【 言わない秘密 】
◆nsR4m1AenU




112 :時間外No.03 言わない秘密 1/5 ◇nsR4m1AenU:08/01/22 09:49:50 ID:IGzriZOM
 照明が届くぎりぎりの場所でもある、体育館の壁へもたれかかる黒いジャージ上下の男。
 一方向をじっと見つめる彼の腕には、金色で大学名と『剣道部』の文字が縫いこまれて
いた。周囲の父兄に比べ、余りにも若く背も大きい。しかも角刈りで大きな上背はどこか
威圧感を漂わせていた。
 その男の傍へ、ブレザーとチェックのスカートで揃った二人の女の子が近づく。一人は
遠慮がちに様子をうかがい、もう一人はその後ろをぴったりとついていた。
「あ、あの。坂本先輩のお兄さん、章さんですよね?」
 怯える小動物のような二人を章は怪訝そうに見下ろすと、さっきまでの難しい顔から頬
を幾分ゆるめ、ゆっくり腕組みを解いた。
「そっちの子は茜の後輩、かな? 妹が世話になってるね。ありがとう」
 そう言って軽く頭を下げる章。同時に足元のトートバッグを背後へそっと蹴った。
「え? いいえ。とんでもない!」右側の子が両手の平を大きく左右に振る。「坂本先輩
にはいつも色々と良くしてもらってます」
「本当に? あいつ、そんな優しくないだろ?」
 ぐっと笑顔を近づける章。
 困ったような顔で、章の視線から逃れてうつむく女の子。その向こうで一段とざわめき
が大きくなった。
 章が少し視線を起こす。
 剣道着の一群から抜け出すように一人の女の子が立ち上がった。他の部員と比べても頭
一つ背が高い。前垂れには白い字で、中学校名と『坂本』の文字が見える。
 深く大きな瞳で試合場の向こうを睨んだまま、ショートボブの黒髪を手ぬぐいで覆う。
面を装着し、後頭部の紐をちぎれんばかりに固く縛る。竹刀を左手に持った。
 二人の女の子はお互いに目を合わせた。
「坂本先輩だ。……じゃあ、大将戦?」
 二人は章へ会釈してから慌ててスカートをひるがえした。
 その背中を見送りながら、一人になった章は再び腕を組み、小さく見える茜の横顔へ視
線を向けた。

 試合が始まって数分が経過している。

113 :時間外No.03 言わない秘密 2/5 ◇nsR4m1AenU:08/01/22 09:50:07 ID:IGzriZOM
 会場では激しい打ち合いが繰り広げられていた。
 全力で茜が打ち込む。相手も打ち込む。双方の竹刀が互いの面を捉えた。破裂したよう
な二つの音がこだまする。
 会場が静まる中、審判は無言で紅白の旗を左右へ振る。相打ちという判定である。
 試合場を挟む人の群れからどよめきが起きた。
 章は点数表をちらりと見る。1対1を示していた。
 審判が再び開始の合図を出す。
 茜と相手は激しく打ち合う。竹刀が裂けるような打撃。それらの全てをお互い紙一重で
かわした。
 相手が踏み込んだ途端、周囲が騒ぎだした。章が背伸びをするようにその様子を伺う。
「あ、転んだか」
 素早く体を起こし、床へ手をついて四つん這いのまま肩で息をする対戦相手。反対側で
立つ茜も、肩と胸を大きく動かしていた。
 再び双方が向かい合う。そして試合再開。
 双方が間髪いれず突っ込む。だが、目一杯踏み込んだ茜の足元が崩れた。 
 茜は転びそうになるのを踏ん張り、竹刀を打ち込もうとした。だが、相手が振り下ろす
竹刀が先に入る。まるで鞭のように竹刀をしならせ、茜の面から乾いた打撃音を立てた。
 双方の関係者から声があがる。続いて歓声の声が相手側陣営から溢れ出した。
 章は足元へ視線を落とした。トートバッグのだらしなく開いた口を覗き込んでから再び
顔を起こす。
 茜は自陣へ戻ろうとしていた。向こう側では歓喜の声が上がり続け、自陣側ではどよめ
きと不満を漏らす声がまばらに出ている。
 顧問らしき人間とブレザー姿の女の子数人が茜をとり囲み、なにやら話し合っている。
 突然、茜は人をなぎ払うように両手を振った。
「彼女が転んで、床が汗で濡れていたのは知っている。相手も滑って転んでいたかもしれ
ない。だから自分の運が悪かった。審判へ申し立ては勿論、今更何も言うつもりは無い!」
 体育館に茜の声が響き渡る。
 それまで、雑多な声の交じり合った空間が水を打ったように静まり返った。

