【 密めきビタミン 】
◆QIrxf/4SJM




99 :No.27 密めきビタミン 1/5 ◇QIrxf/4SJM:08/01/20 23:56:01 ID:skV5Bk2N
 僕は自転車をこいでいた。前かごはところどころ錆びていて、薄汚れた紺のショルダーバッグが入っている。
 田舎道は後ろへ流れて、道端に生えた草花が、時々足元を掠める。道の真ん中に生えているおおばこを何度も避けた。
 うららかな春の空に、白くて大きな雲がゆっくりと流れている。絶好の、郵便日和だ。
 とても長い道のりをこぎ続ける。車輪が砂利とぶつかりあって音を立てる。
 この辺りは田舎なので、一軒一軒の距離がとても離れている。だから、僕はのんびりと一日かけて手紙を運ぶのだ。
 とてもゆっくりかもしれないけれど、確実に届ける。それは僕のポリシーで、手紙とはそうでなければならないものだ。
「そうさ、僕は郵便屋さん」なんとなく口に出してみる。言葉は青空に吸い込まれて、追い風の返事が背中を押した。
 自転車は勢いよく進んだ。小さく見えていた民家が、だんだんと近づいてくる。ペダルから足を離して、風に身を任せた。
 元気の有り余った車輪にブレーキをかけて、勢いを殺す。そして、僕は庭の前に自転車をとめた。玄関まで歩いて、郵便受けを探す。
「あった」
 それは、赤茶地に白でPOSTと書かれた手作りの木箱だった。
 表札で苗字を確認すると、肩に提げたショルダーバッグから便箋を一つ取り出して、郵便受けの中に入れた。
「これでよしっと」バッグを閉じて、ベルトで封をする。中から手紙がこぼれ出ないように、しっかりと閉じる。
「さあ、次で最後だ」
 僕は自転車にまたがり、ペダルを踏み込んだ。
 田舎道は長く、自転車はキコキコ音を立てて進んでいく。
 最後の手紙を届けて、今日の仕事はおしまいだ。住所はここからそう離れてはいないから、二十分もあれば着くだろう。
 朝六時に家を出て、昼前には終わって家に帰る。毎日がそうなるわけじゃないけれど、夕方を過ぎることなんて一度も無かった。とても、気楽なだけれど、大切なお仕事。
 誰も運びたがらない、汽車も車も通らない場所まで手紙を届ける。それが、僕のお勤めだ。
 十年以上使い古された自転車も、まだまだ元気。車輪は活発、ゆがみ一つなく回り続け、ペダルはしっかりと力を伝えている。サドルが少し硬いけれど、もう慣れた。
 峠に差しかかった。僕はサドルから腰を上げ、立ちこぎで上り坂を駆け抜けた。
 頂上で自転車をとめて、汗を拭った。振り返って坂を見下ろすと、四角い田んぼを、緑色のあぜ道が縁取っていた。
 自転車にまたがり、地面を蹴る。足を伸ばして、下り坂に身を任せた。
 最後の家は峠の麓にある。だからなるべく先を見下ろさない。初めて訪れる家が、どんなものあるのかを楽しみにしていたいのだ。
 ブレーキをかけて、速度を緩めた。坂道が、終わりに近づいている。
 風でずり落ちそうになった帽子を被りなおして、僕はしっかりと前を見た。
「うわあ」思わず声が出る。自転車を降りて、目を凝らした。
 前の方に見えたのは、この辺りでは珍しい洋風のお屋敷だった。
 決して、その大きさに感嘆したのではない。小ぢんまりとした屋敷の周りが、たくさんの草花で彩られていたからだ。
 敷地を囲う木々の薄紫はきっとライラックで、木の根元に咲いている桃色はつつじかもしれない。

