【 ありふれた日常の話をしよう 】
◆hvGLN9Us8Q




72 :No.18 ありふれた日常の話をしよう 1/5 ◇hvGLN9Us8Q:08/01/28 17:11:43 ID:iApBR0zd
 自動販売機に投入された百円玉は意図されたレールを転がり意図されたセンサーを作動させ、そして意図された小銭ボックスに落ちた。2枚の十円玉も同様だった。金額表示が120円を示した。
 センサーが、そしてプログラム通りに商品ランプを点灯させた。缶の下のボタン全てが点灯した。150円のペットボトルの列のボタンは、頑なに消えたままだった。
 ぼくは280ミリリットル入りの、ホットコーヒーのボタンを押す。
 コーヒーの下のボタン以外は全て消え、金額表示は再び0に戻った。プログラムに従い、装置が缶を一個だけ落とす、はずだった。
 ガタンという耳障りな音は、けれど、聞こえてこなかった。
 取り出し口には何も落ちてこなかったのだ。
 ……なんてこった。
 ぼくは情けない気持ちになりながら、それでも落ち着いてもう一度120円を入れた。
 けれどぼくの目の前で同様のルーチンがもう一度繰り返されただけだった。
 商品受けには、やはり何も落ちてこなかったのだ。
 240円。
 ぼくはどうしようもなく情けない気持ちになりながら、それから財布に小銭が無いことに気がついて、それから、自販機の角を、できるだけ弱く弱く蹴った。
 自販機はびくともしなかった。
 金額表示は、やはり同じ数字のままだ。
 0円。
 まあ、お金はもう、どうだっていい。
 どうだっていいけれど。
 そのデジタルな輪を見ながらぼくは、生まれてから1万回は抱いてきた感想を、改めて口にすることに決めたのだった。
 息を吸って。
 吐いて。
 ワン、ツー。
 世の中は、とにかくままならない。

「世の中金だ」と常日頃から豪語していた祖父が、金には一切関わりのない方法でコロっと死んだ。
 祖父は若い頃に起業し、最終的に社員を三桁抱えるまでに成功した人間だ。けれど脳卒中だけは金の力ではどうにもできなかったようだ。
 いつまで経っても祖父がトイレから出てこない、と心配した祖母は隣の家に駆け込んだけれど、その頃には祖父はとうに事切れていたのだった。
 祖父がトイレで最後に見ていたものは、新聞の株価欄だったそうだ。
「人間、あっけないものねえ」
 祖母の両隣の家の人々は口々にそう言った。
 真向かえの人も、祖父と親交のあった1丁先の人も口々にそう言った。

73 :No.18 ありふれた日常の話をしよう 2/5 ◇hvGLN9Us8Q:08/01/28 17:11:54 ID:iApBR0zd
 それから父を亡くしたはずの母もそう言い、姉までもそう言ったので、ぼくも一応そう言ってみた。
 口にすればするほど、人間はどうしようもなくあっけない存在に思えてきて嫌気がさした。まるで、冬を前にした木に最後に1枚残った葉っぱのようだ。
 どうせなら、風が吹いても決して飛ばない、絵に描かれた木の葉のようならいい。
「ねえ、パスタ食べに行こうよ、パスタ。おごるよ?」
 部屋でパソコンに向かって麻雀を打っていたぼくを姉が誘う。ゲームの麻雀はいい。オフラインならなおいい。お金がなくならない。なくなるのは時間と体力と、それから外出する気力だけだ。
「姉貴、部屋に入るときはノックぐらいするのが成長期の男子に対するマナーってもんじゃないかな」
 もっともぼくだって、姉の部屋に入るときにはノックはしない。
「マナーねえ。いい言葉だ。マナー、マナー、マナー……」
 再生機能が壊れた音楽プレイヤーみたいに姉が繰り返す。ぼくはパソコンの電源を落として、ドアのところに立つ姉の視線を浴びながら着替える。
 姉はとうに準備完了していて、このぶんだと恐らくメニューまでもう決めてあるのだろう。
 ぼくがメニュー選びに時間をかけたら、姉はきっと「早くしろばか」なんて言ってかんかんに怒るはずだ。
 タイム、イズ、マネー。
 姉に言わせればそれは彼女の「至上命題」であり、それは誤用だとぼくが指摘しても、姉は決して聞き入れないのだ。

