【 夢の続きは 】
◆7BJkZFw08A




76 :NO.21 夢の続きは 1/5  ◇7BJkZFw08A :08/01/14 00:48:39 ID:GNVBbaTt
「行ってきまーす」
そう言いながら扉の外へと駆けだしていく娘を見送ったのはいつの日のことだったろう。
と、正俊はふと考えた。
彼の隣には今、妻の美代子がいる。そして、彼の周りにはたくさんの人々がいる。
彼らは皆楽しげで、幸せそうな顔をしながら、そんな周囲の誰よりも幸せそうな顔をしている娘の芳香を取り囲んでいた。
(結婚式、か)
芳香はこの度、めでたくある商社の青年と結婚することになった。
今日はその結婚式である。
結婚式と言えば、父親はボロボロと泣き崩れているものだ、というイメージがあるのは何も正俊の頭の中だけでもあるまい。
しかし、式ももう終盤だというのに、正俊は未だ涙一つ見せていなかった。
式の間中、麻酔でも打たれたかのようなぼうっとした感覚が頭を襲い、それとともに正俊は様々なことを思い出していた――

あれはずっと昔、芳香が生まれる時の話だ。
正俊は会社で、美代子が産気づいたという電話を受けた。
周りの皆はひどく盛り上がって、正俊に今すぐ病院に行けとしきりに促した。
だが正俊は周りの熱に反比例するように、自分が行ったところで何になるというのだ、などと冷めた考えを内心抱いていた。
しかし、会社を出てタクシーに乗ってみると、メーターが回るにつれて自分の気持ちが昂ぶっていくのを感じずにはいられなかった。
タクシーは病院まで後一歩と言うところで信号待ちを食らった。正俊は昂ぶった心を押さえつけることができす、タクシーを飛び降りて自力で病院へと駆けこんだ。
昔ほどは走れないらしい、そう感じながら上がった息をなんとか整え、受付で美代子の部屋番号を尋ねた。
受付の看護婦は正俊の形相に驚いたらしく、少しの間呆気にとられてさえいた。正俊がせかさなければもうしばらくそのままであったかもしれない。
正俊が病室の扉を突き破らんばかりの勢いで駆け込んだのは、今にも赤ん坊が出てくるかという緊迫した雰囲気の中だった。
美代子が突然正俊が出現した事に気づいて驚いたのが功を奏したのか、その直後、ついに一つの命が無事誕生した。
わが子が血と羊水にまみれたぐちゃぐちゃの姿で取り上げられ、それでも確かに強い生命を感じさせる泣き声をあげたとき、正俊は自分が泣きながら笑っていたことを今も覚えている。

正俊は赤ん坊の芳香が可愛くてたまらなかったが、それでも始終芳香のあげる泣き声には辟易したものだった。赤ん坊の泣き声というのは人の心をかきむしり、妙にいらだたせるものである。
ある時美代子が近くのスーパーへ買い物に出かけ、その間正俊が芳香と二人で留守番することになった。
芳香がむずがるので抱っこして見ると余計泣く、うんちでも漏らしたかとオムツを開けてみても何もない。
終いには芳香の顔が鬼でも見たかのような恐ろしい形相になり、ほとんど金切り声のような声でぎゃあぎゃあ泣きわめくに至って、正俊は一瞬この腕の中で騒ぐ小さな生き物を床に叩きつけたい衝動に駆られたが、そんなことができるはずも無い。
とうとう正俊も半べそをかきながら芳香をあやしているところで美代子が帰ってきて、「あらあら、芳香もパパも泣き虫さんねぇ」などと落ち着いた声をかけた。


77 :NO.21 夢の続きは 2/5  ◇7BJkZFw08A:08/01/14 00:49:25 ID:GNVBbaTt
芳香は美代子の乳を貰うと途端に泣きやみ、泣きつかれたのかすぐに眠ってしまった。
「全く、母親の力には敵わないな」
「ふふっ。そうでしょう?」
二人は眠っている芳香の涙の跡が張り付いた顔を眺めながら、そんなことを言い合った。

芳香が初めて「パパ」、「ママ」と喋れるようになったとき、「よしか」と自分の名前を言えるようになったとき、初めて自分の足で立ち上がり、歩けるようになったとき……
正俊は今もずっと覚えている。
どれも楽しく、幸福で、大切な記憶の数々である。

