【 アンダーニース 】
◆QIrxf/4SJM




62 :NO.17 アンダーニース (1/4) ◇QIrxf/4SJM :08/01/14 00:41:20 ID:GNVBbaTt
 小岩井まろやかヨーグルトテイスト【牛乳仕立て】が美味しかった。反して、リプトンアップルティーは百二十円の価値がない。
 あらかた、部屋の片づけを済ませた僕は、二八〇ミリリットルのペットボトルを叩き潰してゴミ箱に投げ入れた後、ヘッドホンで耳を覆った。周囲の雑音が、少しだけ小さくなる。けれども音楽は流れない。
 内部断線という大きな障害が、僕と音楽を離れ離れにしている。ウォークマンは手元にあるのに、音楽とは程遠かった。再生ボタンを連打しても、操作音すら聞こえてこない。
 近くて遠くて、もどかしかった。
 僕はヘッドホンをつけたまま部屋を出て、一階のリビングに向かった。
 階段を降り始めて最初に目に入る、姉が飾った大穴は、その六センチほどの奥行きを生かして可愛らしい人形を置くことによって、絶妙な視覚効果を生み出していた。スポットライトに照らされた、恋人たちの秘密の逢瀬だ。
 リビングでは、姉が掃除機をかけていた。高いお金を出して買った、作動音の静かな掃除機である。そして姉は「ちっとも吸ってくれないんだから!」と怒り、予備のノズルをへし折ったものだ。
 僕は廊下に立てかけてあったほうきを持って、掃除を手伝った。床の端にゴミがたまるように掃き、一箇所に集める。
「集めたから、吸って」僕は姉を手招きして言った。
 姉は何かを小声で言ったようだが、ヘッドホンを貫いて耳に入ってはこなかった。僕はヘッドホンを外して首にかけた。
「ちょっとどいてね」と姉は言った。「こいつが頑張って吸うからさ」
 掃除機は静かに、しかも少しずつゴミを吸い取っていく。米粒がタンクの中で舞い、カタカタと音を立てている。
 吸いきったと思って姉が掃除機を持ち上げると、そこにはまだ紙の切れ端が残っていた。
「ほんと、使えない掃除機ね」
「拾うからいいって」僕は切れ端を拾って、ゴミ箱に入れた。こんな単純なことも、掃除機にはできないのだ。
「ありがと」
 僕は綻びそうな口元をぐっとこらえて言った。「ほうき、しまってくる」

「何か飲む?」僕は聞いた。
「ホットミルク」
「オーケー」
 拾ってきた業務用電子レンジで、ミルクを五〇秒温めた。取り出してみると、ぶくぶくと泡が立っている。息を吹きかけると、泡が弾けてミルクの表面に膜ができた。僕は化学的瞬間を目の当たりにしたのだ。ぶくぶく泡ぶく。
 僕は車に轢かれて死んだ野良猫の死体を思い出した。彼(?)は口からぶくぶくと血を吐いていて、真っ赤な血の泡が、アスファルトの上に固まっていた。
 抱き上げてやると、手には確かな生暖かさが伝わってきた。腕の中で死んでいるこいつは、ついさっき絶命したのだ。僕は野良猫にシーザーという名前をつけて、近くの空き地に埋めてあげた。すごく可哀想な猫だったと思う。
 何度か、シーザーの墓に立てた目印を交換したものだ。最後に立てた石碑は、僕と姉の共同制作である。もちろん、今でも残っている。「赤き最後のシャボン猫、シーザーここに眠る」
 僕は姉にホットミルクを渡した。彼女は器用に小指を使ってミルクの膜をすくい取り、口に運んだ。
「湯葉、おいしい」姉の頬がぽっと赤くなり、口元からため息が出る。
 薄い唇が、ティーカップにくっついて、ずずずと音を立てる。
「湯葉は違うよ」
「他に何て言えばいいの?」


