【 だから私はゆっくり歩く 】
◆bsoaZfzTPo




43 :No.11 だから私はゆっくり歩く 1/4 ◇bsoaZfzTPo:08/01/14 00:01:50 ID:6apdyFRS
 学校からの帰り道、私は謎の感情に支配されていた。
 心の赴くまま声を出して良いのなら、私はたぶん、「ばかやろー」と叫んでいただろう。
 何に対して叫びたいのだか、自分でも良く分かっていないのに。
 運命とかいう名前の神様か、朝の占いで最下位だった牡羊座か、自分すら理解できない私自
身か、それとも隣を歩いている幼馴染みに、だろうか。
 家が隣で、家族ぐるみの付き合いをして十四年。誕生日は三日違い。ただし、私は四月の二
日生まれで、コウちゃんは三月三十日の早生まれだ。
 年の差がほとんど一年あるから、昔からずっと、私はコウちゃんのお姉さんだったのだ。
 幼稚園の遠足で、私はコウちゃんの手を引いて歩いた。小学二年生のときは、九九をなかな
か覚えられないコウちゃんにつきあって、何日も居残りした。通学路に現れた大きな犬におびえ
て泣いていたコウちゃんを慰めたのも私だ。
 コウちゃんだって、私のことを「春子ちゃん、春子ちゃん」と呼んでは後を着いてきていたの
だ。中学にあがってからは、どちらからともなく、ちゃん付けをやめて、普通に下の名前で呼び
合っていたが、私の中では今でもコウちゃんはコウちゃんで、かわいい弟分だったのだ。
 ついさっきまでは、そうだったのに、今は違った。不意打ちだった。裏切りだった。

 冬休み明けの初日から日直が当たってしまった不運な私は、一人で黒板を消していた。
 初日ということで給食なし。当番日誌を書いて、ゴミを捨てて戻ってきたら、クラスメイトたちは
お昼ご飯を食べるためにみんな帰ってしまっていた。
 黒板には三学期の予定が書き込まれていたが、担任の宮越が後の人にも見えるようにと気
をつかったせいで、ほとんど最上部から文字が書いてあった。
 文字は私が背伸びをしてようやく届くか届かないか、という高さで、少し消しては横に移動して
また背伸びをして消す、と大変面倒くさかった。
 コウちゃんはそこに現れた。コウちゃんのおじさんとおばさんは共働きなので、今日のお昼は
私の家で一緒に食べることになっていたのだ。
 私は、日直の仕事が終わるまで待ってて、と言ったのだけれど、コウちゃんは小さく笑って、手
伝う、と言ってきた。
 もう一つの黒板消しを持ったコウちゃんは、ひょいと手を伸ばして文字を消した。最上段から、
あっさりと。

44 :No.11 だから私はゆっくり歩く 2/4 ◇bsoaZfzTPo:08/01/14 00:13:16 ID:+muDw9oy
 私がそれに驚いている間に、コウちゃんの腕はざっざっと動いて、まだ半分ほど残っていた黒
板の文字を全部消してしまったのだった。
 そして、黒板消しを置いたコウちゃんは、帰ろうか、春子。と言って笑った。

 つまりは、それが不意打ちで、裏切りだった。
 コウちゃんは――光司は、いつの間にか私よりも大きくなっていた。
 私の中に渦巻く謎の感情は、そうやって生まれたのだった。私は何に「ばかやろー」と言いた
いのだろうか。
「春子、俺の声聞こえてる?」
「え?」
 唐突に名前を呼ばれて、私は思わず声をあげた。いや、台詞の内容から考えるに、唐突でも
なんでもない。ただ私が話を聞いていなかっただけだ。
「ごめん、聞いてなかった」
 謝りながら顔を向けると、目を合わせるために自然と視線が上を向く。ただ私が意識していな
かっただけで、気付いてしまえばはっきり分かるほど、身長に差がついていた。
「別に大したことじゃないけどさ。今日の昼、おばさんが何を作るか分かるか、って」
 本当に大したことのない話だった。けれど、いつも通りの私たちの帰宅風景でもある。いつも
通りでないのは、私だ。
「えっと、何だろう。作るの楽だから、丼ものとかかも」
「本当に? おばさんの親子丼、美味いからなあ。俺、あれ好きなんだよ」
 私がとっさに考えた適当な返答で、光司は嬉しそうに目を細めた。なんだか罪悪感がわいて
きて、目をそらした。冷蔵庫の中に鶏肉はあっただろうか、と思いを巡らせてみたが、どうせ家
に帰ったころにはもうお昼ご飯ができてしまっているだろう。
「どうした? 難しい顔して」
 問われて、眉間にしわが寄っていたことに気付いた。慌てて表情を戻して、笑顔を作った。
「いや、なんでもないよ」
 と、顔を向けようとして、思わずのけぞった。光司が体をかがめて、私の顔をのぞき込むよう
にしていたのだ。単純に顔の高さが同じになったというだけなのに、私は顔が近すぎると思い、
焦ってしまった。
 本格的に、今日の私はおかしい。きっと、全部、謎の感情のせいだ。

