116 :NO.29 兄貴の一目惚れ(1/5) ◇Bh78QWxHPM :08/01/14 01:16:43 ID:GNVBbaTt
十二月も半ば。本格化し始めた冬の寒さと、迫り来る大学受験と期末試験の重圧から逃げるかのように、十枝勝也は家路を急いでいた。
駅前の交差点。冷蔵庫の中かと錯覚しそうになるくらいに底冷えした寒さが、信号待ちをする人々を襲う。誰
もが早く家に帰ることを願い、信号が青に変わるのを待ち焦がれていた。短くも長い待ち時間。勝也は、マフラー
に顔を埋めたまま、視線だけを所在無さげに左右に巡らせた。その時、偶然視界に入った少女に、勝也は目を奪
われた。通行人の誰しもが、身を刺す寒さに凍えながら信号が変わるのを今か今かと待ち望んでいる中、その少
女だけは、凛とした態度のまま、ただまっすぐ前だけを見つめ佇んでいた。まるで、そこだけが真冬の寒さから
逃れ、春の陽気に包まれているかのように、勝也の目には映った。信号が変わり、大衆の波がせきを切ったかの
ように流れ出す。勝也も、その波に飲まれ流されて行くが、視線だけは、少女の姿をしっかりと追っていた。や
がて人の波が引き、道路を車が往来し出す。再び人ごみが横断歩道の前に溜まりだす中、勝也は自分の胸に突如
生まれた感情が理解できず、しばらくの間、呆然とその場に立ち尽くしていた。
それが一目惚れだということに勝也が気づくには、あと二十分ほど時間が必要だった。
「で、その娘が、あたしの通っている女子高の制服を着ていたと」
ここは勝也の家。勝也と、彼の妹の三華は、炬燵を挟んで向かい合うようにして座っていた。勝也はいたって
真面目な表情で話をしていたが、三華の方はあまり興味がなさそうだった。ふーん、と無関心な相槌を打った三
華は、兄の話を聞きながら剥いていたミカンを一房、口の中に放り込んだ。
「おい、俺は真剣な話をしてるんだよ。ちゃんと聞けっての」
勝也は身を乗り出して、三華の剥いたミカンを一房奪い、同じく口の中に放り込んだ。三華は一瞬不愉快そうな顔をしたが、抗議はせずに会話を続けた。
「私に、その女の子との仲介役をしろって言うんでしょ? 嫌よ、そんなめんどくさいこと」
「そんなこと言うなよ。兄妹だろ」
そう言って、勝也はまた三華のミカンを取って食べる。三華の片眉がぴくりと動いた。
「だったら、大(まさる)に頼めば? 大は優しいから、きっと力になってくれるわよ」
大とは、来年で中学三年になる彼らの弟のことだ。
勝也が、またまたミカンを奪う。三華の両眉が、ぴくぴくと動いた。
「学校が同じのお前の方が色々と便利だろ。それに、弟に恋愛相談なんてしてたら、兄の面子が潰れるだろ」
「妹ならいいんかい……」
「なぁ、頼むって」
言いながら、勝也は三華のミカンに手を伸ばした。三華のこめかみに青筋が浮かび上がった。
「だーっ! さっきから人のミカンを取るなーっ!」
「頼む。彼女の趣味だけでもいいから、探ってくれ」
117 :NO.29 兄貴の一目惚れ(2/5) ◇Bh78QWxHPM:08/01/14 01:17:13 ID:GNVBbaTt
「人の話を聞きなさいよっ!」
「お前が了承してくれるまでやり続ける」
「な、なんて低レベルな脅し……! こんな人が兄貴だなんて、あたしゃ哀しいよ」
「ふふふ、早くしないと、どんどんその兄貴が堕ちて行くぞ。終いには、お前の赤ボールペンのインクを黒に換
えて、学校で採点する時に赤丸をつけるはずが黒丸になってて、ちょっとブルーな気持ちになるようにするぞ」
「分かった、分かりました! やりゃいいんでしょ、やりゃ」
「それでこそ我が妹だ。兄として嬉しいぞ」
満足そうな笑みを浮かべながら、勝也は最後の一房に手を掛けようとして、三華の全力ビンタによって阻止された。
兄に協力すると約束した後、とりあえず三華は問題の少女が誰なのかを知るために、その特徴を訊いてみたの
だが、兄が話す特徴を聞いただけで、三華はその人物をある程度特定することができた。一つ年上、二年の神里瀞久(しずく)ではないかと、三華は予想した。
容姿端麗、頭脳明晰。運動は、標準よりはやや上。噂では、どこかの大企業の専務の娘だとか。学内で結構有
お嬢様だ。名な高嶺の花とは言うが、これはあまりにも高すぎる。まるで深海のチョウチンアンコウが、チョモ
ランマの頂に咲く花を欲するがごとしだと、三華は思った。約束したからには、ちゃんと手伝おうと思っていた
