【 密告カルテ 】
◆4oIY5Zvkdw




106 :時間外No.02 密告カルテ 1/4 ◇4oIY5Zvkdw:08/01/21 00:18:37 ID:LxjtZKMT
 医療従事者には患者の情報に対して守秘義務があり、違反した場合、刑法で罰則が定められている。
 医師になってからというもの、美穂子は何度もその文章を反芻し、頭の中に貼り付けた。実際に紙に書いて
部屋の中に掲げようとも思ったほどだ。食事の合間にふと溜息を付いてしまう時、夜中まで眠れない時、美穂
子はそのことを考えずにはいられなかった。そうして眠れないまま朝を迎えることも珍しくなかった。

「先生、次の患者さんをお呼びしてよろしいでしょうか」
 看護師に言われて、美穂子は軽く頷いた。
 デスクの上の書類箱には、カルテが山積みになっている。平日の午前中だというのに、この調子では今週の
土曜日まで混雑が続くだろう。風邪が人から人へ感染するように、うつ病もまた、触れた人の心を侵していくよ
うだった。特に正月明けのこの時期は、生活リズムを戻せなかったり、学校や会社で新たな悩みを見つけたり
して、心療内科にかかる者も多い。ある程度長い休みの後では、見慣れた光景だ。
「どうですか、調子は」
 目の前の患者に、一応聞く。婦人は暗い表情のまま、夜は薬を飲んで眠っているが、朝、目覚めた時の絶
望感に耐えられない、と答えた。美穂子は相槌を打ちながら、経過と薬の処方に関して手早くカルテに記入し
た。内容に関しては、前回とそう変わらない。蒸発した夫が帰って来るまで、または何でも話し合えるような友
人が見つかるまで、この患者の欄にはずっと同じ事を記入するだろう。美穂子は半ば確信しながら、無理矢
理笑顔を作り、お大事に、と言った。

 美穂子が真面目に患者の話を聞き、理解しようとしたのは、最初のほんの二、三年だった。
 うつ病は必ず治ると信じ、また患者にもそう説いた。しかし、実際に治る患者は全体のうちの一握りで、
一度は治ってもまた再発する人や、ほとんど薬に依存している人も後を絶たなかった。それらの病には必ず
原因があり、それを薬で取り除くことは出来ない。話を聞いているうちにその根まで辿り着いても、最終的に
対処できるのは本人だけだ。そのことを思い知った美穂子は、ただ淡々と問診をし、淡々と薬を処方する
医者になった。
 それでも、毎日見せられる他人の心の暗部は、彼女の中に埃のように蓄積され、睡眠薬をくすねる原因と
なっていた。

 ベッドに入りながら美穂子は、薬の入ったポーチをロッカーに置き忘れたことを、相当に悔やんだ。しばらくは
横になったまま天井のぼんやりとした模様を眺めていたが、眠れそうにないのを悟ると、半身だけ起こし傍らの
煙草の箱を手に取った。

107 :時間外No.02 密告カルテ 2/4 ◇4oIY5Zvkdw:08/01/21 00:18:56 ID:LxjtZKMT
「火、お付けしましょうか」
 驚いて後ろを見ると、孝司が顔を美穂子の方に向けて微笑している。
「なんだ、起きてたの」
 美穂子は手に持っていたものを彼に返し、前髪をかき上げた。
「あれだけ運動しても眠れない?」男は煙草に火をつけながら言う。「もっとしようか」
「馬鹿。……心の問題よ。私は、不健全なの」
 薄暗い密室。男の呼吸に合わせて煙草の先の灯が瞬いている。蛍みたいだ、と美穂子は思った。
「俺でよかったら、話聞くよ」
「その気もないくせに」
「本当だって。別に口外なんてしないし」
 再び、馬鹿、と言いかけて、美穂子は考えてみた。確かに、この男なら、大丈夫かもしれない。お互いの仕
事はもちろん、住所や、普段の生活のことは全くといっていいほど知らないし、月に一度会うか会わないか、と
いう関係を続けて一年以上も経つが、街中でばったり遭遇したことは一度もない。
 それなら、と言って美穂子は孝司の横に身体を滑り込ませた。「話、聞いてくれる?」
 もちろん、と孝司が言ったのが合図だった。
「知り合いの話なんだけど……」
 と、患者の立場をやや置き換えて、美穂子は語りだした。
 