「どうせなら世の中ぜんぶお金で成り立てばいいな。ぜったいその方が楽なのに」
 鳥ももとおろしのスパゲッティと食後のチーズケーキをあっと言う間に注文した姉は、何も見ずにボロネーゼだけを注文したぼくに至極満足したふうだった。
 今日の姉は会話に時間を割きたいらしい。ときにはぼくをいじることに時間を割くこともあるけれど、今日は会話の日のようだ。
 そうして始まった会話の最初の一言は、まあ何というか、何とも姉らしい一言だった。
「ぜんぶお金、ねえ……」
 ランチタイムを過ぎたこの時間、小さなスパゲッティ屋さんに客らしい客はほとんどいない。照明を控えめにした店内からは、ガラス越しに見える外の通りがやけにまぶしい。
「そう、お金」
 姉は運ばれてきたコップから水を一口飲んだ。そのときぼくは姉の薬指から指輪がなくなっていることに気がついた。
 そして姉はそんなぼくに気がついて、わかってんなら空気読んでよ、なんて言いたげな視線を送ってくる。
 自分から空気読んでよ、なんて言う姉が、世界じゅうさがして他にいるかどうか。
「ぼくとしては、恋愛はお金じゃないに1票。あるいは百万票」
 姉がげふっとむせる。ぼくはそ知らぬふりをした。コップがだんっ、とテーブルに強く置かれて、ぼくは「店の中では静かにね」なんて言ってますます姉を怒らせる。
「……あんたが頼んだボロネーゼは実は880円だったんですけど」
「姉貴が頼んだスパゲッティとデザートは合計で1000円越えてるだろうね」
「……あたしは大学のレポート書く時間を削ってまで可愛い可愛い弟と一緒に食事を取る機会を作ってるんですけど」
「彼氏さんと過ごした時間はプライスレスだもんねえ」

