【 Want ―それぞれの事情― 】
◆Jt58MPybkw




11 :No.04 Want ―それぞれの事情― 1/5 ◇Jt58MPybkw:08/01/26 17:41:01 ID:19pLuUKv
――○×県△□市の住宅地で、男が通行人を刃物で脅し、現金1万5千円を奪い逃走したが、通報を受けた警察官
が男を現行犯で逮捕した。調べによると、男は、「遊ぶ金が欲しかった」「反省している」と供述しているとい
う。また、男は犯行の前に、女性に暴行しているところが目撃されており、余罪の追及も――


「一万五千円って……。リスク大きすぎだろ。そこまでしてお金が欲しいかね」
 携帯電話でニュース速報を眺めながら、井口新之助はそうぼやいた。
 大学の講義が午前中で全て終わり、新之助は家に帰る途中だった。駅の改札口を抜けて、駅前広場に出る。途
端に冷たい風が新之助の頬を刺し、彼はマフラーの位置を少しだけ上にあげた。
 駅前の人通りは少なかった。平日の昼間だし、この町自体が都心から大分離れた所にある、ちょっとした田舎
のようなものだから、当然だろう。そんな人通りの少ない広場だったが、それでもチラシやポケットティッシュ
を配る人の姿は見受けられた。数少ない通行人の登場を待ちわびていたのか、新之助のもとに次々とチラシや
ティッシュが差し出されていく。けれど、新之助はその全てを無視して、広場を足早に通り過ぎていった。
 駅から離れて少ししたところで、ズボンのポケットに入れていた携帯電話が振動しだした。新之助が取り出し
て見てみると、サークルの後輩、新山陽菜(はるな)からの電話だった。新之助は通話ボタンを押して電話に出た。
『あ、先輩。今どこに居ます? 今度のキャンプのやつで、渡したいものがあるんですけど』
「××駅。もう家帰るところだよ」
『××駅? 丁度、私今電車に乗ってるんですよ。今からそっち行きますね』
「いや、来なくていいよ。明日渡してくれればいいから」
『いえいえ。今日中に見たほうがいいですって。見れば、きっと先輩もワクワクしますよ』
「いや、別にワクワクはし――」
 新之助が話している途中で、電話は一方的に切られた。
 このままだと、この寒空の下、陽菜が来るのを待たなければならない。電話かメールをして、来なくてもいい
と伝えようかと思ったが、それはそれで面倒くさい。新之助は、陽菜のことはそのまま放置することにして、
とっとと家に帰ることにした。
 携帯電話をポケットしまい、歩き出そうとしたその時だった。急に新之助の腹が痛み出した。突然の腹痛に、
新之助は思わずお腹に手をあて、うめき声を上げた。それは、間違いなく便意だった。しかもかなりのビッグ
ウェーブ。
 慌てて辺りを見回した新之助の視界に、駅前公衆便所が映った。新之助は急いで便所の中へと駆け込んだ。
 これ以上ないほどに機敏な動きで個室に入った新之助は、素早くズボンを脱ぎ、便座の上に腰を下ろそうと――したその時、

12 :No.04 Want ―それぞれの事情― 2/5 ◇Jt58MPybkw:08/01/26 17:41:26 ID:19pLuUKv
とんでもないことに気がついた。
 紙がなかったのだ。本来トイレットペーパーが収められているはずのところに、芯の部分しか設置されていな
かった。新之助は便器の周りをくまなく探したが、予備の紙は用意されていなかった。
 ズボンを履き、新之助は隣の個室へと移動した。が、そこにもトイレットペーパーは存在しなかった。その隣
も。そしてその次も。掃除用具入れの中も確かめたが、予備の紙はどこにも置かれていなかった。
 新之助の脳裏に、最悪の光景がよぎる。脈拍数が上昇し、真冬の寒さの中、額に汗が滲み出てきた。
(女子トイレに行くか? いや、それはさすがに危険か。けど、今は緊急事態だし。いやでも、もし見つかった
ら変態扱いされるし、警察署はすぐ近くにあるし……)
 新之助の頭がフル回転して、次の一手を模索する。
(女子トイレはとりあえず止めておこう。近くにトイレ。トイレ……駅の向こう側に、確かコンビニがあったは
ず。そこで貸してもらうしか手はないか……)
 結論に至った新之助は、すぐさまトイレを出て目的のコンビニへと向かうことにした。コンビニがあるのは、
今新之助がいる場所から、駅前広場を挟んで反対側。そこを少し進んだところにある。広場自体はそんなに広く
はない。通り抜けるのにかかる時間は、せいぜい一分かそこらだろう。けれど、今の新之助には、目の前にある
広場が、まるで海原のように広く感じられていた。
「あ、いたいた。せんぱーい」
 間の抜けた声が聞こえたのは、新之助が大海原に足を踏み出そうとしたその時だった。見ると、さっき電話を
かけてきた陽菜が、駅から出てきたところだった。陽菜は手を振りながらこちらへと駆けてくる。
 最悪のタイミングで、最悪な奴で出会ってしまった。新之助はそう思った。今の新之助のおかれた状況を全く
知らない陽菜は、満面の笑顔で新之助の隣までやって来た。そして、背負っていたリュックサックを下ろして、
中から一回り小さな迷彩柄の鞄を取り出した。
「これです! 今度のキャンプで使うために私が特別にセットしたサバイバルキットです! 名づけて、『特製
サバイバルキット made by 陽菜』です! どうです、ワクワクしてきたでしょう?」
「寒気がしてきた……」
 下腹部を襲う痛みに耐えながら、新之助は声を僅かに震わせて、そう答えた。しかし、陽菜の方はそんな新之
助の異常に全く気づいていないらしく、意気揚々と鞄の中身を紹介し始めた。
 懐中電灯、軍手、絆創膏に消毒液。方位磁針に携帯用浄水器。ライター、懐中電灯、ウェットティッシュ、テ
レビのリモコン――
「あっ、テレビのリモコンがないと思ってたら、こんなところに入れてたんだ! よかったー見つかって。昨日
から、NH○教育しか見れなくて困ってたんですよー。危うく、わ●わ●さんの真似しておもちゃ作るところでしたよ」

