【 街中の野生 】
◆nsR4m1AenU




82 :No.21 街中の野生 1/5 ◇nsR4m1AenU:08/01/06 23:32:23 ID:BZa8+mJh
 外がなにやら騒がしい。
 眠い目をこすりながら俺はカーテンの端をつまんだ。少しめくってから、目に刺さるようなまばゆさに顔を少
し背けた。
「くそ。なにが爽やかな朝だ」
 いまいましげにそう言いながら、俺は首を何度も振った。
 再びカーテン隙間から外を覗く。目を閉じたくなるのを歯を食いしばって耐えた。ベランダのあちこちへ視線
を走らせる。
 枯れ枝が突き刺さる植木鉢に、ビールの空き缶数個。いつもと変わらない光景だ。
 そんなベランダの隅っこに何だか分からない塊がある。幾分艶のある黒い塊。だいたい一升瓶の太いところく
らいの大きさだ。
「なんだ?」
 音を立てないよう注意しながらサッシを開く。ゆっくりとベランダのすのこへ左足先を乗せた。
 その動きに反応したのか、黒い塊は頭をもたげ、ビーズのような目で俺を睨んだ。
『ガァ』
 その声に思わず俺は動きを止めた。
「カラス……か?」
 様子をうかがいながら泥棒のように一歩ずつ近づく。
 カラスの目の前で俺はしゃがみ込んだ。信じられないことに、カラスは逃げるような素振りすら見せない。僅
かに艶のあるくちばしは太く、なんでもかみ砕きそうな迫力がある。
 しばらく様子を伺ってから、俺はカラスの背中へそっと手を乗せた。手の平へ柔らかな温かみがじんわりと伝
わる。
 その間ずっとカラスは身じろぎひとつせず、ただ目を細めていた。

 カラスをなでる手を引っこめ、俺は膝を抱えるようにして座り直した。
 こいつが病気かどうかなんて俺が見ても分からない。それに街のカラスとはいえ野生動物だ。下手に救いの手
を伸ばすのは問題だ。ここへ放置するか? いや、ベランダでこのまま死なれても困る。かといって保険所へ持
ち込むと、野良犬と同じように殺されるかも知れない。仕送りが底をつきつつあるので獣医師に見てもらうこと
もできない。かといって何もしない訳にもいかない。
「今の自分に出来ることをやるか」
 腕を伸ばしてうめき声を上げながら俺は言った。

83 :No.21 街中の野生 2/5 ◇nsR4m1AenU:08/01/06 23:33:26 ID:BZa8+mJh
 チェックのシャツとジーンズに着替え、まずはアパートから出た。
 カラスの生態が載っている本を図書館で借り、一通り読んでからペットショップへと走る。九官鳥用のエサを
仕入れてから再びアパートへと戻った。
 新聞紙を底へ敷いたダンボールを用意し、それをベランダへ置く。
 念のために軍手をはいてから、隅っこでうずくまるカラスをそっと抱き上げた。
 思いのほか骨っぽく柔らかい。大きさの割に凄く軽い。空を飛ぶのだから当然といえば当然だが、それがカラ
スを一層弱々しく感じさせた。触るだけならまだしも、抱きかかえればさすがにつつかれるかと覚悟していた。
たが、野生動物の割に暴れようともしない。
「お前、もうちょっと抵抗しろよな」
 憎まれ口でそう言ったが、カラスがそうしない理由くらい俺にも分かっている。それだけ衰弱しているのだ。
 ダンボールの中へカラスを収め、エサと水を茶碗に満たしてダンボールの中へ置く。そっと部屋へ戻った。
「今はこのくらいしかできねえな」
 ため息交じりの声で俺はそう言った。ベランダへ背を向け、万年床の上で座り込む。肩に重いものを感じた。

 次の日から毎朝、俺は『ガア』と鳴く声に起こされるようになった。
 エサをやれば黙る。そして無視しているとこいつは延々と鳴き続けかねないことにもすぐ気づいた。弱々しい
声とはいえカラスの鳴き声だ。近所の手前、起きない訳にもいかない。
 俺はエサと水を与え、新聞紙を交換する。最初は殆ど手をつけなかったエサも、日が経つにつれ少しずつ食べ
るようになり、それに応じて新聞紙も汚れる。汚いとは思わない。元気な証拠だ。
 当初から俺を取り巻いていた不安の霧、それは少しずつだが薄れていった。