74 :No.18 ありふれた日常の話をしよう 3/5 ◇hvGLN9Us8Q:08/01/28 17:12:05 ID:iApBR0zd
 姉が本気で水をぶっかけて来そうになって、ぼくは急いで姉のコップを奪い取って手元に置いた。ぼくの前にコップが2つ並ぶ。まったくプライスレスだ。
 水なんてタダでもらえるのに、水なんてぶっかけられたら僕はまともに帰れない。
 2つ並んだコップは、ぼくに昨日の自動販売機を連想させた。0円、120円、240円。
 木製のテーブルの上に水の影が2つ映って、ゆらゆら波の形に揺れる。
「ぜんぶお金だったらねえ……」
「姉貴、もう経済学部に移っちゃえば?」
「いや。あたしは世界で一番優しい保母さんになるの。そもそも学部移れないし」
 そして姉に面倒を見られた子どもたちがお金にうるさくなったらいやだ。
 ぼくは常日頃から姉に言っている。小さな子どもたちにまでタイムイズマネーを染み込ませないでね、と。
 けれど死んだ祖父は姉に会うたび「何にもまして銭勘定は大事だぞ」と壊れた音楽プレイヤーみたいに繰り返していて、そして姉は祖父の方をとったらしい。
 ぼくの言葉なんて祖父の命みたいにあっけない。
「経済学だと家事なんかも金額に換算して計算するんだって。経済学部の友だちが言ってた。なんだっけ、DNA……?」
「GDPだよ」
「なんで高校生のあんたが知ってんのよ」
 そんなの政経の先生が言ってたからに決まってる。たまたま覚えていただけだ。
 そもそもぼくはお金の計算には一切合切執着がないから、いつも政経のテストは点数が悪い。お金への執着のなさは、たぶん先に生まれた姉の反動だ。
 お金への執着は彼女が全部吸い取ってしまったのだ、と僕は思っている。
 確かに、ぼくにも自動販売機の角を小さく小さく蹴るぐらいのプライドはあるのだ。けれど、姉なら機械にミドルキックをかました後で責任者をしっかり呼び出しているだろう。
「……はあ。恋もお金に換算できて、もしも別れたら、そのぶんのお金が返ってくればいいのに」
「誰が払うのさ」
「冗談よ。ばか」
 まったく冗談に聞こえない。それにお金が返ってきたらちょっと不公平だ、と思った。ぼくが自動販売機に入れた240円は、ついぞ飲み込まれたまま帰って来ないのだから。
 今頃は自動販売機の小銭ボックスの中で眠っているか、お釣りとして誰かの手に渡っているだろう。
「世の中ままならないわ、ほんと」
「そうだね」
 両手で頬杖をついて、エクトプラズムみたいにため息を吐き出し続ける姉のもとに、それでもパスタはきちんとやってきた。世の中はある程度うまくいくのだ。
 ぼくのところにも湯気立つボロネーゼが運ばれてきた。目の前で店員さんが粉チーズを掛けてくれて、姉が「おいしそうじゃない」とつぶやく。
「でもこの店じゃ一番安いんでしょ、たぶん。値段見てないけど。ふつうのボロネーゼだし」
 店員が去ったあとで小さく言うと、姉が真顔で答える。
「相変わらずお金に執着ないのね。大当たりよ。このお店はちょっとおタカいけど、流石は我が弟といったところね」

75 :No.18 ありふれた日常の話をしよう 4/5 ◇hvGLN9Us8Q:08/01/28 17:12:16 ID:iApBR0zd
 そして姉は自身のスパゲティをおいしそうにすすった。鳥ももとおろしのスパゲティだ。
 これでボロネーゼより高いのだから、たぶんこの鳥は、どっか良いところの生まれなのだろう。日本にある空気の綺麗な田舎かもしれないし、フランスなんかの高級農場かもしれない。
 少なくとも、中国やアメリカの劣悪な農場ではないはずだ。
「いただきます」
「どーぞ」
 僕もボロネーゼをすする。一番安くても、これだっておいしい。
 たとえひき肉になった牛が中国やアメリカの劣悪な農場生まれでも、ぼくにはあまり関係がない。
 牛たちの悲惨な境遇を嘆くのは動物愛護団体あたりの役目であって、僕のすることじゃないはずだ。
「まあ、ぼくはおごってもらうときには高いものを頼まない主義だしね」
「あたし以外におごってもらったことなんてないくせに」
「まあね」
 実際、それは紛れもなく図星だ。けれど僕は怒らないし、姉だってそんなことはわかりきっている。
 わかりきった上で姉は言うのだ。
「……ところで、あんたもなるべく早く彼女作りなよ。気ままに恋ができるのなんて高校のうちだけだからね。麻雀ばっかりやってたら人間腐るよ?」
 そしてそれも、紛れもない事実だ。
 ぼくは「なるべく努力するよ」なんて姉に答えて、けれど麻雀のゲームをやめる気はこれっぽっちもない。
 それにぼくにしてみれば、どちらかと言えばお金至上主義の方が駄目な気だってする。
 けれどそれは、同時にぼくの個人的な意見にすぎない。そもそもどっちにしても、冬を前にした木に残った最後の葉っぱのように、吹けば飛ぶような性質だとも思う。
「ねえ、姉貴」
「なに?」
「……ぼくと姉貴との食事タイムは、お金に換算するとだいたいどのくらい?」
 そんな言葉で怒る姉は、やっぱり何よりもまず、ぼくの姉なんだと思う。