三華だったが、相手がアレだと分かると、途端にやる気がなくなってしまった。無理に決まっている。それに、
もし仮に、神様が間違いでも起こして二人がくっつくことになったりしたら……。あの馬鹿兄貴が、あんな綺麗
な人を彼女にするだなんて、考えただけで無性に腹が立つ。
そんなこんなで考えた末、三華は、勝也を適当にからかって、後はうやむやの内に無かったことにしようということで結論を下した。
「私の調査の結果、勝兄が惚れた相手は、神里瀞久さんだと判明したわ」
もちろん、実際は調査などしていない。三華は、とりあえず自分の知っている限りの神里情報を、勝也に教え
てやったのだ。そうとは知らずに、勝也の方は妹が真面目に取り組んでくれていることに感謝をして、三華の話す情報をしっかりと頭に叩き込んでいた。
「で、彼女の趣味なんだけど、友達伝いに聞いたところ、川柳が好きらしいわ」
ちなみに、これは嘘である。三華の勝手な作り話だ。
「川柳。確か、五・七・五の歌のことだよな」
「そう。で、提案なんだけど、勝兄が告白するときにさ、気持ちを川柳にして伝えるってのはどう?」
「彼女の趣味に合わせた告白か。なんか良さそうだな」
「でしょ? でさでさ、作る川柳には比喩表現をふんだんに盛り込むべきだと思うの。比喩を上手く使えば、何
か知的に見えるでしょ? きっと、神里さんの心をゲットできるわよ」
勝也はしばらく黙考した後、おそらく告白して成功している未来の自分の姿を想像したのだろう、晴れやかな
118 :NO.29 兄貴の一目惚れ(3/5) ◇Bh78QWxHPM:08/01/14 01:17:35 ID:GNVBbaTt
笑顔を浮かべると、「そうだな! その手で行こう!」と言って、三華に右手を差し出し握手を求めた。三華は
その手をしっかりと握り返す。兄妹の絆を象徴するかのように、二人の手は堅く握られていた。
夕方。勝也は想い人の姿を、初めの時と同じように、信号待ちする人ごみの中に見つけた。今度は流されない
ように、しっかりと彼女の後を追う。そして、人通りがある程度少なくなった時、勝也は意を決して目の前を歩く少女、神里瀞久に声を掛けた。
「あ、あの、神里瀞久さん!」
「……?」
ゆっくりと、神里が勝也の方を振り向いた。
「俺の思いの丈を聞いてくれ!」
「……?」
勝也は、ポケットから一枚の短冊状の紙を取り出た。そこに書き綴られている川柳は、昨夜勝也が徹夜で書き
上げたものだ。思いの全てを、今歌にして愛しい人に届ける。
「春の花 色鮮やかに 我が胸染める」
神里を色鮮やかな花に例えた川柳。勝也の、神里を愛する気持ちを込めた比喩の歌は果たして――
「………………?」
全く伝わらなかった。
「大好きだこんちくちょー!」
泣き叫びながら、勝也はその場から逃げ去った。
「おい、駄目だったぞ。全く伝わらなかった」
「残念ねぇー」
本当に残念とは全く思わずに、三華はせんべいを齧りながら嘯いた。初対面の人相手にいきなり川柳を、しか
もあんな遠まわしな表現で言われたら、誰だって頭の上にはてなマークを浮かべるだろう。しかし、勝也は馬鹿
なのだ。だからそれに気づけない。
「どういうことだよ。お前の調査には間違いがあったんじゃないか?」
「そうなの、実は神里さんは、そんなに川柳のことが好きではなかったの」
「なにっ、やっぱりか!」
「安心して。ちゃんと新情報を得てるから。なんでも、神里さんのタイプは、アフリカ原住民族のパサイ族みたいな人なんだって」
もちろん嘘である。
「パサイ? マサイじゃなくて?」
119 :NO.29 兄貴の一目惚れ(4/5) ◇Bh78QWxHPM:08/01/14 01:17:57 ID:GNVBbaTt
「そう、パサイ」
翌日の夕方。前日と同じように、勝也は神里に声を掛けた。
「あ、あの、神里瀞久さん!」
「……?」
ゆっくりと、神里が振り向く。するとそこには、全身に黒い塗料を塗り、謎の民族衣装を着た勝也が立っていた。
「オポレ! ポ・デ・モンテュトゥ! デボン・ゲバン!」
「きゃぁっ!」
手に持った槍のような棒を天高く掲げ、トランポリンの上で飛び跳ねる子供のように、勝也はジャンプを始めた。
説明しよう。パサイ族とは、アフリカ大陸のサバンナに住む、気高き部族のことだ。男子は成人すると一本の
