【 秘密よ、さようなら 】
◆lNiLHtmFro




45 :No.12 秘密よ、さようなら 1/5 ◇lNiLHtmFro:08/01/20 15:54:20 ID:YlS5K4gx
 甲高い電子音と喧騒とタバコの煙が狭く暗い室内を満たしている。晴れだろうが雨だろ
うが、どんな天候でもここの空気は変わらない。やかましいほどの音があふれては地面に
積もっていく。
 「くそっ!」財布から百円玉をとりだし、投入口にぐいっと押し込む。これで何回目だ
ろうか。画面に表示された数字はどんどん小さくなっている。俺はこんなことをいつまで
やり続けるのだろうか、と減っていく数字を見ながら考える。こりゃまるで死へのカウン
トダウンだな、そんな思いがこのコンテニュー画面を見ると頭をよぎる。が、それも一瞬
のことだ。ゲームが始まれば考えはどこかへ飛んで行ってしまう、タバコの煙と共に。
 残り四秒のところでカウントダウンは止まった。息抜きも大切だよな、楽観的な結論に
達して意識を集中させる。世界が狭まる。喧騒はまったく気にならない、次は負けない。

 「ただいまぁ」
 「おかえり晃治、ゴハンできてるわよ。今日も一日お疲れ様でした」
 そういって妻の智香はよく冷えたビールをついでくれる。彼女の料理は絶品だ。そこら
へんのお店の何倍も美味い。なんというか味があたたかいのだ。
 妻には、仕事をクビになったことは一言も伝えていない。今日も仕事から帰ったと思っ
ているんだろう。ダメな夫はゲームセンターで時間もお金も浪費してきたというのに、優
しく迎えてくれている。仕事をクビになったことを知ったらどうなるだろうか。この暖か
な生活はなくなるんだろうか。早く新たな仕事を見つけないといけないことはわかってい
る。でも…。
 「どうしたの? 神妙な顔つきして。もしかして料理失敗しちゃった?」
 「そんなことないよ、いつも通り美味しかった。ちょっと仕事のことでね。うん、いつ
も美味しいご飯をありがとう、ごちそうさま」
 「どういたしまして。お風呂いってきたら? ずーと気を張ってると疲れちゃうわよ」
 「そうだな、風呂いってくるよ」
 俺はそそくさとその場を立ち去り、ゆっくりと湯船に身体を沈めた。

46 :No.12 秘密よ、さようなら 2/5 ◇lNiLHtmFro:08/01/20 15:54:55 ID:YlS5K4gx
 ――ちょっと仕事のことでね
 何を言ってるんだよ、無職が。なんで嘘を突き通してるんだ。全て言ってしまったら楽
になるんじゃないのか。こんな思いをいつまで感じ続けるんだ。
 怖い、この生活を壊すことが。妻を失うことが。いなくなってしまうことが。
 でも…このまま無職のままなら遠くない将来必ず破局が待っている。生活するためには
働いてお金を得ないとダメなことなど小学生でもわかっていることだ。
 風呂からあがり、寝室でしっかり髪の毛を乾かし育毛剤をふりかける。最近額が以前よ
りも広くなってきた気がする。だからヘアケアには余念がなくなってきた。
 鏡に向かっていると、背中から甘い声が聞こえてきた。
 「ねぇ、今夜久しぶりに…」
 鏡越しに目が触れ合う。魅力的で豊満な体を鏡は映し出している。本当に魅惑的な女
だ。
 「ごめん、最近忙しくて疲れてるんだ。またにしてくれないかな」
 今の俺に智香を抱く資格など無いのだ。仕事もせずゲーセンに入り浸ってる俺が女を抱
く資格など。抱きたくないわけではない。抱きたい。だが、ここで抱いてしまってはダメ
だ、と自分自身に言い聞かせ我慢する。
 「そっか。お仕事大変なんだね。ごめんね。おやすみなさい…」智香は、少しだけ顔を
赤らめて言った。落胆していることが声色からありありと伺えた。
 何で謝るんだよ、謝るのは俺のほうじゃないのか。
 ベッドに横になりながら明日こそなんとかしようと考える。横では穏やかな寝息が聞こ
えてきた。明日こそなんとかしよう、明日こそ。考えをめぐらしているうちに眠りの甘い
誘惑に全身を包まれた。

 翌日、昨夜の決意とは裏腹に足はゲーセンに向かっていた。何をしているんだ、俺は。
 ダラダラとゲームをし、正午になった。昼食をとろうと近くの定食屋に向かう。何も
しなくても腹は減るのだ。学生時代からお世話になっている定食屋さんだ。チェーン店だ
がうまいし、安い。