63 :NO.17 アンダーニース (2/4) ◇QIrxf/4SJM:08/01/14 00:41:47 ID:GNVBbaTt
「綾波レイ」
「あんたバカ? もういらないから、これあげる」姉はカップを差し出してきた。半分ほど残っている。
「ありがと」
 姉は立ち上がってエプロンを外し、ソファの上に放り投げた。「さーて、もう一頑張りするわよ!」と言って、髪を頭の後ろで一つに結いながら、部屋を出て行った。
 僕はミルクに息を吹きかけてみた。表面が揺れ、うっすらと浮かんでいた蒸気は吹き飛んだ。けれども膜はできない。同じようで違うミルクだ。
 一気に飲み干して、姉の後を追った。引越しの準備は、まだ少し残っている。

「タフロープ買いに行かなきゃ」
 姉が出かけると言ったので、僕はそのままにしていた髪を梳かしに洗面所に入った。鏡に自分の姿が映っている。
「綾波レイ」と僕は言い、右手で鏡に触れた。手と手が合わさっているように見える。けれども、僕が触れているのは一枚の鏡でしかない。触れているのに、掴めないものが多すぎる。
 髪の毛を整えて洗面所を出た。パーカを羽織って、玄関先で靴を履いている姉に声をかける。「雨降ってるよね」
 玄関先に出ると、案の定雨が降っていた。カエルがケロケロ鳴いている。彼らの合唱はよく聞こえるのに、姿はどこにも見えなかった。豪雨にも負けず、一体どこで泣いているのだろう。
「結構降ってるね」
「傘しまっちゃったよ」
「ええ」姉はため息をついた。
 引越しの準備は、もう半分以上終わっているのだ。傘もレインコートもどこかのダンボールの中で眠っている。
 びゅうと風が吹いた。吹き込んだ雨に顔が濡れて、僕は目を瞑った。
 風が止んでから目を開けると、足元にアマガエルが一匹佇んでいた。僕を見上げて生意気にケロケロ鳴いて、ぴょこぴょこ去っていった。
「なんて名前かな、あのカエル」僕は言った。
「ケロ助」
「女の子だったら?」
「ぴょこ美」
「僕たちに、さよならを言いにきたのかな?」
 そのとき、アマガエルがもう一匹、僕たちの前を横切った。体を雨粒に打たれながらも、俊敏にぴょこぴょこ跳んでいく。まるで、何かを追い求めるかのように真っ直ぐ前だけを見据えていた。なるほど。この子は、もう一匹に追いつけるだろうか?
「さよなら、ケロ助とぴょこ美」と姉は言った。
 僕は心の中でひっそりと、遠ざかっていくカエルを応援した。あんなに近いのだから、きっと追いつく。
「はあ、行く気失せたわ。できるものから箱に詰めていきましょ」
「無くてもなんとかなると思うよ」
 引越し屋は、二十時過ぎにやってくる。それまでに、準備を終わらせなくてはならない。
 再び風が吹いた。すぐさま目を瞑る。僕の前半分はびしょ濡れだ。

64 :NO.17 アンダーニース (3/4) ◇QIrxf/4SJM:08/01/14 00:42:18 ID:GNVBbaTt
 目を閉じたまま振り向くと、姉はぷっと吹き出した。
「ひっどい顔ね。――いらっしゃい」
 姉に手をひかれてリビングに戻った。姉はダンボールをあさってハンドタオルを取り出し、僕の顔を丁寧に拭ってくれた。