13 :No.04 Want ―それぞれの事情― 3/5 ◇Jt58MPybkw:08/01/26 17:41:50 ID:19pLuUKv
 どうでもよかった。それよりも、新之助は懐中電灯が二つ入っていたことのほうが気になっていた。しかし、
それを口にする気力も、今の新之助にはない。
「そして、じゃじゃーん! 今回の目玉、サバイバルナイフです!」
 最後に陽菜が鞄から取り出したのは、えらく大きなナイフだった。
「なんとこのナイフ、物を切る以外にも、栓抜きになったり缶きり代わりにできたり、色んな機能がついている
んですよ!」
「あ、あのな、俺は今非常に切羽詰っていて……」
「なんとこのナイフ、今回はお店のおっちゃんのご好意で、定価の三割引で売ってもらいました! んーっ、
おっちゃん太っ腹!」
 買い物の時のことを思い出したのか、陽菜は店長の背中を叩くジェスチャーをした。一方新之助は、早く目の
前の馬鹿が立ち去ってくれることだけを願って、怒気の篭った目線を陽菜に送っていた。
「それでは先輩っ。この『特製サバイバルキット made by 陽菜 with おっちゃん』を贈呈します! 今度の
キャンプの時は、ちゃんと持ってきてくださいねっ!」
 そう言って、陽菜は新之助に、サバイバルキットを投げつけるようにして渡した。かなりの勢いで押し付けら
れた鞄は、新之助の腹部を痛打した。
「――!」
 声にならない悲鳴を上げる新之助。衝撃が、肛門に怒涛のごとく襲い掛かった。瞳にうっすらと涙を浮かべ、
それでも新之助は全身の力を尻に総動員して、瀑布の発生を阻止した。
「さて、目的も達成したことですし……」
 早く帰れ、早く帰れ、早く帰れ。
 新之助の脳内で、この言葉だけが何度も繰り返し再生される。今新之助が望むことは、とにかくこれ一つだっ
た。何でもいいから、早く帰って、俺をトイレに行かせてくれ。それだけを願い、懇願するような顔で、新之助
は陽菜を見つめていた。
「あ、そうだそうだ。忘れるところでした。今日の夜、日●テレビで放送されるドラマ、先輩の家で録画してく
れませんか? 家のが故障してて、録画できないんですよー」
「あ、あぁ。録画してやる……から。いくらでも録画してやるから、だから……とっとと帰れ……」
 陽菜は感謝の言葉を述べると、満足そうな笑みを浮かべ、リュックサックを背負った。
 ようやく帰ってくれるのか。安心したせいで肛門が僅かに緩み、新之助は慌てて尻に力を籠めなおした。
 陽菜は、キャンプの時にサバイバルキットを忘れないようにと、何度もしつこく注意してから、ようやく踵を
返し――思い出したかのようにこちらを振り向いた。