100 :No.27 密めきビタミン 2/5 ◇QIrxf/4SJM:08/01/20 23:56:15 ID:skV5Bk2N
 ライラックを植えている家なんて初めて見たし、とても洒落ている、と思う。その上、全然不自然でない。
 僕はゆっくりと自転車を押して、屋敷に近づいていった。
 近づくにつれて、その屋敷がたくさんの花々に囲まれていることが分かる。花の季節である春を存分に愉しんでいるかのような、楽しげな心地が伝わってくる。
 つつじの花に、白い蝶々がとまっていた。僕はその近くに自転車を置いて、ショルダーバッグを肩に提げる。庭に足を踏みいれた。
 ささやかな玄関ポーチがあって、扉には可愛らしいかたばみの花のようなドアノッカーがついている。
 僕は辺りを見回した。
 しかし、色とりどりの花ばかりが見つかって、郵便受けが見つからない。
 数歩下がって広く見渡してみたけれど、どこにもない。目の前を蝶々が飛び去っていく。
 僕はしゃがみこんで、足元のしろつめぐさを指でつついてみた。白くて逆毛のような花がゆらゆらと揺れる。
「どうしようか」
 根元の葉は、どれも三つ葉ばかりだ。花はまだ揺れ続けている。
 ふう、と息を吹きかけてみた。けれども花は飛んでいかない。「そりゃあそうさ、たんぽぽじゃないのだから」
 花が止まるのをじっと見ていた。どうするかは、それから決めればいい。選択肢は、ドアノッカーを叩く。このまま帰る。ドアの間に挟んで帰る。ケロケロ。
「あら、郵便やさん」
 僕ははっとして立ち上がった。
 首を振って辺りを見ると、庭の奥のほうから女の人が歩いてきた。
 眉の上で切りそろえられた前髪が、とても似合っている。後ろ髪はとても長かった。
「ごめんなさい。お困りになられたでしょう。郵便受けを、小鳥さんに取られてしまいましたの」
 僕は言っている意味を理解できなかったが、頑張って頷いた。
「いいえ、そんなことはないです。とても、素敵なお家とお庭に、見とれていたところでした」
 目の前に立った彼女は口元を隠してくすくすと笑った。
「ごめんなさい、笑ってしまって」
 華奢で白い指の間から、うす桃色の唇が見えた。みずみずしくて、控えめだった。
 顔がかあっと熱くなった。しゃべると、口元がひくひく暴れだしそうだ。
 僕は大慌てで顔を俯け、ショルダーバッグのベルトを外した。素早く便箋を取り出す。
「これ、お手紙です!」
 僕は彼女の顔を見ないようにして、便箋を差し出した。
「どうも、ありがとう」彼女は鈴のような声で言って、手紙を受け取った。「わざわざ、こんなところまでありがとうございます」
「いえ、これが僕のお仕事ですから!」
 彼女はにこにこして僕を眺めている。急に、よれよれの制服を着ていることが恥ずかしくなってきた。

101 :No.27 密めきビタミン 3/5 ◇QIrxf/4SJM:08/01/20 23:56:28 ID:skV5Bk2N
「では!」僕は言い残して去ろうと踵を返した。
「あ、お待ちになって」彼女が呼び止める。「しろつめぐさ、お好きなのですか?」
「え、まあ」僕は曖昧に言葉を返した。
 すると、彼女は僕の足元にしゃがみこんで、しろつめぐさの花をぷちんと摘んだ。
「どうぞ。あなたに差し上げます」
 僕はしろつめぐさを受け取って、胸ポケットに刺した。
「ありがとうございます!」
 僕は踵を返した。自転車を目指して歩き出す。それはまるで、ブリキのおもちゃのようだと思われたかもしれない。
「あら、四つ葉」と後ろの方で声がした。

 自転車をこぎながら、僕は彼女の手紙の内容が気になった。一体、誰が彼女に向けて手紙を書いたのだろう。遠く離れた恋人であるかもしれないし、どこかの友人であるかもしれない。
 悲しい知らせでなければ何でもいいな、と思った。手紙を届ける側としては、悲しい手紙よりも、嬉しい手紙の方が気楽だし、意欲も湧く。
 分配所に戻って、四通全て届け終わったと報告をした。
「あんた、ちょっと嬉しそうだね」と局長が言う。
「いえ、なんでもありません」と僕は答えた。
「うん、綺麗な花だ」局長は僕の胸ポケットを見て頷いた。「女か?」
「まさか!」僕は顔が熱くなるのを感じながら、全力で否定した。