 部屋に戻って、ノートパソコンの電源を入れた。起動音がして、綾波レイの謎めいた表情が、画面いっぱいに映し出される。僕は彼女の頬を撫で、そしてパソコンの電源を落とした。
「違う」僕は呟いた。触れることすら叶わない。触れているのならば、掴むことができて当然だ。
 ノートパソコンをたたんで電源コードを巻き、専用のケースにしまう。
 僕は必要なものを全てダンボールに詰め、ガムテープで封をした。箱は全部で二つになった。
 僕はそれらを重ねて持ち、パソコンを脇に抱えて階段を下りた。
 リビングでは、姉が食器を新聞紙に包んでダンボールに詰めている。
「二階は終わったよ」ダンボールを廊下に置いて、僕は言った。「勉強道具を合わせて二箱なんて、悲しくなるよ」
「そんなもんでしょ。家具は別なんだし。そこのガムテープ取って」
 僕は足元のガムテープを拾い、ダンボールに封をした。姉はサインペンで食器(ワレモノ)と書いた。
 外さずに残っていた鳩時計が、十八時を告げる。
「ご飯、何がいい?」
「冷蔵庫の中身、全部使おう」
「そうね」
 姉がエプロンをしてキッチンに立っている間、僕はダンボールに物を詰め続けた。
「そうだ、カーテンはずさなきゃ」
 僕は外して回ったカーテンを丁寧に折りたたみ、フックは袋にまとめて、同じダンボールに詰めた。ガムテープで箱を閉じ、カーテンと記す。
 それから僕は、一つ忘れていることに気がついた。
 椅子を踏み台にして窓のカーテンを外した。ついでに窓を開けて、外に手を伸ばす。激しい雨が、僕の手に降り注いだ。
 手を引っ込めて、ズボンで雨水を拭うと、窓の隙間から二匹のカエルが顔を出した。
 彼らは二匹ならんで窓の前に佇み、喉を膨らませたり萎ませたりして僕を眺めていた。
 ケロケロ、とぴょこ美が鳴いた。
 ケロケロ、とケロ助が鳴いた。
 僕は椅子から降りた。カエルたちは動かずに喉元だけをひくひくさせている。大きな黒目がきらきら光っているようだった。
「よかったね」僕は言った。
 ダンボールに窓のカーテンを入れると、鳩時計が十九時を告げた。
「おまたせ」と言って、姉が得意げに料理を運んでくる。


65 :NO.17 アンダーニース (4/4) ◇QIrxf/4SJM:08/01/14 00:42:39 ID:GNVBbaTt
 それは、紙の皿に盛られた謎のあんかけ料理だった。艶やかに照り輝いて、薄っすらと湯気が立っている。
「千宝菜よ」
 次いで、姉はフライパンとコーヒーの入ったデカンタを持ってきて、テーブルの上に置いた。コーヒーを紙コップに注ぐ。
「いただきます」僕たちは向かい合って、割り箸を袋から取り出した。
 僕は無言で食べた。味に文句は無かったし、話しかけてこなかったので黙っていたのだ。そして、皿の千宝菜はすぐになくなった。
「食べ終わった感想は?」と姉が言う。
「まずまずかな。だけど足りないからもう少し」
 僕がフライパンに残った千宝菜を取ろうと箸を伸ばしたとき、姉はフライパンをひょいと持ち上げて言った。
「そんなことを言う人には、あげないんだから」
 僕は席を立ち、姉の側に寄って訴えかけた。「お腹すいてるんだから、冷めないうちに食べさせてよ」
「だーめ。だめったら、だーめ」と姉は言い、フライパンを頑なに庇った。
 僕が腕を伸ばし、姉がフライパンを振り上げる。
 千宝菜が床に落ちた。僕はあんかけでぬめった白菜を踏み、体勢を崩した。
 なんとか持ちこたえようと、姉の服を掴む。
 僕は姉に被さるようにして倒れた。弾みで、手にやわらかいものが触れる。
 瞬時に悟った。僕の右手は、姉の左胸に触れている。
 ケロケロとカエルが鳴いた。
 僕はそっと、右手に力をこめた。優しく握り、声を絞り出す。
「好き」
 姉の頬はみるみるうちに赤く染まっていった。「それ、セクハラ!」
 姉は僕を突き飛ばして立ち上がり、そっぽを向いた。その背中は、あんかけで汚れている。
「ねえ」僕は体を起こして、姉を呼び止めた。
 姉の足がぴたりと止まる。
「お願いだから、セクハラで訴えたりしないで」
 姉は僕の方を向き、頬を膨らませて睨んできた。
 しばらくの沈黙が続いた。僕には、この沈黙を破ることができなかった。
「バカね」突然、姉はぷっと吹き出したのだ。「合意の下ってことにしてあげる」
「え?」僕は白菜を踏み、盛大に尻餅をついた。
「なにやってんの。早くしないと、引越し屋さんが来ちゃうわよ」
 窓の方からケロケロと、嬉しそうな鳴き声が聞こえた。



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