槍を持たされ、それを持って意中の女に告白をして妻を得るのだ。勝也が口走った言葉は、プロポーズの意味になっている。(全て三華の嘘です)
勝也の、神里を愛する気持ちを込めた求愛行動は果たして――
夜遅く。家の扉が開かれた。手製の民族衣装を身にまとった勝也は、満身創痍の様子で玄関に倒れこんだ。そ
こに三華がやってきて、肉まんを頬張りながら質問した。
「遅かったわね。何してたの?」
「通行人に通報されて、今まで警察で事情聴取を受けてた……」
「残念ね。周りに誰もいなければ、今頃神里さんは勝兄のお嫁さんになってたんだけどね」
「くそっ! 通行人めっ!」
「でも安心して、実は最後の手段があるの」
勝也は、妹の言葉に反応して、首だけを持ち上げて三華の方を見た。三華はしゃがみこみ、床に倒れている兄に顔を近づけて、小さな声で言った。
「神里さんね、爬虫類が大好きなの。特にエリマキトカゲには目がなくて、『俺とエリマキトカゲについて語り
合おう! ついでに愛とかも!』って言えば、きっとOKしてくれるわよ」
「本当か! よっしゃー、やるぞー!」
勢いよく立ち上がった勝也は、きたる明日へ備えるため自分の部屋へと消えていった。
「……どんだけ馬鹿なのよ」
馬鹿であるがゆえに純粋。自分の兄の、あまりにも一途なその姿に、心動かされなかったと言えば嘘になる。
さすがに、そろそろ本当に協力してあげていいのかもしれない。あれだけ頑張っているのだから。そんな風に、三華は思うようになっていた。
「……仕方ない。人肌脱ぎますか。大ーっ! ちょっときなさい!」
120 :NO.29 兄貴の一目惚れ(5/5) ◇Bh78QWxHPM:08/01/14 01:18:23 ID:GNVBbaTt
今日こそはと意気込む勝也。片手には黒い大きなボストンバッグを持ち、昨日、一昨日と同じ場所で神里に声
をかけようとした。が、その前に別に人間が神里に声をかけた。二メートルはありそうな大柄な男で、革ジャン、
ジーパン、サングラスと、全身を黒一色で統一している。男は、卑しい笑みを浮かべながら、神里の腕を掴んだ。
神里は男の腕を必死になって離そうとするが、大柄の男の腕力はそれを完全に押さえ込んでいる。これはただ事
ではない。すぐさま悟った勝也は、何の躊躇いもなく、男と神里の間に割って入った。
「何してるんだ。嫌がってるだろ!」
男は突然の乱入者に驚き、神里の腕を掴んでいた腕を放す。自由になった神里を、勝也が抱き寄せて自分の後
ろへとやった。勝也が大男を睨みつける。射るような勝也の視線に恐れをなしたのか、大男は諦めたように手を
ぱたぱたと振ると、「何だよ、野郎連れかよ」と言って、去っていってしまった。
「大丈夫?」
「あ、え……あ、はい。大丈夫です。その……ありがとうございました」
二人の姿を、遠くのビルの陰から見守る姿があった。勝也の妹、三華だ。実は、さっき神里を襲った大男は、
彼女の弟、大だったりする。中学二年生でありながら二メートルを超す大は、普段は温厚な性格だが、それなり
の格好をすると、すぐさま不良へと変身する。それを神里にけしかけさせたのだ。普通なら、声を聞けば大男が
弟だと気づけるはずなのだが、勝也は馬鹿だから気づけない。そんな兄の馬鹿さを利用した見事な作戦だった。
「今よ! 告白するのよ、勝兄。今しかないでしょ!」
物陰からヤジを飛ばす妹。そんな妹の気持ちが届いたのか、勝也はいつになく神妙な表情になり、なにやら神
里に話し出していた。三華は心の中でガッツポーズをとる。が、そのガッツポーズが、次の瞬間には崩れ去るこ
とになる。勝也が、何やら思いだしたような顔をして、さっきのどたばたの時に地面に置いていた黒いボストン
バッグを持ち出したのだ。嫌な予感がした。と同時に、三華の頭の中では、昨日の自分の言葉が再生されていた。
『神里さんね、爬虫類が大好きなの』
「まさ……か」
そのまさかだった。勝也がボストンバッグから取り出したのは、体長五、六十センチほどのエリマキトカゲだった。
「俺とエリマキトカゲについて朝まで語り合おう! あとついでに愛とかも!」
勝也の言葉に、神里は一瞬息を呑んで、次の瞬間――
「はいっ! 語り合いましょう、朝まで! あと愛とかも!」
目を爛々と光らせて、勝也の持つエリマキトカゲに抱きついていた。神里瀞久は爬虫類、特にエリマキトカゲには目がなかったのだ。
遠くのビル陰で、何かが盛大に倒れる音がした。 おわり