 それから三週間ほど、僕は毎日彼女の元へ手紙を届けることになった。いつも同じ便箋で、桜の花を貼って封がされていた。
 毎日届く手紙には、一体何が書かれているのか、僕には分からない。
 けれども、僕がやってくるのを庭で嬉しそうに待ち構える彼女を見ている限り、悪い手紙ではないことが分かった。
 そして、今日も僕は彼女の元へ手紙を届けている。
 つつじの並んでいる前に自転車をとめて、庭を歩く。胸ポケットに刺したしろつめぐさは、七本目になっていた。
「こんにちは」僕は少し大きな声で言って、辺りを見回した。
「あら、今日もお疲れ様です」
 彼女は僕の前に歩いてきて、手紙を受け取った。
「まだ、しろつめぐさをつけていてくださるのね」
「ええ、この通り、まだまだ胸ポケットには入りそうですからね!」と言って、僕はポケットを引っ張った。中にはしおれた数本のしろつめぐさが詰め込まれている。
 そのとき、上着のボタンがとんだ。
「あら、まあ」

102 :No.27 密めきビタミン 4/5 ◇QIrxf/4SJM:08/01/20 23:56:41 ID:skV5Bk2N
 彼女は僕の金色のボタンを拾ってくれた。
「失くしたら大変です」
「す、すみません。この制服、古いもので」
「どうぞ、上がってください。繕いますので」
 僕は一歩下がった。「いやいや、悪いですよ、手間を取らせてしまっては」
「私はいいんです。けれど、郵便屋さんのお仕事の邪魔はできませんね」
「いやあ、手紙はここで最後だったんですけれどもね」思わず口を滑らせてしまった。何故かは分からない。体は正直だったのかもしれない。
「でしたら、是非!」
 彼女が満面の笑みを浮かべて言うので、結局僕は彼女の家にお邪魔することになった。
 僕は上着を脱いで彼女に渡すと、言われるままにテーブルについた。
 彼女は紅茶を出してくれたので、僕はそれをゆっくり啜りながら、針と糸で器用にボタンを繕っていく様子を眺めた。
 針に通す前に彼女の舐めた糸が、僕の制服に縫いつけられていく。それは、ボタンよりも重要なものに思えた。
 繕い終えた彼女は、僕と向かい合って腰掛けた。
「あまり上手ではないのですけれど」
「いえいえ、そんなことないです。つながってればいいんです。要するに」
 実際、彼女の手際はなかなか優れたものだった。なにしろ、指に針が刺さっていない。
「あのお手紙、お父様からなんです」彼女は嬉しそうに言った。
「へえ」僕は感心して頷いた。毎日手紙を送るのだから、相当にこの娘のことが可愛いのだろう。
 彼女の父は、とても優秀な人で、難しい仕事をしているらしい。僕は気楽な郵便屋でしかない。
「それで、明日帰ってくるらしいんですよ」
「それはよかったですね」
 僕がにこりとすると、彼女も嬉しそうに微笑んだ。
 そうして僕たちは紅茶を啜りながら、夕方まで話をした。

103 :No.27 密めきビタミン 5/5 ◇QIrxf/4SJM:08/01/20 23:56:55 ID:skV5Bk2N
 帰り道、自転車のペダルがひどく重たかった。明日、彼女に送られてくる手紙は無い。そのことがわかってしまったからだ。
 僕はしがない郵便屋で、薄汚い制服に身を包んで、ボロボロの自転車を漕ぐだけの人間だ。
 彼女のもとへ訪れる理由なんてない。
 分配所に着いた僕は、しろつめぐさをショルダーバッグの中にしまった。
「全部、終わりました」
「遅かったねえ」局長が言う。
「ええ。ちょっと、手紙を渡すのに手間取ってしまいまして」
 局長は僕の顔をのぞきこんだ。「何か嫌なことでもあったのかい?」
 僕は静かに首を振った。
「ははん」局長はにやりとした。「女にふられたな?」
「どうして?」僕はびっくりした。
「胸ポケット。花が刺さっていないじゃないか」局長は続けた。「ま、明日からも郵便屋らしくしろよ」

 僕は家に戻り、ショルダーバッグをあけた。中にはしろつめぐさが入っている。
 局長の言葉、郵便屋。
「郵便屋らしく」僕は言った。
 ある考えが頭に浮かぶ。
 がさごそと机の中をあさり、紙を取り出した。
 紙を机の上に置く。
「僕は郵便屋さんだから」
 自分で、彼女に手紙を書けばいい。それだけのことだ。手紙に理由なんていらない。
 ペンはしろつめぐさで、便箋は三つ葉で封をしよう。
 そう決めて、僕は万年筆の先を舐めた。



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