45 :だから私はゆっくり歩く 3/4 ◇bsoaZfzTPo:08/01/14 00:17:33 ID:GNVBbaTt
 私は普通に歩くふりをしながら、左の方へじりじりと体を移動させる。光司の隣三十センチか
ら、六十センチにまで距離をとった。たぶん、気付かれなかったはずだ。
 しばらく歩いていると話題が途切れて、私たちは口を閉じた。
 沈黙が気まずい、という話は良く聞くし、理由もわかる。私だって、学校の友達と一緒にいると
きに、長い時間だまり続けているのは気まずいと思う。
 けれど、光司ならそれほど気にならない。何か話したいことがあれば、光司は言ってくるだろう
し、それは私だって同じだからだ。
 けれど、だまった分だけ、まわりの音が良く聞こえるようになった。
 足音が二つ。もちろん、私のと、光司のだ。
 光司の足音は、私のものよりゆっくりだ。私が四歩進む間に、光司は三歩しか進まない。
 私に合わせているのだ、と気付いて、私の中の感情が、かっと熱くなった。
 足に力を込める。大きく踏み出す。ただし、歩調は変えずに。
 大股で歩き出して三歩、私はしまった、と思った。突然こんなことをして、光司が変に思わない
わけがないのだ。
 だけど、今また元の歩幅に戻すと、さらにおかしな話になるので、私はそのまま歩き続けた。
 何か言われるかと思ったが、光司はだまったまま、歩調を早めた。私と光司の足音が重な
る。謎の感情は、大きく、熱くなるばかりだ。
 私は、無言でずんずん歩く。光司の気配は、私の右隣六十センチを保持したまま、変わらず
ついてくる。
 視線を少し横に向ければ、光司の顔が目に入ることはわかっていたが、今はちょっと見たくな
かった。だから、文字通り脇目もふらずに大股で歩いた。
 家の近くの道にさしかかったとき、後から大きな排気音がした。振り返ると、細い道なのに、凄
い速度で、車が走ってきていた。
 私はいつもより、三十センチ、車道側にいた。
 危ない。
 そう考えたのと、右腕が凄い力で引っ張られたのは、同時だったと思う。
「あっぶねえな、あの車」
 気付いたら、光司に体ごと抱えられていた。顔が近いどころか、体がくっついていた。
「あ、悪い。突然だったから強く引っ張った。痛かったりしないか?」
 光司はそう言って、すぐに手を離した。


46 :NO.11 だから私はゆっくり歩く 4/4 ◇bsoaZfzTPo:08/01/14 00:18:40 ID:GNVBbaTt
「だ、大丈夫。ありがとう」
 私がお礼を言うと、光司は気にするな、という風に手を振って笑った。
 歩き出そうとしたら、もう一回手を捕まれた。引っ張られて、体の位置が光司と入れ替わる。
「春子、そっちな」
 私の現在位置は、光司の右隣、手をつないでいるから、ゼロセンチ。歩道がわにいれられた
のだった。
 私は今こそ、謎の感情の正体がわかった。
 背が伸びた。顔が近くて驚いた。歩く速度を合わせてくれていた。車から私を助けてくれて、歩
道がわにいれてくれた。
 光司は、私の弟分だったコウちゃんは、いつの間にかちゃんと男の子になっていた。
 ずっと隣にいたくせして、全然気付かなかった。そのくせ、気付いた途端に光司の男の子くささ
がたくさん見えてきて、とまどっていたのだ。
 ばかやろー、と言うべき相手は、どうやら私自身だったようだ。
「急に女の子扱いしないでよ、ばか」
 それなのに、私はそっぽを向いて、そう口に出していた。
 光司の笑いを含んだ声が耳に入ってきた。
「ばかはどっちだよ。ここ二年ほど、ずっと春子のことを女の子扱いしてたのに」
 体中が赤くなったかと思った。一気に二度ほど、体温が上がったような気がした。つないだま
まの手から、光司に伝わってしまうんじゃないかと考えると、さらに恥ずかしくなった。
「いつまでもそっぽ向いてないで、行こうぜ。おばさんが昼を用意して待ってる」
「わかってるわよ」
 私は歩き出した。できるだけゆっくり。光司は歩調を合わせてくれるはずだ。
 こんな熱い顔のまま、家に帰るわけにはいかない。冬の風にあてて、頬の火照りを冷ましたか
った。
 ああ、でも、どうしよう。
 この手は、しばらく離したくなかった。離さないと、顔はいつまでも熱いままな気がした。
 私は、歩く速度をさらに遅くした。
 光司の手が、私の手を、ぎゅっと握った。

       <了>



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