これはもうしばらく後の出来事。
芳香が中学生の時だっただろうか。もういわゆる反抗期に入った頃の話である。
ある時芳香がふさぎこんで二日ほど部屋から出てこなかったことがある。
正俊は心配でならなかったが、美代子に聞くと「女の子はああやって大きくなるものなんですよ」と笑いながら言われた。
正俊は美代子が何を言っているのかわからないので不安ではあったが、下手に芳香に手を出しても噛みつかれることがわかっていたので、美代子の言うとおり黙って見ていることにした。
その後部屋から出てきた芳香を見たとき、なるほど逞しくなったような気がする、と正俊は感心しながら美代子を見て頷き、美代子は(私の言った通りでしょう)とでも言いたげに、正俊を見て微笑みながら頷いた。。

ふと気付くと正俊はたくさんの人々と一緒に式場の外にいた。
芳香が新郎と一緒に式場から出てくるのを見た時、不意に正俊は自分の頭の痺れが消えていくような気がした。
そして同時に、涙がすーっと流れた。涙腺が壊れたかのようにボロボロと流れて止まらない涙に、正俊は自分でも驚いた。
「本当に、いつまで経っても泣き虫なんだから」
いつの間にか――いや、ずっと一緒だったのだろう美代子が、自分も涙で潤んだ目つきでそう言った。

「まーちゃんをいじめたら、ゆるさないんだからねっ!」
これはもう、ずっと昔の話である。
正俊は小さい頃は体も小さく、気も弱かったので、周りからからかわれる対象としてひどく適当であった。
そんな正俊に「わたしがまーちゃんをまもるね!」などと言って付きまとっていたのが、近所に住む美代子だった。
その頃の美代子は他の男の子達より背も高く、気も強かったので、周りから一目置かれる存在だった。
正俊が友達にからかわれ、泣き出したあたりで飛び出してきては正俊を背に仁王立ちして「あんたたちそれでもおとこのこなのっ!」とぎゃんぎゃん騒いでいたものだ。
実のところ、美代子が出しゃばるほど「やーい、おんなにまもられてやんのー」と陰でからかわれていたのだが、気の弱かった正俊は美代子にやめてくれとも言えず、一人頭を抱えていたのだった……


78 :NO.21 夢の続きは 3/5  ◇7BJkZFw08A:08/01/14 00:49:45 ID:GNVBbaTt
「ホラ、あなた」
美代子が正俊の背中をつついた。
見れば芳香はもう車に乗っていて、こちらを向いて手を振っている。
その姿を見ると、鉄砲水のような涙が正俊の目から零れ落ちた。
正俊は何か言おうと思ったが、こみ上げる嗚咽を抑えるのに必死で、胸を張ってブンブンと大きく手を振ることしかできなかった。

美代子が正俊に付きまとわなくなったのは、いつのことだったろう。
中学校、いや、小学校、もっと昔のことだっただろうか。
高校生になった正俊は、陸上部に入り、そこそこに活躍していた。
正俊ももうそろそろ少年と青年の境の年頃であり、以前ほどの気弱さはもう無い。
美代子は同じ高校に入ってはいたが、正俊と顔を合わせることは少なくなっていた。
後から知ったことだが、実は美代子はずっと正俊の事を見ていたらしい。しかし年齢が生んだ気恥ずかしさから、中々声をかけることができなかったのだと、後に美代子は語った。
そんなある日のことだった、正俊は美代子に呼び出されて――それから二人は、今に至るまでずっと一緒にいることになる。

ずっと一緒にいたとは言っても、高校を卒業すると二人はそれぞれ別の大学へ行った。
二人の大学は互いに県の端と端に位置しており、二人の関係はまあいわゆる『遠距離恋愛』というやつにはなるのだろうが、問題はありながらもそれなりに上手くやっていた。
問題、と言うのは例えば、ある時美代子が正俊の所持品から正俊と女性がツーショットで写った写真を見つけたことがあった。
普段はあまり怒ることのない美代子だが、怒った時は幼い時のように烈火の如くぎゃんぎゃん怒る。
この時も、さては正俊が浮気したかと早合点してひどく騒ぎたてた。
正俊はサークルの会合の際の写真で偶然映りこんだものだと弁明したし、それは事実だったが、美代子の怒りは中々収まらなかった。
結果を言えば、現在二人が幸せそうに暮らしていることが何よりの証拠だが、長期的な面での問題は何も無かった。
ただ、美代子の怒りを鎮めるために甘いものやら何やら資金が必要で、それが正俊の懐を一時寂しくしたことは、まあ問題と言えば問題だろう。