 ある朝、俺は鳴き声に起こされながらも、カラスが人の言葉を喋るという話を思い出していた。
 人の言葉を真似る動物、それはオウムや九官鳥だけではないという内容だったと思う。
「ま、知能も結構あるみたいだからな」
 着替えてからベランダへ出て、エサを手にしたままダンボールの中を覗き込む。
 「おなかすいた」
 と、抑揚の無い声で俺はカラスへ話しかけてみた。
 すぐに耳を澄ませる。だが、聞こえてくるのは近くにいるスズメの鳴き声だけだ。
「おなかすいた」
 俺は再び話しかけてみた。

84 :No.21 街中の野生 3/5 ◇nsR4m1AenU:08/01/06 23:34:23 ID:BZa8+mJh
 カラスは首を傾げてじっと俺を見つめる。まばたきを繰り返すだけで喋るどころか鳴こうともしない。
 そんな純朴なカラスの表情を見ていると、なんだか気恥ずかしくなってきた。
「いやすまん、俺が悪かった」
 かすれて消えそうな小声で俺はそう言い、片手で頭をポリポリとかいた。
 うめき声と同時に腰を伸ばす。部屋へ戻り後ろ手でサッシを閉めようとした。
「あ、エサと水をやってねえや」
 思い出したように俺がそう言った瞬間。
『おなかすいた』
 ベランダからダミ声がはっきり聞こえてきた。
 その声に、感電したようにように俺は全身が硬直した。
 ゆっくりと肩越しに例のカラスを伺う。サッシの向こうでダンボールに収まり切らない真っ黒な背中が見えた。
 艶のある羽を僅かに動く。貫禄あるくちばしで再度『おなかすいた』と、いがらっぽい声でカラスは言った。
 俺は心臓が高鳴り、呼吸も速くなるのを感じた。声に出して叫びそうになるのを俺はかろうじて押さえこむ。
適当なことを叫ぶとカラスはそれも覚えてしまう。喋ってほしい言葉だけを口に出さなければ。
 大急ぎでカラスのもとへ戻った俺は、調子に乗って他の言葉も教えようとした。
”お兄ちゃん”
”えっち”
 の二つだけを繰り返し言い聞かせる。正直、他人にこんな光景を見られたくはないと思った。
そんな恥ずかしげな努力も空しく、結局『おなかすいた』以外の言葉をカラスが喋ることはなかった。
「まあ、ひと言喋るようになっただけでも上出来だよ。凄いじゃん。それも、あんないい加減な教え方で覚えた
んだし」
 これがカラスのお礼なのかも知れない。もうちょっと色気のある声が好みだが。

 そして次の日。
 カラスよりも早く俺は目を覚ました。薄いカーテンが薄紅色に染まっている。日の出ギリギリくらいか。枕も
との安物デジタル置時計は六時を示していた。
 昨日教えた『おなかすいた』を待ってからエサをやろうと待ち構える。毎晩、エサと水は枕もとに置いてある。
あまり長いこと鳴かれても近所迷惑だから、すぐに世話ができるよう準備してあるのだ。
 だいぶエサの食いつきも旺盛になった。今日は九官鳥用のエサだけではない。ゆで卵と煮干付だ。さぞかし喜
ぶことだろう。

