【 その重さ 】
◆zsc5U.7zok




25 :No.07 その重さ1/5 ◇zsc5U.7zok:08/01/28 16:09:49 ID:+qrCveeM
 濁っていて底が見えない。
 深い川というのは、その川底に何が潜んでいるのかと想像をしてしまう。
 もし飛び込んだら……。
 その川底に潜む何かに引きずり込まれるのだろうか?
 それとも、淀んだ水の層を抜けた先には、色取り取りの魚達の楽園が広がっているのだろうか?
「やめよう、拉致も無い妄想は」
 いずれにしろ、僕は自身の目の前を流れる川を越えて、その先にある場所に行かねばならない。
 理由は分からないが、そこに行けばはっきりする……何か確信めいたものが僕の中にあった。
 そもそも、この状況に驚いていないことが一般的には不思議であるが、僕自身は今この瞬間に何
の不満も沸かなかったので、それだけで納得してしまう。
 
 さて、どうやって渡ろうか?
 この淀みでは深さが分からない。
 僕は決して泳ぎが達者な方ではないし、何よりも服が泥水で濡れてしまうのは避けたい。
 これだけ大きな川だ。どこかで渡してもらえる場所は無いだろうか? 見た感じボートも浮かん
でいないが、歩けばそのうち出くわすだろう。
 楽観的な予想と共に、取り敢えず川に沿って歩いてみることにする。
「それにしても、嫌な空模様だなぁ」
 濃い灰色の雲が空全体を覆い、今にも雨が降ってきそうだ。
 そういえば、イギリスはこういう天気の日が多いから自殺者が多い……なんてことを思い出す。
確かに、こんな淀んだ空を見続けたら、それだけで気分が落ち込んでしまうだろう。
 これならば、いっそのこと雨が降っている方がマシだ。汚い川の水は御免だが、雨に濡れて歩く
のは嫌いじゃない。
 しばらく空を見て歩いていると、石ころに足を取られ転びそうになった。
 よくよく周りを見渡してみると、様々な大きさ、形の石ころがそこかしこに転がっている。
「危ないなぁ」
 僕ははずみで脱げかけた靴を履き直した。

26 :No.07 その重さ 2/5 ◇zsc5U.7zok:08/01/28 16:10:23 ID:+qrCveeM
「こんにちは」
 唐突に声を掛けられる。
 スーツを着た初老の男性だ。ネクタイは締めておらず、何かに疲れたような表情。
 仕事の合間に、川を眺めに来たのだろうか? なんて勝手に解釈する。
「あ、こんにちは」
 僕は取り敢えず挨拶を返す。
「貴方もこの先に行くのですか?」
「ええ、そうしたい所なんですが、実はちょっと途方に暮れておりまして。この辺りに、橋かボ
ート乗り場なんてありませんかね?」
 どうやら、目的は一緒だったらしい。思い切って、聞いてみた。
 しかし、その男性は弱々しい微笑みを浮かべ、言う。
「貴方がうらやましい。そんな顔で向こうに行きたいと言えるのですから。私もそんな風に……」
 最後の方は聞き取れなかった。
 聞き返そうとした時には、もうその男はどこにもいなかった。
 
 またしばらく歩くと、はるか前方にある何かに気付く。
 川岸から伸びた足場……どうやら船着場のようだ。
「あそこからなら、ボートが出ているかも」
 多少足を速めそこに向かう。
「どけ!」
 叫び声と共に、僕はいきなり弾き飛ばされた。
 見ると、体中至る所をキラキラさせながら、僕の二倍はあろうかという太った体を揺すらせて、
船着場に走っていく男が見える。
 指という指に金銀様々な宝石の指輪を嵌め、両手に抱えた札束を少しずつ溢しながら必死に走っ
ている滑稽な姿。
 僕は、転ばされたことに文句を言うことも忘れ、その姿を酷く冷めた目で見つめていた。