結婚式も終わり、それから家には正俊と美代子だけが残った。
芳香がいなくなると、家全体になんだか寂しい雰囲気が漂うようになってしまった。
二人は今まで通りの生活をしばらくの間続けていたが、家に入りこんだ空虚さは日に日にその強さを増していくようだった。
犬を飼いましょうか、とある日美代子が言った。
それもいい、と正俊は言った。
それから間もなく二人はペットショップに行き、一匹のまだ小さな柴犬を買い求めた。
名前を何としようか、と二人で話し合うことは楽しかった。

79 :NO.21 夢の続きは 4/5  ◇7BJkZFw08A:08/01/14 00:50:15 ID:GNVBbaTt
いろいろと二人で話し合ったが、結局は、ありがちだがポチと言う名前にしよう、ということになった。
それでも、ポチ、ポチと呼んでいるうちに愛着がわくようになり、次第にポチは家族の一員になった。
ポチは二人の寂しさをいくらか和らげるのに十分な働きをした。
ある時は嬉しそうに跳ねまわり、ある時は粗相をして、ある時は病気にかかったりして。
ポチと一緒に暮らすことで、二人は次第に芳香のいない生活に慣れてきた。

正俊と美代子の結婚式は、ごく普通のものだった。
とは言え二人にとっては、かけがえのない幸福な結婚式であったことは間違いない。
ただ別の意味で心に残る出来事も多かった。
正俊は壇上で喋るときに、あがってしまったせいで言葉をとちってしまい、そのせいで余計恥ずかしくなってまたとちり、終いには自分が何を言ってるのかわからなくなって、隣にいた美代子にバシンと背中を叩かれてようやくパニックを抜け出したなどということがあった。
美代子は美代子で、何の拍子かウェディングドレスの裾を踏んづけてすっ転んでしまうということをやらかした。
しかし、今となってはそれもいい思い出である。

正俊にとってはそれらのどれもが、楽しいとは一概に言えない苦労も多かったが、幸福な記憶だった。

もちろん、それは、今だって――――――

――――

――

「ああ、うん?」
正俊は布団から起き上がった。時計を見るともう昼の二時をまわっている。
確か十時ごろにちょっとひと眠りしようと布団に入っただけで、昼前には起きるはずだったのに。
「あら、起きたんですか」
縁側に座っていた美代子が声をかけた。
「お昼ごはんも食べないで、良い夢でも見てらしたの」
いつもと、あの頃と、変らぬ笑顔で美代子が言う。
「うん、夢を見ていた。長い、楽しい夢だったよ」
夢の続きが今この時であることを、正俊は知っていた。

80 :NO.21 夢の続きは 5/5  ◇7BJkZFw08A:08/01/14 00:50:43 ID:GNVBbaTt
もうずいぶん長い年月がたった。
芳香は子供を生み、二人の孫ができた。正俊も美代子ももう立派なおじいちゃん、おばあちゃんである。
「それは良かったわねぇ。……お茶を入れましょうか」
「ああ、頼む」
美代子はパタパタと台所へ入っていった。
しばらくして美代子が二人分のお茶を持ってきた。
二人で並んで、縁側に座る。
お茶をすすりながら、庭に寝そべって昼寝をしているポチを尻目に飛び跳ねている雀を見る。
ポチも人間で言えばとっくに自分達を超えている年齢かもしれない。
「美代子」
ふと正俊が声をかける。
「何ですか」優しげな声で、美代子が答える。
「ずっと、愛しているよ」
ふふっ、と美代子は嬉しそうに笑った。
「私もですよ」
それを聞くと、正俊は美代子にもたれかかりながら、再び幸せそうな顔で目を閉じた。





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