47 :No.12 秘密よ、さようなら 3/5 ◇lNiLHtmFro:08/01/20 15:55:22 ID:YlS5K4gx
 「日替わり定食を」いつものように注文をする。これなら何も考えなくてすむので、毎
日日替わり定食だ。
 満腹になったところでまたゲーセンにむかう。太陽は出ていたが、風が冷たかった。
 ふと、よく知っている匂いが鼻腔をくすぐった。いつも智香がつけている香水だ。人気
のある香水だからな、と思いながら周りを見回してしまう。
 こんなところにいるはずないだろうという思いはあっさりと打ち消された。やや前方に
小奇麗な格好をした智香をみつけた。どうしてこんなところに。
 ここから自宅までは結構な距離がある。だからこそ、誰にも見つからないこのゲーセン
を選んでいるわけなのだが。
 妻は喫茶店に入っていった。誰かと待ち合わせでもしているのだろうか。オシャレな感
じの喫茶店だ。雑誌などで紹介されてもおかしくない店構えをしており、外から見ただけ
でも繁盛しているということがわかった。
 どうせやることもないんだし、好奇心からその店に入ってみることにした。
 店内は外から見ただけではわからないほど広く、ずいぶんと席には余裕があった。最近
売れてきたアイドルの曲が流れていた。客層としては若い女性が多く、他はデートできて
いるらしい大学生が数組。男一人で来るというのは希有なのかもしれない。
 ホットコーヒーを注文し、新聞を読みながら妻の様子を伺う。どうやらまだ相手は来て
いないようだ。
 スッと冷たい外気が流れ込んできた。目を入り口の方に向けるといかにも今風といった
若い男性が店内に入ってくるところだった。
 「お待たせしました、智香さん」
 「い、いえ。私も今来たところですから」
 一体全体どうなってるんだ。なんで顔を赤らめてるんだ。どうしてそんなに嬉しそうな
顔で笑ってるんだ、智香。ずっと以前の思い出の中にしかなかった顔をしているんだ。
 世界が遠くなる。サァーと何かが去っていくのが実感としてわかった。二人で何を話し
ているのかはまったくわからない。耳には入ってくるが内容が理解できない。ただただ目
の前にある現実を受け入れたくなかった。


48 :No.12 秘密よ、さようなら 4/5 ◇lNiLHtmFro:08/01/20 15:55:49 ID:YlS5K4gx
 アレハダレナンダ。その言葉だけが世界となり、景色となった。
 気づいたときには、百円玉を取り出して、いつものように投入口に押し込もうとしてい
る自分がいた。目の前のコンテニュー画面で数字がゼロに近づいている。死へのカウント
ダウン。やっぱり、だめだな。

 「ただいま…」
 「お帰りなさい、今日も疲れたでしょう。寒かったもんね」
 「なぁ、アイツ誰だよ」
 「え? アイツって?」
 「わかってるんだろ! 昼間喫茶店で会ってた男だよ!」
 ついつい語気が強くなってしまっているが止まらない。もうどうにでもなれ。
 「…どうして」
 「浮気だろ! お前はそんな女だったのかよ! 最近俺が抱かなかったからか、なぁ?
なんとか言ってみろよ」
 「違うよ!! あの人は浮気なんかじゃない。その…」
 声は段々と弱弱しくなっていた。なんとか喉を通しているという風に。目は潤んで今に
 も泣きそうな顔をしている。
 「実はね…」
 ぽつりぽつりと喋り始めた。その声はか細く、集中して聞かなければ聞こえないほどだ
った。
 「仕事をすることにしたの…。あの人は、仕事を紹介してくれた前の会社の同僚よ。浮
気なんかじゃない。浮気なんかじゃ。ただ…就職できて、嬉しくて、彼にはたくさん協力
してもらったからお礼がしたかったの。それで…」
 「それで、体で満足してもらおうかってか?」
 「違う! 違う! 違うッ!肉体関係なんかないッ! 信じて、私を! 喫茶店でお礼
を言っただけよ」
 「でも、どうして仕事なんか…」

49 :No.12 秘密よ、さようなら 5/5 ◇lNiLHtmFro:08/01/20 15:56:18 ID:YlS5K4gx
 時計のかち、かちという正確なリズムを刻む音だけがその場を支配した。俺も智香も喋
れない。場には気温のせいだけはない寒さが、冷たさが広まっていた。
 もしかしたら、と思い彼女に眼を向けると一筋の涙が流れていることに気づいた。
 「知ってたの」
 あぁやっぱり。
 「晃治が仕事いってないって」
 智香はずっと前から気づいていたんだ。それなのに気丈に振舞ってくれていた。
 「服にタバコのにおいが染み付いてておかしいなと思ったの。タバコの臭いがしたこと
なんてなかったのに。それに、様子がずっと最近おかしかったし」
 言うべきだったんだ。俺だけがツライ思いをしていたんじゃない。智香のほうが、もっ
と。あんなにあたたく迎えてくれていたのに。
 「いつか晃治から喋ってくれるって。でも…」
 「そんな時、偶然彼に会ったの。親身になって話を聞いてくれた。そして、私が働いて
みたら、という話になったの。彼の友人が最近始めたネイルサロンを紹介してもらって、
それで」
 「俺に何の相談なしに…か」
 「言えなかった…傷つけてしまいそうで」
 愛する人に何も言えなかった自分の卑しさ。ゲーセンと家の往復の生活に対する後悔。
家計のために働こうとしてくれた妻の優しさ。それらがひとつの感情になって溢れでてい
た。
 二人とも何も言わなかった。ただただむせび泣いていた。止めようがなかった。少し前
まで忘れていたほんわりとしたものが津波のように押し寄せていた。

 「いってらっしゃい、仕事がんばれよ」
 「いってきます、家事がんばってね」
 二人とも照れくさそうに言いあった。逆の立場で言う日がくるなんて。
 玄関から入った穏やかな風が優しく二人の頬をなでていった。





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