【 密か心 】
◆AOGu5v68Us




23 :No.7 密か心 1/5 ◇AOGu5v68Us:08/01/20 15:36:42 ID:YlS5K4gx
 彼女を初めて見たのは、ちょうど紅葉の盛りのころで、受験勉強のストレスを発散させ
るために散歩を日課にしたころでもある。
 最初の何日かはウォークマンを持ち歩き、アコースティック・ギターの乾いた憂いのあ
る音色を聴きながら悦に入っていた。
 しかし、ウォークマンを忘れたある日、枯れ葉の砕ける音の心地よさに気づいてから、
BGMはもっぱら自分の歩みに合わせてサクッサクッと軽やかに鳴る枯れ葉のリズムになった。
 そんなちょっとした習慣の変化とともに、季節の移ろいが肌に感じられるようになった。
 それまでとりたてて自然に興味がなかったわたしは、空気が日々刻々と澄んでゆくこと
と、落ち葉の赤とレンガ道の赤が違うことに驚かされた。落ち葉には落ち葉の輪郭、落ち
葉の色があるのだ。

 彼女はわたしと違って、それらのことを全て最初から知っている風だった。

24 :No.7 密か心 2/5 ◇AOGu5v68Us:08/01/20 15:37:14 ID:YlS5K4gx
 彼女はいつも、少しおろすのが早いような茶色いコートを着て深紅のマフラーを巻き、レンガ道沿いに並ぶベンチのうち、道の真ん中あたりにあった一つの近くにいた。わたしは彼女の指定席に近づくと、立ち止まって少し離れたところから彼女を見ていた。
 彼女は座って本を読んでいることもあれば、落ち葉の山の上に臥していることも、ある
いは立って楓並木の間をさまようようにふらふらと歩いたり、くるくると踊り回っていた
りすることもあった。
 よく英語やフランス語らしき言葉の不思議な歌を歌っていたのがかすかに聞こえた。
 なにをしていても楽しそうに笑っていて、そのくせひどく寂しそうだった。いつも一人
でいたわたしには、いつも一人でいる彼女の気持ちが少しわかる気がした。
「なにしてるの?」
 そう尋ねたい願望に駆られもしたけれど、結局実行できずにいた。彼女の一人と、わた
しの一人は、なにか違う性質のものに思えた。

25 :No.7 密か心 3/5 ◇AOGu5v68Us:08/01/20 15:37:41 ID:YlS5K4gx
 わたしは、彼女を好きになった。

 ほっそりとしていて、あどけなくて、色の白い肌や切り揃えた黒い髪や、たまに見せる
どこか遠くを眺めるような、あるいはなにも見ていないようなもの悲しい目が、いちいち
愛おしい。同じ女だというのに、彼女に惹かれることに少しも不思議を感じなかった。
 彼女を見つめる時間は、日増しに長くなっていった。
 ただずっと、時間の流れさえも忘れて、彼女の一挙一動を目で追う。なんだか、わたし
も彼女も一人でいるという事実がひどく虚しく感じられ、冬めいた冷たい風はその心のが
らんどうを抜けていった。彼女には幼いなりの気高さがあったのに、わたしには頼りなく
なびく長い髪と、ポケットに忍ばせたメンソール・タバコ一箱くらいしか与えられていな
かった。
 彼女が、わたしなんかに目を向けるはずがない。
 しかし、彼女はちゃんとわたしを見ていたのだ。
 初めは気のせいだと思ったけれど、彼女はたしかにわたしに視線を投げ返していた。
 うろたえながらもとっさに笑顔を作ると、彼女もまた、穏やかな笑みを浮かべて、それ
から顔をそらした。紅葉が一枚彼女の肩に落ちたのが、ひとひらの悲哀のように思えて、
わたしもそっとうつむく。
 足下の真新しい落ち葉の色は、彼女のマフラーの色に限りなく近かった。

26 :No.7 密か心 4/5 ◇AOGu5v68Us:08/01/20 15:38:13 ID:YlS5K4gx
 紅葉の季節が終わる予感がし始めたある日曜日、わたしは想いを告げる決心をした。彼
女になにも言えずにいるのがいよいよ辛くなったのだ。
 ほの白く霞んだ空と寒々とした枝がちな木々は、はやる気持ちに拍車をかけた。普段よ
り足早にレンガ道を歩き、彼女の元へ向かう。
 彼女がいつもいるあたりの二つ手前のベンチに差し掛かったところで、誰かがこっちに
歩いてくるのが見えた。
 茶色いコートと深紅のマフラー、そしてきれいな真っ黒の髪。
 彼女だ。
 彼女がいつもと違う行動をとっているのに加え、目を伏せてふらつきながらも、確実に
迫りつつあることに、鼓動が高鳴った。火照った頬に風が冷たい。
 わたしと彼女が並んだ瞬間、二人とも示し合わせたかのように立ち止まった。彼女も私
も振り返って、お互いを見た。
 至近距離で見る彼女は、想像したよりずっと美しかった。シャンプーの香りに混じっ
て、落ち葉と土、それと薬っぽい匂いが微かに漂い、不思議な感じがした。長い睫毛、柔
らかそうなくちびる、純粋な黒の瞳がこれほど近くにある贅沢さに目眩を覚えつつも、ど
うにか全てを打ち明けようと切り出す。
「あ、あのさ……」
「これ」
 彼女はわたしの言葉をさえぎってたった二音節を発音し、右手を差し出した。いびつな
形に膨らんだ、赤い封筒を持っていた。
「これ、くれるの……?」
 そう訊くと、彼女はコクリとうなずいた。
 彼女の手から封筒を取る。硬いなにかが入っている感触が紙越しに伝わる。開くと、ド
ングリのネックレスが出てきた。穴の開いたドングリに、白い麻ひもが通してある。ペン
ダントなら宝石がある位置に、赤い厚紙に貼った楓の枯れ葉が一枚ある。
 手のひらに、秋そのものを握っている心地。
 地味な色彩のそれは、しかしどんな宝石よりも鮮明だった。首にかけると、秋の女神に
なったようだった。

27 :No.7 密か心 5/5 ◇AOGu5v68Us:08/01/20 15:38:59 ID:YlS5K4gx
「あ、ありがと」
 礼を言うと、彼女の目が真っ直ぐわたしの顔を覗き込んだ。彼女は少し笑った。
「さよなら……」
 微笑みながらそう言う彼女の声は、風に消えそうなくらい儚かった。胸がしめつけら
れ、その力に抗うように脈拍は激しさを増す。
 呆気にとられていると、不意に彼女はわたしが来た方向へ歩き始めた。
 少しずつ、わたし達の間隔が開いていく。
 けれど、どうしようもなかった。彼女に呼びかけることも、追いかけることもままなら
ない。
 ただ彼方へ消えてゆく彼女の切ない後ろ姿を、黙って見届けるほかには、なにも出来な
かった。



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