 バスターミナルの中、ぼくはぽつんと佇んでいる自動販売機の前に立っている。
 そこから発せられる光はやみくもに明るく、たとえ夏の夜の虫じゃなくても、この光には吸い寄せてしまいそうな力がある。
 周囲では学校帰りの学生とか、会社帰りのサラリーマンなんかが一列になって、皆で仲良くバスを待っていた。
 自動販売機の前のぼくは、缶のホットコーヒーがほしいな、と思っている。
 財布から120円を手にとって、コイン投入口に入れた。缶の下のランプすべてに明かりが灯る。
 ホットコーヒーのボタンを押そうとして、けれどそのとき、ふと、商品棚のガラスにある、小さなヒビに気がついた。
 この前はなかった傷だ、と思った。

76 :No.18 ありふれた日常の話をしよう 5/5 ◇hvGLN9Us8Q:08/01/28 17:12:28 ID:iApBR0zd
 おまけにその傷は、ぼくが買おうとしていたホットコーヒーのレプリカの前のガラスにあった。嫌な予感がした。これは誰かが殴ったり叩いたりした跡だ。また商品が出てこないんじゃないか、と不安になった。
 ぼくは一瞬ためらって、けれどやっぱり、ホットコーヒーのボタンを押すことにした。
 ガタンと音がして、ホットコーヒーの缶が取り出し口に現れた。
 ぼくは、ほっとため息をついた。
「……あったかい」
 ぼくはターミナル内のベンチに座ってコーヒーを飲みながら、誰かが管理者に言ったのだろうか、と思った。その人物とガラスを殴った人物は同じなのだろうか、とも思った。
 そしてそのときぼくの頭に、本当にどうしようもない考えが、唐突に浮かんだのだった。
 ぼくはケータイのボタンを叩くと一番よく使う番号を急いで押した。
「……もしもし姉貴? 姉貴さ、絶対もう家に帰ってる、よね?」
「なに? 確かにもう帰ってるけど、何でそんな自信ありげなのよ?」
「なんでもないって」
「なんでもないならなんで掛けてきたのよ。ったく。……あ、そうだ、あんた今どこ? ついでだから」
「姉貴、コンビニで湿布買って帰ろうか?」
「……なんであんたがあたしの言いたいことを知ってるのよ。なんか気持ち悪いわね」
「まあ、そんなのはささいなことだって」
「ふん、どうでもいいけど。じゃあ頼んだからね。湿布代くらいそっちで持ってよ?」
「お気に召すままに」
 そしてぼくは電話を切って、やみくもに明るい自動販売機を見た。それから、出てこない缶コーヒーに姉が憤る場面を想像したら、思わず笑い出してしまいそうになった。
 そうか、ミドルキックじゃなくてストレートだったか。姉はキックよりパンチが得意だったなんて、ぼくは盛大に勘違いをしていたいみたいだ。
 湿布は、一番高いのを買っていこう。そう思った。どうせ代金はぼく持ちなのだ。
 姉が払うわけじゃないから、いくらのを買っても文句は言われないはずだ。
 湿布って一体いくらぐらいなんだろう。運動部じゃないぼくにはわからない。姉だって知らないだろう。
 それでも、せいぜい高くても1000円は超えないだろうな、とも思う。
 ボロネーゼのお返しと思えば、こんなのは安いもんだ。
 そう、こんなのはあまりに安い。祖父や姉なら口をそろえて「高い」なんて言うだろうけど、ぼくにしてみれば、そんなのはどうだっていいのだ。
 そう、そんなのはどうだっていい。
 姉はどう言うか知らない。けれど姉とぼくの関係なんてこのくらいがちょうどいいのだと思う。お札1枚。風が吹けば間違いなく飛んでしまうだろう。けれど、飛ばないように大事にすることだっていくらでも可能だろう。
 指輪がなくなった指に湿布を巻くのは、きっとぼくの役目のはずだ。

  <了>



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