前にもっと連れてきて欲しかったかも」
 彼女は寝たままの姿勢で、ようやく年齢に似つかわしい表情でそう洩らした。私は新
たに出た『引越す』という情報に内心びくびくしながら「うん」と返した。

95 :No.23 不器用な家康が嘆く先とは 4/5 ◇ecJGKb18io:08/01/28 17:21:12 ID:iApBR0zd
「ここ、貸家なんだって。家賃が高いから遠くに引っ越さなきゃ駄目なの。まあ最初か
 ら数ヶ月だけっていう私の我儘なんだけど」
 すっかり彼女は子供っぽい声調で言う。いや、これが普通なのだ。私はその事にも、
この家の複雑な事情にも心を打たれ始めていた。
「やっぱりさ、一度は広い家に住んでみたいし、一階じゃなくて二階に自分の部屋持ち
 たかったし。パパには迷惑掛けちゃったけど、会社の人とか呼んでわいわいして欲し
 かったな。私が心配だからってパパいっつも早く帰って来るんだもん」
 『パパ』は娘が心配でたまらないのだろう。どうやら母親も早くに亡くしたか、離婚
したかで居ないらしい。
 なんて不幸な子なんだ。理不尽すぎる。私なんか比ではない。私は自分の目頭が熱く
なっていることを自覚した。
「だったらお父さんに頼めばいい。会社の人を呼んでパーティしようって」
「駄目だよ。お金に余裕なんてないし、もうすぐここも引っ越すし」
「今日にでも頼めばいい」
 私が少し声を荒げてそう言うと、彼女は「え?」と見えもしない目を向けて、怪訝な
表情を浮かべた。
「私はね、本当は保険会社の人なんだ。それでお父さんに用があって来たんだけど……
 その、つい出来心で上がり込んじゃったんだ」
 私は勝手に口を突いて出てくる言葉をそのまま続ける。
「こっちのミスで君に掛かった保険を少なく払ってたんだ。今日はそれを謝りに来たん
 だよ」
 滅茶苦茶だ。自分でもそう思った。少女は半身を起こして未だ怪訝な表情を浮かべて
いる。
「お父さんに伝えといてくれるかな。明日にでも書面にして差額分のお金を振り込む。
 お願い出来るかな」
 それから数十秒、お互いに黙ったままだった。落ち着いた少女の表情からは何も伺え
ないが訝しがってるのは間違いないだろう。この子は賢い。
「……本当に?」
「もちろんさ」

96 :No.23 不器用な家康が嘆く先とは 5/5 ◇ecJGKb18io:08/01/28 17:21:23 ID:iApBR0zd
 彼女の片手は布団をぎゅっと握り締めている。私は彼女の頭をポンと一つ叩いて、立
ち上がった。ニット帽を被り直し、ドアへ向かう。
「ねぇ、徳川さん。最近、この辺でも変な空き巣が出るんですって。他人の家に入るんだ
 けど何故か何も盗らずに出て行く空き巣。噂じゃ、お人好しで度胸のない泥棒だって」
 私は振り返らずにドアを開けた。
「そう。それは妙な泥棒だね」
「そう。とても変な泥棒」
 やたらと寒さを感じる廊下に出て、ドアを後ろ手に閉める。閉まりきる前に私は小さ
な声で呟いた。
「ドアの鍵は変えといたほうがいい」
 その瞬間背後で顔に笑みを浮かべたような音がした。私の気のせいでなければ、だが。
 

 家で私は久しぶりにパソコンに向かっていた。その理由は当然、例の書類作りだ。そ
の作業は、私に取っては下調べをするよりもピッキングをするよりも容易く、あっとい
う間に仕上げの段階に取り掛かっていた。
 ビールをぐいっと飲み干して、再び作業を開始する。
 残る欄は担当者名だけだ。こんなものどうせ正式のものではないし、ただあの父親を
納得させるためだけのものだから、適当でいいのだ。
「まあこれで退職金も尽きたし、最後だ」
 ちゃんと働こう。泥棒に向いていないということは身に沁みて分かった。だからとい
って社長になれるわけでもなければ、何かの才能があるわけでもない。理不尽な世の中
だけれど、私にも出来る事はある。要はその手段の問題なわけで、不器用な私に一番向
いているのはぐちぐち文句を垂らしながらのしがない会社員なのだ。
「……理不尽な世の中だよなあ」
 私は一つ一つのキーを丁寧に押していき、プリントアウトのボタンを押した。
 プリンターから出てきた紙は、正式のそれと全く違わない良く出来た代物だった。
 不自然があるとすれば、一箇所だけ。
 担当者名、徳川家康。
<了>



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