 その日、明け方まで他人の秘密を喋り続けた美穂子の心は、風船のように軽くなっていた。医療従事者と
しての罪悪感は、もはやほとんど消え去り、ただ汗を流しきったかのような爽快感だけがあった。
 そのおかげか、夜もすんなりと眠れるようになった。彼女は活気を持って日々の業務に勤しみ、患者のケア
にも積極的に臨んだ。そしてまた澱が溜まってきたら、孝司と会い、他人の秘密を吐露した。面白いね、と彼
が真面目に耳を傾けるのが拍車となり、そんなサイクルが数ヶ月も続いた。
 ある患者が、彼女の元へ来るまでは。


108 :時間外No.02 密告カルテ 3/4 ◇4oIY5Zvkdw:08/01/21 00:19:21 ID:LxjtZKMT
「牧野さん、どうですか、調子は」
 美穂子はにこやかに問いかけた。
 牧野和恵は最初、息子の登校拒否で来院して以来、彼女自身も抗うつ剤の投薬を続けている
患者だった。
 はあ、と和恵は生返事をしたまま目を泳がせていたが、やがて美穂子を挑むように見つめ、言った。
「先生、火曜日の夜にやっているドラマ、知ってます?」
 予想外の質問にいささか驚きながらも、美穂子は答えた。
「テレビは見ないので、分かりませんが。それがどうかしましたか?」
 和恵は、何かを探るように、医師をまっすぐ見ながら、続ける。
「それが、私とそっくりな境遇の人が出てくるんですよ。ここで喋ったことまで、あまりに似ているから、
私、びっくりしてしまって」
 憤然とした口調だった。美穂子は視界がぐるぐると回り、血の気が引いていくのを感じた。
「人の悩みって、ある程度共通点があるものですからね」
 冷静を装いつつ、早口に言った。ボールペンを持つ手が、かすかに震えた。さりげなく壁の
カレンダーを見る。次の火曜日は、二日後だ。

 ご丁寧にも『心療内科の現場から』と副題まで付いたそのドラマは、美穂子が抱えていた様々な患者の
秘密を、克明に描いていた。彼女は頭痛を堪えながら、最後のスタッフロールに至るまでテレビの前に
座り込み、流れていく文字を凝視した。原作者、塩川孝司。
 その名前を目に焼き付けると、受話器を取り、短縮ダイヤルのボタンを押した。軽快なプッシュトーンが
耳に響く。十数回目の呼び出し音が鳴ったところで、ようやく彼が出た。
「美穂子か。どうした」
 声の向こうは、ざわざわしている。大勢の人が居るようだ。
「どうしたじゃないわよ。口外しないって、言ったじゃない」
 美穂子は怒鳴るようにして言った。カチ、と火をつけるライターの音が聞こえる。
「口外はしてないよ。書いただけさ」
 彼はおどけるようにして答えた。実際、にやついているのだろう。想像すると美穂子の腹は煮え立った。

109 :時間外No.02 密告カルテ 4/4 ◇4oIY5Zvkdw:08/01/21 00:20:47 ID:LxjtZKMT
「ところで今、パーティ中なんだよ。ドラマの視聴率が良いらしくてさ。あ、美穂子も来る? 原作者の、原作者
として」
 美穂子は何も言わずに電話を切った。熱い涙が頬を流れた。こんなに悔しい思いをしたのは大学受験に
失敗した時以来だ。
 
 彼女が泣き続けている間に、電話が何度も鳴った。出る気力も無く、留守番電話に切り替えると、間もなく
して伝言が入った。孝司からだった。
「悪いと思ってるよ。でも、俺を切り離したら、困るのは美穂子じゃないのか。また夜、眠れなくなるんだろ」
 美穂子は泣き腫らした目で、電話機を睨んだ。こんなにも憎らしく、的確なことを喋る機械を壊してしまいた
かった。鼻をすすりながら立ち上がり、くぐもった音を発し続ける物体に近づく。
「美穂子の知り合いだって、気付いてないだろ。たとえ気付いたとしても、」
 勢いよく電話線と電源を引き抜いた。知り合い、という単語を耳にして、美穂子は二日前のことを思い出し
ていた。


「とにかくそのドラマを見たら、私」
 牧野和恵は、薬のせいで少しむくんでいる顔をさらに膨らませた。
「自分と同じように悩んでる人が居るんだ、って、少し楽になって」
 と、たっぷり詰め込んだ息を吐いた。


 依然としてテレビの空々しい音が流れる部屋で、美穂子はパソコンの前に座った。もう涙は止まっていた。
 モニターには、「密」という言葉がぽつんと、映っている。彼女は頭の中を攪拌するように首を捻り、やがて意
を決したように、画面に文字を打ち込んだ。タイトルは決まった。そして、「医療従事者には患者の情報に対し
て守秘義務があり、違反した場合、」と始まりの文を叩き出すと、水を得た、あるいは陸に打ち上げられた魚
のように、キーボードの上で指を躍らせた。

(了)



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