 体育館からはほとんどの人が姿を消していた。照明の消えた今は薄暗く、物音もわずか。

114 :時間外No.03 言わない秘密 3/5 ◇nsR4m1AenU:08/01/22 09:50:20 ID:IGzriZOM
 茜は試合中ずっと座っていた場所でまだ正座を続けている。口を一文字に結び、両手を
膝の上へ乗せている。親指を握りこんだ拳は白くなっていた。
 章も壁へよりかかったまま、微動だにしない。時折尻と上腕をぼりぼりかく程度だ。
 そんな章のもとへ、さっき話し掛けてきた二人が近づいてきた。
「それでは坂本先輩のこと、よろしくお願いします」
「すまんね、面倒かけて。あいつ怒り出すと手がつけられないからな。ま、俺に任せとい
て。三十分後に戸締りを頼むよ?」
 小さな声で章と女の子は会話を交わした。
 二人の女の子が体育館から姿を消すと、ほぼ無音になった。外では蝉が鳴き狂っている
というのにその声も届かない。僅かに汗のにおいとさっきの女の子が残した香り、それと
体育館特有のかび臭さが漂っていた。
 章は腰を少しかがめ、指先ぎりぎりでトートバッグのストラップを握った。少し持ち上
げて握り直すと、茜へ向かってそっと歩く。十歩ほど進んでから「茜、ご苦労さん。残念
だったな」と声をかけながら茜の横へ腰を降ろした。
 あぐらをかきトートバッグを傍らへ投げ出すように置く。
 そんな章の仕草にも眉毛一つ動かさず、茜は相変わらず真っ直ぐ見据えていた。
 章は茜の横であぐらをかきなおして苦笑する。
「お前は相当強いのに、よりによって全国トップクラスの相手だったからな」
「慰めに来たのだったら、とっとと帰って」
 顔色ひとつ変えずに茜は言った。
 章はうつむきながらため息をひとつつく。尻を浮かせて斜めに茜を見る位置へとずれた。
次に見せた顔はどこか悲しそうで温かそうでもあった。
「お前の小さなときからの癖だ。今まで言わなかったけど、親指を握りこむのってお前が
泣きたくなったときなんだ。気づいてたか?」
 茜は表情を険しくし、同時に両手を開いた。
 章は膝へ両手を乗せ、あぐらをかいたまま小刻みに茜へにじり寄る。言葉を続けた。
「なあ茜、同級生も後輩もいない。もう主将の体面を保つ必要はないぞ?」
 その直後、茜は両手をキュッと握りこんだ。顔を伏せ、かすかに肩を振るわせる。
「だって……約束してたもん……私、主将だもん。いつもつらいの我慢してるもん」
 体を斜めに崩し、章の腕にしがみく茜。顔を擦りつけるようにして章の腕で唸り始めた。