27 :No.07 その重さ 3/5 ◇zsc5U.7zok:08/01/28 16:10:48 ID:+qrCveeM
 僕がそこに着くと、先ほどの太った男が渡し守らしき人に、自分を向こう岸に連れて行くよう必
死になって頼んでいた。
 詰め寄られている方は、頭の上から布切れを被り、その表情はイマイチ読めない。隙間から見え
る長い髪とスタイルから、かろうじて女だということが分かるのみだ。
「何故ダメなんだ!? 金ならいくらでもやると言ってるだろう! たかだか向こう岸に連れて行
けと言っているだけだぞ!」
 男はその懐から、まるで手品のように後から後から様々な国の札束を取り出しては、その女に押
し付けた。しかし……
「このお金ではダメです。他を当たってください」
 渡された金を川に向かって放り投げる女。
 勿体無いなぁ、なんてマヌケな考えが頭を過ぎった。
 太った男は、それをうんざりしたような泣きそうな顔で睨み付ける。
「いい加減にしろ! 今まで何度同じ言葉で断られたと思ってるんだ。わしはもうこんな辛気臭い
所をうろうろするのは御免なんだ。何故ダメなのか、理由を答えろ!」
 確かに。
 あれだけの金を渡されれば、普通の人間ならば喜んで何でもしてやるに違いない。
 問われた女は、無言で先ほど川に向かって放り投げた金を指差した。
 すると、どうしたことか、先ほどまでは水面を漂っていたお札が次々と、ブクブク音を立てなが
ら沈んでいってしまったのだ。
「見ましたね。あんなお金を貰っても、この船は沈んでしまうのですよ。どうしても違う所に行き
たいのなら、自分の足で川に入ってください。取り敢えず、こことは違う場所には行けますので。」
 言い終えた女は、どうやらもう太った男には興味も無くなったようで、顔を僕に向けてきた。
「貴方もこの川を渡りたいのですか?」
「え、ええ。ただ、僕は肝心の渡し賃を持っていないのですが……」
 目の前、あれだけの大金でも断られている人間を見せられているのだ。僕に、払えるはずも無い。
 しかし、女はそんな僕の心を見透かしたように言った。
「見ていたのでしょう? 額は問題ではないのです。貴方のポケットの中に入っているお金を川に
投げ入れてみてください。」

28 :No.07 その重さ 4/5 ◇zsc5U.7zok:08/01/28 16:11:17 ID:+qrCveeM
 何を言っているのだろう?
 不思議に思いながら自分のポケットを探ると、なるほど言われた通り六枚の硬貨が入っていた。
「え!? 何故分かったんですか? 僕自身、ポケットの中身なんて気付かなかったのに」
「そんなことはどうでもいいでしょう? さっさと投げ入れて下さい」
(無愛想だなぁ…)
 僕は言われた通り、手の中のうち一枚を川に向かって投げ入れた。
 ただ、考えてみると硬貨が浮くわけが無いのだけれど。
「はい。では行きましょうか」
 ……無いのだけれど。
 僕は、川の水面を漂う硬貨を眺めながら、少しの間呆然としていた。

「あのおじさんは、何故ダメだったんですか?」
 舟の上で女に聞いてみた。
「言ったでしょう? 彼のお金ではその重みで川の底に引き摺り込まれてしまうからですよ」
 確かに、彼のお金はあの後何度試しても、全く浮かなかった。
 僕は質問を変える。
「僕のお金と彼のお金は何が違ったのですか?」
「彼のお金に纏わり付いているのは、人の恨み、妬みばかり。川の底の住人は、そういった思い
が大好物なのですよ」
 背中を変な悪寒が走る。
「あのおじさんはどうなるのですか?」
 女はしばし黙った後、答える。
「永遠にあそこを彷徨うか、あの場に耐え切れずに川に入り、自身の持つお金に相応しい場所へ
と向かうことでしょう」
「では、僕のお金は?」
「貴方のことを悲しむ思い、慈しむ思いに包まれていました。良い人生だったようですね」

29 :No.07 その重さ 5/5 ◇zsc5U.7zok:08/01/28 16:11:45 ID:+qrCveeM
 ああ、なるほど。そういうことか。
 ここにきて、僕は全てを理解した。
「さて、着きました。この先はお金など必要の無い世界。貴方を知る者も何人か待っていること
でしょう。先ほどの男のような人生を送らなかったことを心から喜び合いなさい。」
 布の隙間から、彼女の優しそうな微笑みが見えた気がした。

 僕は、残りの五枚の硬貨を彼女に渡し、その川に背を向ける。
 地獄の沙汰も金次第。あれだけの大金を抱えた男がこれからどうなるのか? なんてくだらな
いことを考えたりしながら、僕はこの先にあるだろう世界に思いを馳せた。


  了



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