85 :No.21 街中の野生 4/5 ◇nsR4m1AenU:08/01/06 23:35:23 ID:BZa8+mJh
 だが、いくら待ってもカラスは”おなかすいた”とは言わなかった。代わりに、
『お兄ちゃん』
 と喋った。
「あれ?」
 確かにそれも教えた。だが昨日は一度も喋らなかった筈だ。それに昨日のガラガラした声とは全然違う。トー
ンは幾分高く、澄み切った女の子の声だ。
 俺は薄いカーテンの向こうを凝視した。
 うっすらとダンボールが見えるベランダ。その隣にもっと大きなものが見える。カーテンのたわんだ影か?
 力を込めて俺は何度もまばたきをした。そして再び凝視する。
 どうやら、人間の影だ。男ではなく明らかに女の体型で、背は大人よりも少し低い。
 一気に俺の脳みそから眠気が吹き飛ぶ。万年布団を跳ね飛ばし大慌てでカーテンを開けた。
 だが、そこには人間はいない。いるのはベランダの手すりに止まったカラスだ。
『お兄ちゃん、もうおなかいっぱい。大好き。ありがとう』
 目の前でカラスはそう喋った。
 だが、俺は”おなかいっぱい”とか”ありがとう”なんて教えた覚えは無い。
 俺は大慌てでサッシを開き、全力でベランダへと飛び出す。
 カラスは何を思ったのか、大きな羽を広げてゆっくりと背後へ落ちていった。
「くそっ、おい!」
 いまいましげに俺は腕を伸ばした。だが指先は全く届かない。手すりにしがみつき、俺はカラスが落ちていっ
たであろう真下を覗き込む。
 カラスが道路スレスレで滑空しているのが見えた。アパートの向こうにある雑居ビルへ真っすぐ向かい、ひら
りと右へ旋回する。羽ばたきながら高度をぐんぐんと上げ、もっと先にあるビルを迂回するよう回り込む。
 そして、その姿が俺からは見えなくなった。
 少し視線を起こした。同じ方向、薄紅色に染まる空や雲をバックに黒い点が幾つも見える。車のエンジン音に
混じって、かすかにカァ、カァと聞こえてきた。
「カラスのご出勤、か?」
 毎朝カラスはネグラから餌場へと移動する。今見ている光景も初めてではない。麻雀の朝帰りで何度も目撃し
ている。
 飛び去った方向からすると、さっきのカラスはこの群れへ加わったのだろう。
 ご出勤を見送りながらも俺は、さっきのシルエット、それと女の子っぽい声を思い出していた。

86 :No.21 街中の野生 5/5 ◇nsR4m1AenU:08/01/06 23:36:10 ID:BZa8+mJh
「しつけて喋るわけじゃないんだな。よく分からないけど、不思議なカラス、なんだろう」
 ゆったりとした口調で俺は言った。だからといって怖くはない。何よりも無事飛び立てたことが嬉しい。だが、
どこか悲しい気もした。
 見事な朝焼けを全身に受けながら、俺は鼻の奥が熱くなるのを感じていた。

 そして次の日。またベランダが騒がしい。
 俺は万年布団から顔を出し、カーテンへ視線を向けた。
 シルエットが見える。昨日のように女の子っぽい影がゆらめいていた。だが、それは一人のものではない。サ
ッシの向こうで幾つもの影がひしめきあっていた。朝日で薄明るいはずの部屋が少し暗い。
『マジぃ?』
『うん。だって私、お兄ちゃんにずっとお世話になったもん。すっごく優しかったよ。でも……迷惑かも』
『大丈夫だって! 人間なんて私の色気で』
『みんな、今日からお世話になるんだから何かお礼を考えておくこと。いいわね』
『はーい』
『お礼って何するの? 人間のオスなんだよね? そしたら』
 明らかに複数の女性、いや女の子達。女子高生がバス停か電車で喋っているかのようだ。そこが本当にアパー
トのベランダなのか、と、いささか疑わしく思えた。
 その声と話の内容に、俺の心臓が高鳴り、耳が熱くなってきた。
 いや、ときめいている場合じゃない。何が起こっているのかは予想がつく。これは異常事態だ。
 ゆっくりと息を吸い込み、そして吐く。万年布団をそっとめくる。起き上がって窓のそばへ立ち、カーテンを
そっと摘んだ。心の動揺が鎮まるまで数秒待つ。奥歯を食いしばりながら一気にカーテンを開いた。
 一瞬、俺の呼吸は止まり、カーテンをつまむ手も硬直した。
 ベランダが艶のある黒で埋まっている。数十の黒く透き通った瞳が一斉に俺を見つめた。
 なんだこの数は。ひょっとして俺は、野生動物を地引網のような勢いで餌付けしてしまったのか?
 しかし、それにしても、どうして。
「お前等、どうして中途半端に声と影だけが女の子なんだよ!」
 俺は心の底から叫び声をあげた。
                     完



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