14 :No.04 Want ―それぞれの事情― 4/5 ◇Jt58MPybkw:08/01/26 17:42:15 ID:19pLuUKv
「あ、そうだ忘れてました。先輩、今日の講義のノート――」
 新之助の中で、何かが切れた。
 次の瞬間、新之助の放った右張り手が、陽菜の左頬に見事にクリーンヒットし、広場全体に響き渡るほどの
快音を響かせていた。
「なにゆえにっ?」
 妙な叫びを上げて、陽菜は地面に倒れこみ、そのまま気絶した。
 疎らだが少しはいた通行人が、皆二人の方を見て、何事かという目線を向けた。しかし、今の新之助に、奇異
の目線を気にするほどの余力は残されていなかった。
 肛門に押し寄せる便意はすでに限界かと思えるほどに激烈で、括約筋は渾身の力で引き締められている。踏み
出す一歩が全身の細胞からエネルギーを奪い取り、呼吸の一つが緊張させた筋肉を弛緩さようとする。容赦なく
襲い掛かかる荒波は、確実に新之助の精神力と理性を削り取っていた。
 このまま、広場を越えてコンビニに辿り着くことは困難極まりない。いよいよ終わりか、とそう思った新之助
に、ある光景が飛び込んできた。
 駅の建物の入り口。そこから出てきたスーツ姿の男が、歩み寄ってきた男性にあるモノを手渡されていた。
ポケットティッシュだ。
 新之助の頭が計算を始める。このままコンビニに向かうべきか、それともティッシュを貰ってさっきの公衆便
所に引き返すべきか。どちらが距離的に近いか。計算結果は、ティッシュを貰ったほうが早い、というものだった。
 地面に倒れて伸びている陽菜はそのまま放置して、新之助はポケットティッシュを配る男のもとへとにじり
寄っていった。
「ティッシュを……ください」
「え? あ、ごめんなさい。丁度今、全部配り終えたところで……」
「……な、なんですって?」
 見ると、確かに男の傍らに置かれたダンボールは空だった。
 こんなに人通りが少ないのに。要らない時は嫌ってほど渡してくるのに。何故、今日この時に限って無いとい
うのか。神の悪戯、いや紙の悪戯か。どちらにしても、あまりにも性質が悪い。
 今度こそ、本当に終わりか。そう思った新之助だったが、ふとあることに気がついた。今はもう無くても、
さっきティッシュを貰った人がいたじゃないか。その人に、ティッシュを譲ってもらえばいい。
 視線を広場に巡らせる。目的の人はすぐに見つかった。見ると、今もその人は片手にティッシュを持っていた。
 しかし距離がある。走って追いかけるなど不可能だ。ならば、呼び止めるしかない。しかし、果たして今の自
分に彼を呼び止めるほどの声量が出せるだろうか。新之助は一瞬悩んだが、それ以外に方法はない、このまま

15 :No.04 Want ―それぞれの事情― 5/5 ◇Jt58MPybkw:08/01/26 17:42:43 ID:19pLuUKv
こまねいていては、男性はすぐにどこかへ行ってしまう。新之助はそう考え、出来る限り尻に負担をかけないよう
に、細心の注意を払って声をあげた。
「そこのスーツ姿の人! ちょっと待ってくれ!」
 新之助の声は届いた。スーツ姿の男は立ち止まり、こちらを振り向いた。すぐに、新之助も彼のもとへ歩き出
す。歩くといっても、ほとんどすり足状態で、はたから見るとかなり怪しい動きだ。しかも、今の新之助の表情
は鬼神のごとき形相をしている。
「てぃ、ティッシュを……譲ってくれ……」
「は、はぁ?」
 訳が分からないといった表情だった。当然だろう。この状況で、はいどうぞ、と素直にティッシュを渡せる人
はそうは居ない。
 男は訝しげに新之助を睨むと、僅かに体を身構えさせた。
 その行動が悪かった。男としては、怪しい人物の登場に警戒しただけなのだが、理性がほとんど飛んでいた
新之助からは、体を僅かに引いた男の体勢が、まるでポケットティッシュを渡すまいと隠しているように見えた
のだ。
(この男は、陽菜同様俺をトイレに行かせまいとしている。容赦する必要は無い)
 フリーズしかけの新之助の脳が、甚大なエラーを起こした。
 新之助はさっき陽菜から渡された鞄を開け、その中からサバイバルナイフを取り出し、男に向かってつきつけ
た。ナイフの切っ先は小刻みに震えていた。
「ポケットティッシュをよこせぇ……」
「な! あ、あんた正気かっ!」
「うるさいぃ。そいつをよこせぇっ」
 ナイフが、ふらふらと空を切った。


――○△県☆×市の××駅前広場で、男が通行人を刃物で脅し、ポケットティッシュを渡すように要求したが、
駆けつけた警察官によって取り押さえられ逮捕された。調べによると、男は、「ティッシュが欲しかった」
「反省している」と供述しているという。また、男は犯行の前に、女性に暴行をしているところが目撃されてお
り、余罪の追及も――

おわり



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