115 :時間外No.03 言わない秘密 4/5 ◇nsR4m1AenU:08/01/22 09:50:33 ID:IGzriZOM
 茜の後頭部へ右手を回す。手のひらをあてようとして一旦その手が止まった。少しの間
をあけて、その手を茜の頭へ添えた。
 まるで子犬を慰めるかのように、柔らかく、何度も撫でる。
「なあ茜」茜を見下ろしながら言った。「うちへ遊びに来た後輩から聞いてる。お前、去
年の雪辱を果たしてみんなと一緒に全国大会へ行くって約束して、目一杯練習してたんだ
ろ? でも今は、みんなお前のことを心配したり不安に思ったりしてるぞ」
「そんなこと」
「あるよ。主将がこんな素振りを見せたら駄目だろ。今日はもういいけど、明日、みんな
へ謝っておけよ、な?」
 章は手に力を込めた。茜の顔がさらに章の腕へ押し付けられる。章の胸元で茜の拳が固
く握りしめられた。
「うん」顔を押し付けたまま、茜は首を縦に振った。「でも、お兄ちゃんとも約束が」
「さっき買って来たんだ、お前の欲しがってた白のキャミワンピ。約束してた奴」
 腕だけ延ばした章はトートバッグの持ち手をひきずり、中のものをつかみ出した。
 茶色で平べったく、大きめの紙袋。
 章の腕から目許だけを少し浮かせてちらりと見る茜。
「本当に、買ってくれたんだ」
「うん。頑張ったからサービス。だから機嫌直せよ」
 紙袋を茜へ押し付けようする章。
「もう一つの約束は? 頑張って駄目だったら、ねえ、叶えてくれるのはひとつだけ?」
 せがまれるような茜の声に、章の腕がぴたりと止まる。顔から表情が失せ、数秒の間が
あいた。
 思い出したように再び腕が動き出す。
「ほら、キャミワ」
「もう一つの」茜が腕から顔を離し、真っ赤な目で章の顔を見上げた。「約束は?」
「えっと、これ結構高くてさ。お前のご指定どおりにショップで三万」
「ひょっとして、試合に勝ってもキャミワンピを見せてごまかすつもりだったの?」
 眉を歪め唇を尖らせる茜。表情が不満の色へとみるみる染まっていった。
 顔を引きつらせる章。額から汗が吹き出す。作り笑いで少し顎を引いた。
「あ、そんなことはない。お前とデートする話だろ? 今日、ちょっと部の先輩と飲み会

116 :時間外No.03 言わない秘密 5/5 ◇nsR4m1AenU:08/01/22 09:50:47 ID:IGzriZOM
が」
 その言葉が終わるのを待たず、まるで舐め回すように章の頭から足先まで見回して、茜
はゆっくりと口を開いた。
「大嘘」静まる体育館にはっきりとその声は響いた。「お兄ちゃんが嘘ついても分かるも
ん。その癖は何なのか気づいてないでしょ」
「本当。剣道部」
「また嘘。本当に飲み会だったら相手は女の子? 正直に言わないと」右手を素早く章の
喉下へ差し込む。喉仏付近を人差し指と親指で摘んだ。「気管を握りつぶすよ? あ、動
いちゃ駄目。動くと本当に」
 上目遣いで茜は言った。
 顎を上げ、首に筋を立てながら顔を引きつらせる章。
「いえ、別に女の子だなんて」
「また嘘ついた。これ着た私と……遊びに、行く? それとも声を出せない合コン?」
 口の端を歪めた茜は、ますます機嫌の悪い顔で喉元へ更に爪を立てる。 
 章の眉はますます下がった。額から汗がひとしずく流れ出す。
「はは」
 けだるそうな腕を顔の高さまで上げてから、章の指がOKサインを作ってみせる。
 それを合図に、茜は紙袋を奪い取るようにして抱きかかえた。
「本当? やったぁ! じゃあ今すぐこれに着替えてくる!」
 満面の笑みでウサギのように飛び跳ね、茜は更衣室へと姿を消していった。
 嬉しげな背中を見送りながら、その場でうつぶせに倒れる章。仰向けに体を動かし、喉
元を何度か撫でた。
「結局のところ、茜の機嫌は剣道の勝敗に関係なしかよ」
 喉を撫でる手を額へ移し、章は苦笑した。

             完



BACK−密告カルテ◆4oIY5Zvkdw  |  INDEXへ  |